何の気なしに首を括る
韮崎旭
何の気なしに首を括る
何の気なしにケーブルで首を括った話をすると、
「え、何かあったんですか?」
と尋ねられた。
「何かって、何ですか」
「何かって、例えば、首を括りたくなるようなうとましい事態……自我の混乱とか」
「何かないと、首を括らないんですか」
「まあ、括らないんじゃないですか」
「何があれば、ではかような行為に至っていいのですか。いやつまりあなたは、私に何を求めているのですか」
「あなた、死んでましたよ」
「死んでいるかもしれませんね」
「死んでたんですよ」
「いえ、でもいま、恐らくは死んでいませんよ、あなたも死んでいるのでない限りはね」
「実は、橋梁から飛び降りたんです。12月の、曇りの日のことでした。あの日はとてもさむくて、放射冷却が起きないのにこんなに寒いなんて、神は間違えていると思いました。私はそんな間違いの一環として、当時何を製造しているのかわからない会社の事務を担当していました。連日のデスクワークで身体の各所に無理が生じていて、腰痛、耳鳴り、などに慢性的に悩まされていたし、ここ2,3か月は食欲もかなり減退して、カップ春雨しか喉を通らず、それも半分程度食べただけで吐き気を催してきたので、残りは流しの三角コーナーに破棄していました。そんな毎日が続き、唯一の楽しみだった交通死亡事故画像の鑑賞すら楽しめなくなってきていました。気が付いたら、医者からもらった睡眠薬をがぶ飲みしていて病院でした。その頃は、不眠も患っていたのだと思います。でも、睡眠薬のせいか、不眠のせいか、はたまた、他の理由によるものか、何をしていても現実感がなく、ぼうっとしていました。仕事上のミスが相次いだので、解雇されるのも時間の問題だともいましたし、解雇されるという不安から常に更に不安が強くなり、心なしか胃を傷め始めている気すらして、だからといって病院と言うのは、検査という大義名分のもと、何か重量感のある機材を無理やりに飲み込ませる恐ろしいところだと、認識していましたから、その胃のことについても、産業医に何か相談することはなく、また、産業医は話が通じないタイプの人間だったので、相談などもってのほかでした。相談したら、きっと恐ろしいことになる、という確信だけがありました。そもそも、私と会話が通じるのは、異常者だけでした。私も異常者なかもしれません。その思いが日に日に強くなり、とうとうやむを得ず食べていた春雨を食べることもできなくなりました。そんな折、久しぶりに太宰治の『姨捨』を読みました。死のうと思いました。もちろんのこと、『姨捨』はそうした話ではありません。『姨捨』に致死的な作用はありません。致死的だったのは、私の方なのです。だから私は死ぬために、何の下準備もせず、遺書も書かず、旅行の準備だけをして、橋梁に向かいました。遠かった。非常に、遠くて、電車で行く道すがら、私は非常に退屈しました。そして、なんてばかばかしいことをしているのだろう、と思いました。笑いがこみあげてきました。全く楽しさのない、感情のこもらない、陰湿で空っぽな笑いでした。私は宿泊施設にチェックインすると、荷物を部屋に置いてから、より軽い荷物だけをえりすぐって持ち出し、文庫本などもそこに含め、橋梁を目指しました。心霊スポットとして有名なので、きっと死ぬだろうと思いました。私はその後、橋梁から飛び降りました」
「しかし私には、特に理由がないのです。あらゆるものの賞味期限を切れさせてしまうという危惧、ものを腐らせるのではないかという憂慮、自分の存在が過ちなのではないかという確信、思い付き、それ以外に、何が私に首を括らせましょう?」
「首を括るからには、何かの理由があるはずです。私には、春雨が食べられなくなってからもっぱら異常者として生きて行かざるを得ず、自分自身の異常性に堪えられなくなったというれっきとした理由がありました」
「私は異常者ではないので、理由がなくとも首を括って自殺を図ることができます」
「でも物語で、新聞で、人間は理由があって首を括ります」
「それは読者が納得できる理由を求めるからにすぎません。実際のところ、人間は常に自殺することができるのです。その敷石を踏むかどうかはその人の気分、天候、体調、などによりランダムに決まります。私はちょうど首を括りたい気分だったので、そうしたというだけです」
「このチーズケーキ、重量感があっておいしいですね。密度が高い感じがします」
「でしょう?ではいただきます」
そうして私はその人の脳天にナイフを突き刺した。死ぬのは誰でもいい。その人の脳は明らかにチーズケーキよりもまずかったし、血が辺りを台無しにしてしまったので、私はその後自分の腕を切り落としてごみ箱に捨てた。それから音楽を聴くことにした。
やっぱりジャパニーズラウドロックはテンション上がりますね。
何の気なしに首を括る 韮崎旭 @nakaimaizumi
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