第6話
「アルウゥゥゥ!」
昼下がりのリポリ村。『巻き貝亭』のドアを開けると、カリンが飛んできてアルに抱き付いた。
くせのあるふわふわの髪と同じ、栗色の瞳いっぱいに涙が溜まる。
「おかえり! 怪我はない? ご飯食べた? なんか大きくなった?」
「カ、カリン。ちょっと、ちょっとまって……」
兄弟のように育ったとはいえ、年頃の娘であるカリンに抱き付かれると、少し狼狽してしまう。
小さな背には不釣り合いな大きな胸が、アルの胸にぎゅうぎゅう押し付けられて、湿った吐息が首筋にかかる。
「もう秋になっちゃうよ。でもお祭りに間に合って良かったねぇ。あ、ねえ試合ってどうなったの? 勝ったの? ぶたれた?」
「カリン、カリン、ちょっと落ち着いて」
カリンを体から引きはがしながら、助けを求めるようにキッチンの奥を見る。
ずんぐりとした丸いシルエットが、パタパタとせわしなくこちらへ来る。
「まあ、誰かと思えばアルか! ちょっと見ないうちに大きくなったかね?」
マリアおばさんが、カリンを巻き込むように抱き付いて、アルの息をまた止める。
「まったく、もう三か月にもなるよ。夏が終わっちまうじゃないか!」
「お、おばさん……ちょっと……」
「おい、せっかく無事に帰ったのに、アルが死んじまうぞ」
扉の向こうからセイが笑う。
「あ、ししょーさん! ししょーさんもおかえり!」
カリンがセイに飛びついて、同じように矢継ぎ早に質問を投げかける。
「カリン、待て! 犬じゃねぇんだから。無事だよ。俺も、アルも、無事だ」
「当たり前だ、このロクデナシ!」
今度はマリアがセイに近づき、ぽこんと頭を叩いた。
「何の相談もなく、金だけ借りて出て行って!」
「ご、ごめんよ、おばさん。とにかく、話はするからさ!」
セイは珍しく身を小さくして謝った。
王都から徒歩で二十日ほどの、ここリポリ村は、さして大きくもないものの、東の山を越えるための南に曲がる街道に面して、旅人に重宝されている。
冬の間は豪雪で、訪れる者はまばらだが、春から秋にかけては、回り道を嫌った商人たちが山を越えるため、このリポリ村で憩うのだ。
必然、村には宿屋と食堂、そして馬装具や乾物屋が多くなり、マリアが経営する『巻き貝亭』も、小さな宿兼食堂として大いに繁盛している。
アルとセイは、『巻き貝亭』からさらに歩いて、山の二合目ほどにある、猟師小屋を補修した小屋に住んでいる。
普段は一か月に一度か二度、山を降りて生活に必要な物を買い、ついでに『巻き貝亭』で食事をして、泊まるのだ。
とは言っても、客として金を払うわけでは無いので、その都度店を手伝う。
師弟がマリアに「生活費」を借り、書置きをして『巻き貝亭』を出立したのは、初夏の日差しが強くなるころ。
「絶対に反対されるが、何も言わずに消えると心配をかける」
という微妙な問題を解決するためにやったことだが、実際これ以外の手段はなかっただろう。
マリアはアルが怪しい武術に傾倒して武人になることには、かなり積極的に反対していたし、カリンはカリンで、アルが体に痣を作るたびに、顔をくしゃくしゃにして泣きながら、必要以上の手当てを繰り返す。
セイも、アルが武人になることに対して、諸手を挙げて賛成、というわけではない。だが、武術を教えるとなれば、それなりの環境が必要だということで、打ち捨てられた猟師小屋を貰い受け、そこに移り住んだのだ。
もう八年も前の話だ。
ところが、移り住んだはいいものの、師弟には収入の当てが全くなかった。
セイが大きな仕事をした後で、ある程度の蓄えはあったものの、生きるだけで金は出て行く。ついに何年も前から行き詰ってマリアへの借金が増えていく。
「帰ってくりゃいいんだ。あんたら二人がここで働きゃ、食い扶持くらいは出してやる。金は汗水流して稼ぐものさ」
マリアはそう言いながらも、二人が困らないように金を貸してくれたし、冬の間は服や靴を繕ってくれた。
カリンも、暇な時間を見つけては小屋にやって来て、美味い料理を作り、掃除をして、人間らしい生活を確保してくれた。
「だからほら、まずは金を返すよ」
ガシャン。
と大きな音を立てて、セイがテーブルに乗せた革袋には、金貨があふれるばかりに詰まっていた。
マリアとカリンは、それを見て目を丸くした。
「あんたたちコレ……まさか盗……」
「違うよ!」
師弟は声を上げた。
無理もない。
事件のせいで王覧試合は中止されたものの、暗殺者を撃退し、王の命を救ったというこの上ない働きに対し、ニウルス王自らがアルに下賜したのは、金二百万タントという大金だった。
本来はそれに領地と爵位がついてくるはずだったが、それは事前に(フィーザスが)固辞した。
『巻き貝亭』が下ごしらえの忙しい時間帯にさしかかる前に、マリアは大量の昼食を用意してテーブルを埋める。
師弟はそれを食べながら、事情をかいつまんで説明する。
「……それで、師匠と相談して決めたんです。僕らがお金を持っているより、マリアおばさんに管理してもらった方が良いだろうって」
「俺らが持ってても、酒を飲むだけだからな」
それはお前だけだ、という無言の視線がセイに集まる。
「ともかく、ここは五十万タントあります。馬と荷車、それから旅費にちょっと使っちゃったけど。残りは、王都で知り合った、信頼のおける伯爵さまにお預けしてあります」
「話はわかったけど……五十万タントでも大金に過ぎるんじゃないかい?」
これだけあれば、慎ましく生きずとも一生食うには困らない。
「この食堂を大きくしたっていいし、デカいベッドを買ったっていいだろ。従業員を雇ってもいいさ、おばさんもそろそろ足腰にガタが……」
マリアがセイの頭をぽかり、と叩く。
「まだまだ働けるよ! まあ、いいだろうさ。この金は責任を持って管理するわ」
そう言って、マリアは金貨を一枚取り出した。
「お昼を食べたら、まず風呂へ入っておいで。それから、カリンと一緒に今日の買い出しをしておいで」
マリアとカリンは金よりも、王都のお土産をことの外喜んだ。
マリアには絹のストールと肌荒れに良く効くクリーム、カリンには小さいが本物のダイヤが付いたネックレスとスカーフ。ムイカに選んでもらったので、センスがいい。
ひとしきりお互いのお土産を眺めて、身につけてみると、二人はいつもより元気に働きだした。
『巻き貝亭』は、昼から夜に向けてどんどん忙しくなる。
宿泊部屋は六室、食堂は五十席あまりだが、シーズン中は常に満席で、すさまじいほどの賑わいだ。
マリアの作る料理は、簡素で単純なものが多いが、その分味は抜群で、量が多く、安い。
看板娘のカリンは、小さな体でくるくると良く働く。
「はい、鳥の半身揚げ、野菜たっぷりグラタンとクレソンサラダです」
「ナッツ盛り合わせと、エールが三杯、お待ちどうさま! 食べ過ぎてもいいけど、飲み過ぎちゃダメですよ」
「あれ、ロバートさん、ちょっと痩せたんじゃありませんか? いっぱい食べて、太らなきゃ!」
口八丁手八丁、とは言わないものの、笑顔を絶やさず、下品な酔客を優しくあしらい、疲れた旅人に小さなサービスをしてやる。
芸術的なまでの接客が、カリンの愛らしい見た目と相まって、周囲には笑顔が絶えない。カリン目当てで延泊する客すらいるのだ。
「まったく、敵わねえなあ」
「はい、まったく」
運ばれてくる大量の皿を洗いながら、二人はため息をつく。
あの小さな体から、どうしてこんなエネルギーが湧いてくるのか。そして、その懸命で裏表のない笑顔に、どれほどの人が癒され、元気を取り戻すのか。
マリアはいつも言う。
「他人様を傷つけるのを生業にするなんて、反対だね。ほんの少しでも誰かの役に立って、ほんのわずかでも誰かの助けになる。それが仕事ってもんさ」
それは正しいとアルは思う。マリアとカリンの仕事こそ、素晴らしい仕事と言えるのだろう。
でも、だとしたら、僕が王様を救ったことは、どういうことになるんだろう。
誰かが誰かを傷つけようとする。誰かを傷つけて、誰かを救う。
あの時、アルは、必要ならジーンを殺すつもりだった。
逃走したジーンが、何人も人を殺したことを考えれば、むしろ決然として殺すべきだった。
逃げ出す時の、あの殺気。質量すら感じるほどの憎しみ。
あれを断つには、やはり殺すしかないのだろうか。
そして、その時、それを誇れるだろうか。
同じころ。
王都から北へ二十キロほどのリジェの街。清潔で、質素だが、洒脱なこの町がムイカのお気に入りだ。
定住先を持たないムイカだが、ここに定宿をとってもう三週間余り。ニウルス王暗殺未遂からひと月近く経とうとしている。
つい最近、このお気に入りの街が、実はオーウェン伯爵領であることを知って、ムイカはつい笑ってしまった。なるほど、ちょっと変人だが、領地を見れば、彼が良い領主であることは間違いないようだ。
アルと同じく、暗殺者を退けた功を挙げ、ムイカは三十万タントの金を受け取った。望外の額と言える。
王都であの師弟と行動を共にした短い時間を思い出す。
田舎で待っているという家族へのプレゼント選んであげたり(二人は驚くほどセンスが悪いのだ)、セイと一緒に明け方まで飲んだり、アルとは何度か軽い手合せもした。
誰かと一緒に街を歩いたり、笑って食事をするというのは久しぶりだった。
アルが、ちょうど弟くらいの年齢だからか、セイが、ちょうど兄くらいの年齢だからか。ともかく、久しぶりに楽しかった。
最近は雰囲気のいい男と寝ても、すぐに飽きてしまう。
顔がいい男に言い寄られても、気に入らないところがあるとすぐに叩きのめしてしまう。
アルは純朴でかわいいし、セイは馬鹿だがどこか底知れないところがある。
リポリの村に帰ると言う二人を、思わず引き留めてしまった時には、自分にもまだこういう部分が残っていたのか、と気づかされた。
「だけどまあ、そろそろ仕事だね」
ここしばらく、金に飽かせて宝石を買い、衣服をしつらえ、美食を貪った。
だが、退屈だ。
大金を得て気づいたのは、自分がそれを求めてはいないということ。
賞金稼ぎという仕事は好きではないが、少なくとも自分の「飢え」を埋めていてくれたということ。
自分が何を求めているか、ムイカは自身でも正確には知らなかった。
平凡で陳腐だが、もしかしたら仲間が欲しいのかもしれない。何も考えず、笑って食事ができる家族が欲しいのかもしれない。最近はそうも思う。
けれど、それはきっと叶わない。
だとしたら、とにかくこの飢えを、なんとか埋めて生きるしかない。
「ちょうどいい獲物もいるしね」
美しい街並みに、染みのように打ち込まれた立て看板。
「大逆罪 ジーン・ジグジーン 年齢二十 灰色の髪 青みがかった黒の目」
「有用な情報に五万タント 逮捕につながる情報に二十万タント」
「生け捕り百万タント 死体十万タント」
さすが大逆罪。ムイカは思わず口笛を吹いた。
荷物をまとめ、竜槍を研ぐ。
三日かけて山に入り、貴重品をいくつかに分けて隠す。
数枚の衣類、二日分の食料、そして槍。
それがムイカの基本的な持ち物だ。それ以上は出来るだけ持たない。
何日か前、ここからさらに北の山間部で村が一つ消えたという情報が入った。
山賊の仕業というのがもっぱらの噂だが、ムイカには何となくわかった。
槍を交えた瞬間のあの目、あの殺気。
あれは外道の目だ。畜生にも劣る餓鬼の目だ。見覚えのある、最悪の目だ。
そして、凶悪な精神を支える、強力な力を持っている。
未熟なアルがジーンと立ち合って、生きていたことは奇跡に近いと思う。自分が真正面からやったとしても、勝てる見込みは五分五分といったところだろう。
それでも、やってみなければわからない。
戦うという選択肢しか思い浮かばない。
なにせ、ムイカは飢えているのだ。
焼き払われた山間の小さな集落。地図にも記載されていない村だ。
以前はハッタ村と呼ばれていたらしいが、その名もいずれ人々の記憶から消えていくだろう。
ハッタ村には七十七人の村人がいたというが、全員が殺され、焼かれた。
最初にその惨状を目撃したのは、行商人だ。
三月に一度はハッタ村を訪れていた彼らは、村の人々全員を知っていた。
おかげで、被害の全容はほぼ正確に人々の知るところになったし、簡単ではあるものの、墓碑銘を刻むことが出来た。
「じゃあ、あなたが見つけた時点で、すでに三日は経過してたわけね?」
ムイカは、行商人のひとりを見つけ、ハッタ村の状況を聞いていた。
「たぶんな。一番新しい死体でも……真っ黒だったけどよ、三日は経ってた。ウルとアナは……生焼けでよぅ。野犬が食ってやがった」
行商人は、心底吐き気を催している。
「山賊がやったって言われてるけど、あなたもそう思う?」
「この辺に山賊は出ねえよ。そういうのはもっと南の、人通りの多いところに出るんだ。あの村に大したもんがねぇのは誰でも知ってるし、そもそも荒らされた跡がねえんだ。食料も、服も、何もかんも、一緒くたに焼かれてた」
「山賊じゃないわね」
「役人の連中、俺が何度もそう言ってるのに、聞きゃしねえ。貧乏な村だ、死体の始末だって俺たち有志の人間がやったんだ。なあ、あんた賞金稼ぎだって言ったろ? 犯人の目星がつくのかい?」
「おおむね。別の罪で逃げてる奴だけどね」
「捕まえられるか?」
「そのつもり」
「……あの村の連中はよ、貧乏だが気のいい連中ばかりだったよ。子供たちが生まれた時は俺たちも一緒にお祝いの席に招いてくれてよぅ……悔しかったろうによぅ。苦しかったろうに……」
行商人は、鼻をすすった。
「出来ることなら、仇を討つわ。ありがとう」
ムイカは、行商人にいくらか金を渡し、山へ分け入る。
ハッタの村は焦げた家が放置されたままだった。遺体を埋葬した場所だけが、生々しく盛り上がり、土の色が変わっている。
行商人の話を正しいと仮定すれば、犯人は五十日以上前にここを襲撃している。
暗殺未遂の後、ジーンが馬も使い、全力でここまで逃げてきたとして、王都からは五日から八日はかかる。
発見された時期を考えても、何日もここにはいなかったはずだ。
致命傷ではないとはいえ、両腕を負傷して八十人近くを殺すのは、かなりの手間だし、まるで意味を見出せない。
皆殺し。
言うだけは簡単だが、容易な作業ではない。
ムイカほどの武人ならば、田舎の村落丸ごとを消すことは可能だ。
可能だが、やろうとはとても思えない。罪のない人を何の呵責もなくすべて殺す、というのは、言うほど簡単な作業ではないのだ。
どこかの伯爵家が、一晩で皆殺しにされたという事件を聞いたことがある。
物盗りの犯行ということにされているが、あれも異常な事件だ。一時は、生き残りの息女とその従者が疑われたともいうが、結局否定されている。その異常性を織り込んで断定するだけの根拠が薄弱すぎたからだ、とムイカは想像する。
だが、この件に関して証拠も、根拠も、ムイカの中にあれば良い。
(……仲間がいる?)
この場所に立ってから、これがジーンの犯行であるという仮説を、ほとんど確信に近くしていた。
勘、としか言いようがない。
目の前に広がる惨憺たる光景以外は、すべて伝聞と噂に過ぎない。
焼かれた食料、時期をずらして殺された少年と娘たち。
吐き気のする仮説をさらにいくつか立てて、ムイカはその場を離れた。
ジーンは、おそらく仲間といる。
多くはない。せいぜい五人といったところだ。
行く先々でこういうことをしている。
押し込み強盗が家人を殺し、しばらくそこで暮らしていたという情報を、最近よく聞いた。
記憶を頼りに、地図に並べてみる。
西から、徐々に東へ移動している。そこに、何らかの意図は見えない。「ただ、移動する先でそうした」といった印象だ。
そして……
「たまたま王都で、王暗殺を思いついた? ううん、違うな。誰かに持ちかけられたはず。報酬もなしにあんなこと出来ない」
破滅的、即物的、快楽追求型。
そして、一目散にここへ駆けてきたとするならば、すでにこの村は誰かによって、隠れ家としての機能を持たされていた。
一応、辻褄は合う。
ともかく、その仮定で追跡してみよう。東だ。
ムイカは、山の空を見上げた。日が早くなっている。
追跡は、うまくいっている様に思えた。
細い山道沿いに東へ向かうと、時折奇妙な二人組の情報に出くわした。
いずれも、ニウルス王暗殺犯の似顔絵が張り出されるほんの少し前だ。このような田舎には、大逆の罪人の情報すら一ヵ月以上遅れてくるのだ。
とりもなおさず情報網の不備と、統制の齟齬が見て取れる。
(大きくなりすぎたのだ、この国は)
武王として名高いニウルス王は、その半生で隣国を次々と吸収していったが、統治は不完全だ。長きに渡る貴族の腐敗で、統治力のある人間が育っていない。ニウルス王の剛腕をもってしても、民が安寧を得るにはあと十年、二十年はかかるだろう。
追跡開始から一ヵ月。
十月に入り、山から吹き下ろす風が冷えはじめたころ、山のふもとにほど近い街を見つけた。
よくある中規模の街だ。東西に長い街道があり、領主の館があり、中級役人の家が立ち並ぶ。富裕とは言えないまでも人が多く、密接というほどには人々が結びつかない。
(ここかもしれない)
コヒ・ウナスタリというこの街で、街道沿いの宿をとり、ムイカは久しぶりにベッドで眠った。
翌日から五日かけて街を歩き回り、宝石をひとつ換金した。
街の外れに向かう、中産階級の家が立ち並ぶ道。
夜に歩くと、一軒だけ「明りが灯るべきところ」以上に、灯っている家がある。
中産階級の家は、基本的には家族が住むものだ。
そうでない家は、やや裕福な引退夫婦や、寡婦、一人暮らしの老人ばかりだ。そして、この時期に暖炉を着けている家は少ない。
高価な菜種の油、獣油の蝋燭などは、なるべく使いたくないはずだが、その家は寝室と思われる二階の窓、居間、キッチン、それぞれに明りが見えた。
表札を見る。
「アンナ・ハラサリー」
ひとり暮らしの女性。丁寧に手入れされていただろう小さな庭に、枯れた雑草が生えている。
そういう、小さな小さな違和感を追うことに、ムイカは天性のものを持っていた。
そこから四日かけて、慎重に情報を集め、家の監視をすすめた。
アンナ・ハラサリーは七十ほどの女性だという。
一ヵ月ほど前に孫を名乗る男が二人、家にやってきた。足を痛めて寝込んでいるらしく、それ以来アンナの姿を見た隣人はいない。
感じの良い孫はダリルと言って、ご近所づきあいもほどほどにやっているらしい。
「この年の老人が、足を悪くすると、一気に気力を失くす」
というような話を、隣家の夫人としていた。
ダリルの姿は、遠目から確認した。
確かに見るからににこやかな好青年で、育ちの良い地方貴族と言われても、しっくりくる。
市場で食材を買い込むダリルの、だがその油断ならない後ろ姿と、濃密な血の気配に、ムイカはほぼ確信した。
ダリルが帰宅する前に、農夫を一人捕まえ、高価な蜂蜜を手渡した。
「私はアンナ・ハラサリーから使いを頼まれたものだが、どうしても用事があってすぐに帰らなければならない。悪いがこれを彼女の家まで届けてくれ」
そう言って、銀貨を一枚握らせると、農夫は目を丸くして承諾した。
アンナ・ハラサリーの家をノックする農夫を、視認できるギリギリの距離で、ムイカは監視した。
何度かのノックの後、扉が開いた。男が出てきた。
(ジーン・ジグジーン)
間違いない。
しばらく農夫と話したあと、怪訝そうに蜂蜜を受け取るジーン――ムイカを見た。
すぐさま、ムイカは物陰に隠れる。
(気づかれた!)
誰か、まではわかるまい。
だが、誰かに監視されているということを気づかれたなら、そこから敵の警戒度は上がる。まさか、この距離で気づかれるとは思ってもみなかった。
舌打ちしながら気配を断ち、宿に帰ると、ムイカは即座に戦闘の準備に入る。
槍を一振りして、長い布を巻き、隠す。
フード付きのマントと、長持ちする食料、やや大きめの水筒を購入し、鞄に詰め、余分なものを処分する。
自分の痕跡を部屋から消し去り、宿を引き払った。
仲間がいる以上、不用意には仕掛けられない。
(ここからは根競べだ)
感知されないギリギリの距離を保ちながら、監視する。
ジーンか、ダリル。
どちらか一方を確実に仕留め、その上でもう一人も仕留める。
賞金が欲しいわけではないが、向こう見ずなムイカの心が、二人を生け捕りにしてやろう、という気持ちに傾いていた。
深夜。
アンナ・ハラサリーの家から、三人の人影が出てきた。恐らく、気の毒なアンナ・ハラサリーは、すでにこの世にはいないだろう。
ムイカの想定よりも、ずっと初動は遅い。
監視に気づいた賞金首は大抵、司直の手が伸びていることを警戒し、即座に逃亡に転じるものだ。
だが、人が寝静まる時間帯を選んで静かに家を出る三人は、ムイカと同じように深々とフードを被り、静かに街道を歩いて行く。
三人――特にジーンの力量を考えれば、決して手は出せない。
ムイカは、普段の三倍近くの距離をとって、闇から闇へ、遮蔽物から遮蔽物へ身を隠しながら三人を追う。
細心の注意は払っていたが、気づかれているような気配があった。それでも、時間をかけていれば、いずれ好機は巡ってくるはずだ。何よりも、せっかく見つけた獲物から目を離すことは出来ない。
月の綺麗な晩だった。
三人は、街道を東へ進み続け、街から出る。
収穫の終わった畑を越えると、道の舗装は途切れ、下草がはげた自然な道になった。すれ違う人は、誰もいない。
左手の雑木林が途切れて、遠くに山並みが見える頃、三人は唐突に立ち止まった。
何かを相談している雰囲気の後、一人が道を引き返して来た。残りの二人は、そのまま道を行く。
ムイカはすぐに決断を迫られた。
罠の可能性が高い。
だが、やはり多対一という構図は避けなければならない。
何よりも、こちらへ向かってくる人影が、ジーンである可能性も捨てきれない。
ムイカは、物陰でやってきた一人をやり過ごし、道を行く二人の挙動を追った。立ち止まる気配はない。もうすでに、ずいぶんと距離が離れた。
すぐに、街の方向へ戻る一人を追った。
「待ちな」
ムイカが声をかける。
だが、人影は立ち止まるどころか、突然走り出した。
「くそっ!」
ムイカが追う。
相手は思った以上に足が速いが、そのうちに息切れをしだした。
顔を覆っていたフードが外れ、その顔が月に照らされる。
見覚えがあった。
男に組み付き、地面に這いつくばらせる。
「ゆ、許してくれ! 俺は知らない、関係ないんだ!」
ムイカが、アンナ・ハラサリーの家に蜂蜜を届けるように頼んだ農夫だった。
「あんた、もしかして、あの連中に捕まってたの?」
「そうだよ。声を出したら殺すって! 街に入るまで、ひたすら逃げてみろって言われたんだ!」
農夫は、気の毒なほど怯え、狼狽して、泣いていた。
「許して、殺さないで」
ムイカは、奥歯を力いっぱい噛みしめた。
わかっていたはずだ、連中が無関係な人間を臆面もなく利用する連中だということを。
だが、目を離したすきにこんな手を打ってくるとは思わなかった。
まるで、追っているのが賞金稼ぎだとわかっているかのようだ。
ムイカは、懐から一握りの金貨を男に渡した。
「悪かったね、巻き込んで」
走った。
街道を東に、東に、ひたすら走った。
連中が逃げるつもりなら、かなりの距離をつけられたはずた。
せっかくここまで追いつめて、この先の山にでも逃げられたら、もう追跡は出来ないだろう。いずれ、人里へ降りてくるとしても、また犠牲者が増える。
畑を越え、雑木林を抜け、ようやく先ほど男たちが立ち止まった地点に差し掛かった時、ムイカは跳躍した。
木の上から、誰かが襲い掛かってきたのだ。
マントが破れ、左手に細い切り傷が出来る。
「ちいっ!」
地面を転がりながら、ムイカは布に包まれた槍を取り出そうとした。
影。
鈍い音がして、布に包まれたままの槍が鳴る。
二人。
「ほぉらな、失敗しただろ? ダリル」
先に木から飛び降りてきたジーンが言った。
「本当だ。なかなかの使い手だなぁ」
と、ダリル。
ムイカは、その間をついて、二人から距離をとる。竜槍を取り出し、役に立たなくなったマントを剥いだ。
「全部バレてたってわけ?」
ムイカの息はあがっている。時を稼ぎたい。
「いやぁ、さすがに確信があったわけじゃないけどね。竜槍のムイカ。大物だ」
ジーンは短い広刃の剣を手元でクルクルと回して見せる。
ダリルも、似たような武器を持ち、興味深そうにムイカを観察している。
「大物? 光栄だわ」
「俺らぁ、敵対する奴は皆殺しっていうのが信条なんだ。わかるかい? それが俺の一世一代の仕事を邪魔した女だ、ってことになりゃ、なおさらよ」
「じゃあ、やっぱりこの女が?」
「そうだぜ、ダリル。こんなエロい体の女、そうそう見間違えねぇよ、なあムイカ?」
牙を剥くジーンの視線を受けながら、ムイカは必死で周囲を探った。
ほぼ平地。月明り。夜明けまではまだ三時間以上あるだろう。街にもどるにせよ、この先へ行くにせよ、人里まではかなりの距離を走らなければならない。
息を整える。
「さあて、ムイカ。ヤる準備は出来たか? せっかくここまでお膳立てしたからな。絶対に逃がさないぜ」
ジーンは、殺気を込めてムイカを睨む。
「てめぇは殺さねぇぞ。腕を切って犯して、足を切って犯して、歯を抜いて、目を抉って、そのでけぇ胸を食いちぎってやるからな」
ムイカは鼻で笑った。
「あんたってさ、まあまあ強いのかも知れないけど、脳みそは陳腐だよね。そんなのでビビる連中しか相手にしてこなかったんでしょ」
「ああ?」
ジーンが凄んだ瞬間、ムイカは飛び込んだ。
『七竜遊河』
突きと、槍の柄による殴打の連続撃。高速の回転で、一突きごとに威力は重くなる。
こうなったら、敵の生き死になど問題にしてはいられない、最大の奥義で、最速で決める。
二撃目を堪えたジーンが、後ろに跳ぶ。
瞬時に追撃しようとした竜槍が、思いもよらない方向からの衝撃に、はじかれる。
ダリル。
「っくぅ!」
態勢の崩れたムイカに、ダリルがさらに斬りかかる。
防御に手いっぱいになるほどの、軽いが速さを活かした攻め手だ。
刃こぼれなど全く気にする様子もなく、槍に打ち付けるように剣を振るうダリル。
後ろに、気配。
ジーンが、いつの間にか後退の道を塞いでいる。
竜槍を後ろに付き出し、何とかジーンの横薙ぎを受け止める。
前からダリル。
竜槍を回転させ、弾く。
ジーンの袈裟切りが、ムイカの肩口を浅く捉えた。
ムイカは、運に任せて後ろに跳んだ。
「うおぉ!」
殺す気がない、というのは本当のようだ。ジーンが思わず剣を引き、ムイカの体を受け止める。僥倖と言ってもいい、幸運。
「おバカさん」
でも、ありがとう。
そう思いながら、ジーンの首に腕をかけ、巻き付くように地面に叩き付ける。
だが、ジーンは、軽業師のように腕の拘束を抜け、回転しながらムイカの投げを無効化し、飛び跳ねて距離をとった。
その隙をついて、ムイカは竜槍を捨て、一目散に走りだした。
あまりのことに、ジーンもダリルも、動けなかった。
「はぁ? 逃げるのか?」
「何やってる! 逃がしちまうぞ、ジーン!」
ダリルがすぐに追う。
だが、武器を捨て、全力で走ることだけを考えたムイカには追い付かない。
「おいおいおいおい! マジかよ!」
ジーンが竜槍を拾いあげて、吠えた。
まさか、自身の代名詞ともなっている槍を、天下に轟く名器『竜槍』を、こんなにもあっさりと捨てるとは思わなかったのだ。
ムイカは、後ろを見ずに走った。
体力の続く限りひたすら真っ直ぐ。
すぐにダリルの足音は聞こえなくなった。だが、走る。
遠くに見えていた小高い丘の麓まで差し掛かると、ようやく後ろを確認した。
二人の影はない。
だが、足は緩めない。
逃げる時は徹底して逃げなくてはならない。
進路を変え、丘を登り、高所からまた確認をする。人影は見えない。
丘を越え、山並みが見えると、またそこを目指して走る。
雑木林へ入り、何度か進路を変え、深い森に紛れると、そこでようやく、ムイカは立ち止まった。
心臓はずっと限界を訴え続けていた、首の血管が裂けるほど血が巡り、耳の奥で血流の音が聞こえた。
「はぁっ! はぁっ! はぁっ!」
もう、口も閉じることが出来ない。涎が流れるままに地面に垂らしながら、それでも警戒は怠らない。
二時間近く走り続けただろうか?
夜と森の闇に紛れて、ムイカの姿は確認できないだろう。
想像以上に、ジーン・ジグジーンは強い。そして、警戒していた以上に、ダリルという男も強い。別種の強さではあったが、二人が相当の実力者であることは間違いない。二人そろったなら、まず間違いなく勝てない。
水が飲みたかった。
竜槍が気になった。
様々な思いが去来した。
だが、ともかく、今は命がある。
息を整えると、ムイカはさらなる逃走を開始した。
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