第5話


 王都は、まるで蜂の巣をつついたような大騒ぎになっている。

 前日に起きた王暗殺未遂で、お祭り騒ぎは一転、不穏なネズミ狩りと密告合戦に早変わりした。


 ジーンはその後、殺到する近衛兵を八人も斬り殺し、会場の最上階、十二メートル近くを飛び降りて、そこでさらに二人を殺した。騒然とする町の雑踏に混じって消え、近くの宿屋に繋いである馬が三頭盗まれたのを最後に、足取りがつかめない。

 お祭り騒ぎの影響で、各門はほとんど素通りに近かったし、金さえ払えばどこへなりとも姿は消せる。

 フィーザスの指揮のもと、一時的に騎士団が警察機構と化し、数千に及ぶ旅芸人、隊商、流れ者が拘束され、緻密で疑り深い取り調べにさらされた。周囲には伝令が百人単位で走り回り、憲兵から自治組織、村の自衛団まで巻き込んで国中が一時的に戦乱もかくやという混乱に陥った。

 迅速で、経済を地の底へ沈めるほどの重包囲は、最終的には二か月以上に及んだが、結論から言えば、ジーン・ジグジーンを名乗る男は、ついに見つからなかった。

 大逆の罪人が、そのように逃げおおせるなど、この時は誰も考えていなかった。


「おそらくは、もう城下からは逃げ出しているだろうな」

 事件から三日後のこと、フィーザス・オーウェンの顔色は、まだ青白い。

 目の前で守るべき最大の対象を暗殺されかかっては当然かも知れない。

 一睡もせずに今後の対策を練り、防御陣形を厳重にし、指揮系統をまとめ上げながら、自分は王の居室の前から一歩たりとも離れなかった。

 流石に心配したニウルス王と、上官である近衛隊長ランダルから、帰って一晩休むように厳命されたので、しぶしぶ館に戻ったものの、眠れない。

「でも、流石にもう襲っては来ないですよね?」

 事件の最大功労者、アルはお茶を飲みながら言った。

「まあ、来ないだろうな」

 その師、セイは出されたお菓子をムシャムシャと遠慮なく食べる。

「あんなの王様の自業自得じゃん。実力だけでわけのわからない連中まで招き入れちゃってさぁ」

 同じく功労者であるムイカは、さっきから酒が出てこないかと期待してキョロキョロしている。

「……王の責任ではない。我々……いや、近衛隊の責任者たる私の失態だ。いくら償っても償いきれるものではない」

 そう言って、フィーザスはがっくりうなだれた。

 眠れない伯爵は、この功労者二人とその付随物(セイ)を館に招き、篤く礼を述べた。

 三人も、一日がかりの取り調べで辟易した後だったので、フィーザスの招待非常に有難かったのだが、当のフィーザスが、青い顔をしてうなだれたり、暗い声を出して同じような不安を口にするので、さすがにうんざりしてきた。

「とにかく、フィーザスさん、寝た方がいいですよ」

 アルがそう言ってなだめる。美味いお茶だが、五杯目ともなるといい加減気持ち悪い。

「だが、何かあったら……」

「ですから、きっともう大丈夫ですよ。暗殺失敗で普段以上に警備が敷かれている王城に、誰が忍び込むって言うんですか? 王様もその辺わかってらっしゃるから、フィーザスさんを帰したんでしょう?」

「む……」

「眠れないなら酒でも飲めばいい、付き合うぜフィーさんよ」

「そうね、それ、いい案だわ」

 ムイカがセイに同調して身を乗り出す。

「しかし……」

「まあまあ、お酒はともかく、師匠の言う通りですよ。とりあえず王様はご無事です。これから忙しいでしょうけど、まずはフィーザスさんが休まなきゃ」

「う、む」

「さ、師匠、ムイカ。僕らはそろそろお暇しましょう」

「ええーーー!」

 セイとムイカは同時に抗議の声を上げた。

「フィーさんも気晴らしが必要で俺たちを呼んだんだろ? 夕食くらい付き合ってやろうぜ」

「そうそう、ダンナの言う通り。こういう時は、むしろ明るく酒を飲むのがいいのよ」

「……」

 アルは、酒呑み二人をジトリとねめつけて、フィーザスを見た。いつの間にかムイカはセイのことをダンナ呼ばわりしている。

「もちろん夕食くらいは食べて行ってくれ。大したもてなしは出来んが……そう、情けない話、一人では鬱々として何も手がつかなかったのだ……では、少々失礼して、私は着替えてくる」

 フィーザスは無理に表情を作って立ち上がり、メイドに酒とつまみ、客人のもてなしを言いつけて、応接室から出て行く。

「やったねダンナ!」

「おう。フィーさんもあれで貴族だ。きっと良い酒が出てくるぞ!」

 急速に親しくなったらしいムイカとセイは、パーティーで出た酒の味について語り合う。

(昨日の今日で、よくそんなにはしゃげるなぁ)

 アルもフィーザスと同じく、事件のことが気になって仕方ない。

 それだけでなく、試合のことを含めて、セイと話したいことも多いが、ここまでその暇はなかったのだ。

 ともかく、アルが今すべきことは運ばれて来たデキャンタの中身の減りを監視することだ。


「貴様ら! いったい何のために王覧試合に出たんだ!」

 和やかで多少酒くさい夕食は、フィーザスの怒声で吹き飛んだ。

 話がアルとムイカの恩賞の話に及んだせいだ。

「騎士身分だけでなく、爵位も与えられるのだぞ?」

 温かい食事と、酒の力でフィーザスの顔にはようやく赤みが戻って来ていた。それが、大きな声を出すことでさらに加速する。アルは良かったな、と思いつつもそれをやり過ごす努力もしなければならない。

「ありがたいのですが、僕はリポリの村に帰ろうと思います」

「あたしも、そういうのは要らないや」

 と、ムイカ。

「何故だ! 王の命をお救いしたのだぞ? 恩賞が金だけで済ませられるわけはあるまい」

「いえ、でも……」

 フィーザスがまた怒鳴る。

「何のための王覧試合にでたんだ!」

「せ、生活費です」

「あと、借金な」

「あたしは酒手」

 三者三様の答えに、フィーザスはあんぐりと口を開けたまま、固まった。

 騎士である彼は、地位と名誉を最も重くとらえている。生まれた時から裕福なせいで、金に執着もなく、むしろある部分では忌避してすらいる。

 だから、貧乏暮らしの師弟と、即物的なムイカの答えが理解できないのだ。

 だが、短い付き合いながら、話し合っても無駄だ、という気はする。そういう連中なのだ。

「……わかった。ともかく、王陛下には私から言っておく」

 訊いておいてよかった。こんな連中に直接ニウルス王が恩賞のことを話したら、どんな失礼を言い出すか、想像するだにおそろしい。

 フィーザスは頭痛を抑えるように、デキャンタからブランデーを注ぎ、一息に飲み干して深く息を吐いた。

「ところでセイ。貴様は、いったいどこの出身だ? 人品骨格はともかく、貴様の強さは素晴らしい。不可思議な体術といい、剣捌きといい、ぜひ教えてほしいのだがな」

「俺の人品骨格の美しさを見抜けるようになったら教えてやるよ」

 セイは、アルの目を盗んで酒を注ぎ、素っ気なく言った。

「言えぬ。ということか?」

「まさか。言うにはちょっと、酔いが足りないのさ」

「……ムイカはどうだ? 噂とはだいぶ人相が違っているようだが『竜槍のムイカ』の名に恥じない戦いぶりだった。その技はどこで?」

「残念だけど、あたしは隠し事が多い女なの」

「そうらしいな」

「じっくり時間をかけてくれたら、ベッドの上で話してあげることもあるかも」

 ムイカは切れ長の目と、濡れたような長い睫の下で、妖しい瞳を光らせた。胸元は王覧試合の時よりもさらに大胆に開けられ、スカートのスリットはほとんど腰下まで切れ込んでいる。

「ふん、身ぐるみはがされそうだな」

「あら、身ぐるみくらいであたしと寝れて、秘密まで教えてもらえるなら、絶対お得よ」

 フィーザスもセイも、その言い草に苦笑いをした。

 どこか、底の知れない女だ。フィーザスは改めてアルを見る。

「アル、本当にいいんだな? その、リポリ村に帰るんだな? 王都にとどまるなら、騎士であろうと、あるいは他の職業であろうと私が世話をしてやれるぞ」

 心底優しい目で尋ねる。

 王都の外へ出れば、人々は貧しい。農民をはじめ、庭師も、馬ていも、みな貧しい。戦争が少なくなった今、武人も同じだ。今後、長い時間をかけて人々が戦の傷を癒すまで、富むのは貴族と、一部の商売人だけだ。

 未来ある、才能に溢れた少年を、その中へ帰すのはいかにも惜しいと感じている。

「はい、帰っておばさんの食堂を手伝います。師匠に教えていただくこともまだまだたくさんありますし……でも、ありがとうございます」

「うん。心が決まっているのなら仕方ない。だが、お前はこの国の恩人でもあるし、困ったらいつでも頼ってきていいからな」

「はい」

 アルは多少強引だが、心底自分を心配して、導いてくれようとするフィーザスの気持ちが嬉しかった。

「なぁに、アルには俺がついてる。心配には及ばねぇよ」

 喉も焼けるブランデーを舐めるように飲むセイに、フィーザスは睨みを効かせた。

「貴様さえいなければ、こんなに心配はしない」

「どういう意味だこの野郎」

 フィーザスはそれに答えず、小さく切った干し肉を口にし、整った顔に整った皺を寄せた。

「まったく。お前といい、ムイカといい、まだまだ余の中には予想もつかない武人がいるものだ」

「ジーンとかいったか? あの大逆人は」

 セイが、同じように干し肉を口に入れる。前髪を気にしてか、最近は髪をくしゃくしゃと触るのが癖になっている。

「ああ、ジーン・ジグジーン。偽名ではあろうが」

「ありゃ、早いうちに殺した方が良い」

「当然だ。お前も今言った通り、奴は大逆の……」

「凶星だよ、あれは。王様の暗殺程度、何度でもやる類の目だ」

 フィーザスが眉根をあげる。

「王様の暗殺程度、とは穏やかではないな」

「そういう星に生まれた奴はいる。理屈じゃない」

「あたしもダンナと同意見だね。ああいう奴は、問答無用で斬った方が良い。フィーザスさんには立場もあるだろうけど。これは忠告。捕らえるだのと考えない方が良いと思う」

 酒精に緩んだ目を一瞬極めて、ムイカが言った。

 唐突な二人の言葉にアルは純粋な疑問がわいた。

「どうして、分るんですか?」

「……理屈じゃないよ、アル。お前も武人ならそう言う感覚を持った方が良い。裁判だの動機だのは憲兵やフィーさんに任せとけ。もしも、万が一、ジーンと戦うことがあれば、必ず斬れ、絶対に躊躇するな」

 アルはほんの一瞬対峙したジーンの目と、空間が割れんばかりの殺意を頭に浮かべた。

 見たこともない、感じたことのない異質の、強烈な気配であったことは確かだ。

「場合によっちゃ、アルとムイカを逆恨みして復讐してくるかも知れない」

 まさか、といいかけてそれを否定できない。

「そんなことはさせない。憲兵、国軍、騎士団、総動員で追っている。遠からず見つけて捕らえるさ」

 フィーザスはそう言って目を細めた「少し、疲れたな」

 その言葉がきっかけで、その場はお開きになった。

 フィーザスはメイドに命じて酒や、残った食事を包ませ、三人に持たせた。

 そして、「国王陛下暗殺を防いだその功、改めてお礼申し上げる」とアルとムイカに深く礼をした。



「え? もう帰るの? やだー!」

 ムイカが心底残念そうにアルを胸に抱き寄せて、抗議したのはその三日後の昼間だった。

「ああ、金も入ったし、少し心配事もあるからな」

 豊かな胸に埋もれて声も出せないアルに変わって、セイが言った。


 国王暗殺を防いだという大功に対しては、簡単な論功行賞が関係者だけで行われた。

 あらかじめフィーザスが功労者の意を伝えてあったので、結局アルとムイカには、金と、王家の紋が入った短剣が下賜された。

 ニウルス王は最後まで爵位か、せめて騎士号を与えたいと言っていたらしいが、混乱を極める内情を盾に、周囲の者がそれを押しとどめたらしい。『白霜剣』を贈ると言うアイデアもあったらしいが、『白霜剣』こそ値段の付けようもないものであり、それもいつの間にか却下されていた。

 下賜金は、安全保障上の理由から、フィーザスが宿舎に直接届けに来た。

 アルはその金の大半を、フィーザスに預けた。

「持って帰るには多すぎます。こんな大金、どこにしまっておくんですか?」

 そう言うアルに、セイは何も言えなかった。そもそもこれはアルに対して渡された金なのだ。それに、セイの近くに置くよりは、知り合ったばかりのこの伯爵に預けた方が安全だ。

 フィーザスはそれを快く受けてくれた。


 それからは、ほとんど三人で戒厳令下に近い王都で買い物をし、食事を共にしていたのだ。三人は三人とも、なにか歳の離れた姉弟のような感覚を持ち始めていた。その矢先だったのでムイカはちょっと怒っていた。

「お金があるんだから、もう少しくらい一緒に遊ぼうよ」

 ムイカは絶対に頬を膨らませてアルを離さない。

「むぅー! んー!」

 アルが顔を真っ赤にして呼吸ができないことを身振りで訴えると、ようやく力を弱めた。

「ねー、アルはもうちょっとムイカ姉さんと遊びたいでしょ?」

「う、うん、でも……僕たちの村、知られているから」

 その言葉に、ムイカはすっと顔に険を戻す。

「そういや、王覧試合の時……」

「リポリの村出身てな、俺もアルに言われて思い出した。まあ不可抗力だから誰に罪があるわけじゃねえが」

 セイが小さく息をついた。

 ジーン・ジグジーンが、もしもそれを覚えていて、さらにアルを逆恨みしていたとしたら。

「可能性としては薄いとは思うけど、僕も心配で。フィーザスさんがあいつを捕まえるまでは、少し警戒をしていた方がいいかもと思って」

 ムイカは、その言葉に少し考えを巡らしていたが、諦めたように表情を切り替えた。

「そうだね、あんたたちは帰った方が良いね」

「良ければ、ムイカも来る?」

 アルの提案に、ムイカは目を見開いた。

「あたしも?」

「うん、おばさんやカリンにも紹介したいし、もしもやることが無いなら……」

「ありがと、アル」

 ムイカは柔らかい笑顔を浮かべて、アルをまたかき抱いた。

「むーー!」

「でも、今回はやめとく。あたしもそろそろ仕事始めなきゃね」

 その目に、小さく激しい光が差したのを、セイは見逃さなかった。









「ダリル! ダァリィィルゥゥ!」

 ジーンは叫んだ。

 ニウルス王暗殺未遂から七日。

 盗んだ馬を潰しながら、山を四つも越えて、ようやくたどり着いた「家」。さすがに駆け通しだっただけに、追跡の気配はない。

「ジーン! おかえり!」

 家から出てきたダリルは、ジーンの姿を見て顔色を変えた。

「どうした、その様は」

「くそが! 失敗しちまった!」

 ジーンの両腕はアルの木刀で打たれた部分から大きく腫れあがり、怪我のせいか、疲れのせいか、全身が細かく痙攣している。

「ともかく、中へ入れ」

 ダリルはジーンを抱えるようにして、家に入る。

 ジーンもダリルも二十歳を少し超えた程度の青年だ。目つきの悪い、明らかな悪党面のジーンと違い、ダリルは見るからに育ちの良い好青年といった顔つきで、頭髪も短く整えられ、仕立てのいい服をきちんと着こなしている。地方貴族の御曹司でも通用するだろう。

 そのダリルが、この山奥にいるのはいかにも奇妙に見えた。

 山間のわずかな平地と水場を利用して建てられた村には、家が16軒あった。

 いずれも藁ぶきで、小さく、貧しい。徴税官すら来ることを嫌がり、外界からはほとんど隔絶している。

 その村は、二軒の家を残して荒らされている。

「ジーン、しっかりしろ。ほら、とにかくこれを飲め」

 ダリルはジーンを勇気づけながら、強い酒を気付けに飲ませる。

「ああ、ちくしょう! すまねぇダリル。しくじった!」

「もういい。いいよ、ジーン。お前が無事ならそれでいい。ほら、包帯を巻くぞ」

 治療を受けながら、ジーンが事のあらましを説明する。

「……そうか。それで、金は? 手付けで五十万も受け取ったんだろ?」

「情けねぇ。宿に置きっぱなしさ」

「そうか、まあいい。また二人で稼げばいいさ。まずは何か食うか?」

「ああ、それと女だ」

「用意してある。こんな辺鄙なところだ。あんまり期待するなよ」

 ダリルは、作り置きのシチューを温めている間、隣の一軒に向かう。

 その家の中には、娘が二人と、少年が二人、猿轡をかまされて横たわっていた。

 ダリルはまるで無表情に、娘の縄を解いて歩かせ、戻る。

「ジーン、男の子もいるが、いるか?」

「いらねぇ。ん、美味いなこのシチュー」

「おお、それな。この子、あれ? こっちか? まあどっちかの娘が作ったんだよ。なんか、山芋が入ってるとか」

「ふうん。ちょっと待ってくれ、食っちまうから」

「ははは、慌てるなよ。ちゃんと待ってるから」

 何気ない会話。親友同士、いや兄弟の会話のように、平凡な会話。

 その間に挟まれた煤けた娘は、恐怖に身震いしながら、指先ひとつ抵抗の色を見せない。

「うん、美味かったよ。宮廷料理とはいかねぇが、やっぱりこういう味の方が落ち着くな。さて、体でも拭いてもらおうか」

 ジーンが座ると、ダリルが娘たちを足で押し出す。

「ほら、ちゃんと拭いてやれ」

「その痣になってるところ、痛ぇからあんまり強くするなよ」

 娘たちは、ガタガタと震えながらジーンを拭き清める。

「で、どうするダリル」

「ま、とりあえずここは捨てよう。もう二週間もいるし、すぐにお前を探しに兵がくるだろ?」

「そうか、ここはもう二週間か。じゃあ処分し時だな」

「次の『家』も、あらかた目星はついてるんだ。こんな大きな家じゃなく。町中の一件屋だけど」

「こういう『家』は、隣同士が密接だからなぁ、いくら山奥でも面倒だよなぁ」

「まったく。八十人近く殺したよ」

 まるで作物の出来でも語るような、時候の挨拶でもするような談笑。

「ん? よし、大分きれいに拭けたな。じゃあ、お前ら脱げ」

 ジーンは、震える娘に有無を言わせぬ圧力をかけた。娘たちは戸惑いながら、服を脱ぐ。

「ダリルも?」

「いや、俺はいいや。あっちの男の子、いらないなら処分しちまうぞ?」

「ああ、悪いな。ひと眠りしたら引っ越しだな?」

「そうしよう。準備もしとく。ともかく、お疲れさん。失敗は気にするな。何度も言うようだが、お前が無事でよかったよ」

「よせよ、もう」

 二人は笑った。


 その日の深夜。

 二人の娘を思うさま犯しながら殺し、その死体の上で熟睡したジーンは、久しぶりに生き返ったように顔色がよくなっていた。

 それを見て、ダリルは安心した。


 山間の小さな、小さな村が消滅したことに人々が気づくのは、それから三日も経ったあとだった。






 ディードハルトの裸体に、エーリカはきつく抱き付き、噛みついた。

 それは、エーリカにとってはご褒美のつもりだったし、本心はともかくとして、ディードハルトもそれを理解していた。

 腕も、足も、腹も、まるで石のように硬い、引き締まった肉体。

 それをエーリカは、思うさまに傷つけ、口づける。

「見た? あの慌てぶり!」

 興奮して、エーリカは何度も同じ話をする。そのたびに、ディードハルトは首肯し、主の好きなように、話をさせる。

「いつもお高くとまってるくせに、『王陛下、王陛下』なぁんてゴマすってるくせに……ふふ、いざとなったら叫んで逃げ惑う。ああ、可愛い! 可愛いなぁ、いっぱい殺したい!」

 流れた血を、舌で掬おうとしたときだけ、ディードハルトは制止する。

「なんで? ディードの血を舐めたいわ」

「汚らわしい血です。おやめくださいますよう」

 とたんに、エーリカは激昂した。

「いや! 絶対に舐める!」

 ジタバタと暴れるエーリカを、ディードハルトはそれでも、それだけは、と静かに止める。

「もう! むかつく! あたまにくる! 結局、ニウルスは殺せなかったし、兵士以外の貴族は死んでない!」

 表情とは裏腹に、ディードハルトに抱き付いて、泣く。


 赤子のようだ。

 ディードハルトは、その鉄面皮の下でいつもそう思う。

 事実、それに近い年齢から、エーリカの心は止まっている。


 エーリカ・ルネ・アルタはアルタ伯爵家の三女として生まれた。

 先代のアルタ伯爵は有能だがひどい好色家で、公的、私的を問わず生ませた子が三十人に及ぶ。

 エーリカは二番目の妾の子で、父アルタ伯爵に会った時間を合計しても、二時間に満たないであろう。

 上の兄たち。つまり跡取りは既に成人しており、姉たちはわかりやすく政略の道具として他家へ嫁いでいた。

 見目麗しいエーリカは、跡を継ぐ兄の政略の道具として、大切に育てられたが、妾の母は、いくらかの金を持たされて追い出され、大きな別邸に映り住まわされた。

 エーリカにつけられた乳母は、職務に熱心ではなく、最低限度の世話と、貴族としての立ち居振る舞いだけをエーリカに与えた。

 我がまま放題に育ったエーリカが、癇癪を起すようになったのは四歳の時だ。

 あたりの物を手当たり次第に壊し、乳母だろうと庭師であろうと、辺り構わずに引っ掻いた。

 それが、愛情の不足による幼児の当然の反応のひとつ。ということを知る人は、残念ながらエーリカの周りには居なかった。

 どんなに暴れても、我がままを言っても、優しく答えてくれる無償の愛情。そういうものを、エーリカはほとんど与えられなかった。

 与えられなかったから、与えることを知らない。

 エーリカは腫れもののように扱われながら、六歳になった。

 冬の寒い日。

 エーリカは馬車の中から、領地の雪景色を見ていた。

 薄暗闇の馬場で、エーリカは停車を命じ、深い雪の中を一心に走り出した。

 御者が仰天して、だが幼い主人の癇癪を恐れて、遠巻きに追いかける。

 エーリカは、降り積もる雪の中に、男を見つけた。

 体にはいくつもの傷。どこかから這いずってきたのか、納屋の近くで息絶えたように眠っている。

「これを持って帰るわ」

 エーリカが、御者に命じた。


 アルタ家のメイド長は、深く眠るディードハルトをなんとか内々に処理しようと苦心した。

 だが、どういうことか、我がままな女主人は、ディードハルトをかいがいしく世話し、五分とおかずに様子を見に来るものだから、どうしてもできなかった。

 ディードハルトが目覚めた時、胸にあった傷は、エーリカの手によって縫われていた。医者に診せた時に「私がやる」といってきかなかったのだ。

 ひどい縫い目だ。

 意識を取り戻したディードハルトは、そう思って、隣にいる幼女を見た。


 ディードハルトは、何も語らなかった。

 傷が癒えると、エーリカに言われるがままに働いた。

 彼女が癇癪を起しても、黙って傷め付けられた。三日に一回は理由もわからずに大泣きするエーリカの隣に、黙って座っていたし、ままごとの泥団子も眉ひとつ動かさず本当に食べた。

 エーリカは次第に笑うようになった。他人と話す時も癇癪を起さなくなった。

 多少歪んではいたものの、愛情らしきものを示すようになったし、使用人に気づかいの言葉をかけることさえあった。

 周囲の誰もが、ディードハルトを気味悪く思いながらも、その存在に感謝した。

 エーリカが十歳になった日、アルタ伯爵から本家へ出向くようにお達しがあった。

「行きたくないわ」

 そう言いながらも、抗いようがないことを、本人もよく理解していた。

「ディード。ちゃんと私の傍にいてね。お父さまも、お兄さまも、血が繋がっているだけの他人なの」

「承知いたしました」

「ディードが本当のお父さまだったらいいのに」

 ディードハルトはその言葉には答えなかった。


「おお、エーリカ。美しく育ったな」

 アルタ伯爵は、ほとんど会ったこともない娘に、それでも最大級の愛情をこめて優しく抱擁した。

 初めて会う兄たちも、にこやかに笑い、美しいドレスや宝石をプレゼントしてくれた。

 隅で控えるディードハルトには、エーリカは喜んでいる様に見えた。戸惑ってはいるようだが、初めてといってもいいほどの、血のつながった家族からの抱擁。

 ささやかな宴。

 温まった空気の中、アルタ伯爵は満面の笑みで宣言した。

「エーリカ。お前は今日からこの屋敷に住むんだよ」

「え?」

「お前の輿入れ先が決まった。シディーアス男爵家の長男だ。少し年かさだが、とても裕福な家だよ」

 エーリカの反論を待たず、周囲からは祝福の拍手が起こる。

「でも、お父様、私はまだ子供で……」

「はは。そんなのは関係ないよ。お前は女の子で、とても美しいのだから」

 その言葉で、エーリカの頭で何かが壊れる小さな音がした。

 私は、女の子で、美しいから、何?

 エーリカは完全に混乱して、唯一の拠り所を探した。

「ディ、ディードハルトを……」

「おお、おお。聞いておるよ。あの隅におる男だろう? 大変な忠義ものだというではないか。さ、ディードハルトとやら、前へ」

 ディードハルトは、静かに進み出て跪く。

「お前の働きは、この子の乳母からよく聞いておる。素晴らしい働き者だとか」

「もったいないお言葉でございます」

「うむ。エーリカの輿入れが決まった。今後は私のもとか、これの兄のもとで働くがよい」

 ディードハルトは、黙って頭を下げ、ちらりとエーリカを見た。その目から急速に生気とでも言うべき力が失われていく。

「手厚く処遇するゆえ、心配せんでよろしい。下がりなさい」


 その夜。ディードハルトの寝室にエーリカが忍び込んだ。

 跪く彼を、何度も殴打し、言った。

「この家は……この国……この世界は、私からなんでも奪っていくんだわ」

「……」

「きれいな家も、ドレスも、宝石も、人形も、全部私の物じゃない。お父さまのもの。私自身だって、アルタ伯爵家のもの」

 その怒り、憤りは、この世に住む多くの女性が抱くものだった。

「私のものは、たった一つ。ディード、あなたよ」

「恐れ多いことです」

 エーリカは、ディードに噛みつく。様々な感情を、どう表現していいかわからない。

「あなたまで取られるくらいなら、私死ぬから」

「それは……」

「死ぬわ。高い木に登って、首をくくるわ。炎の中に飛び込んで、黒焦げになるわ」

「エーリカ様」

「嫌でしょう? ねえ、そんなふうに私が死ぬのは、嫌でしょう? ディード!」

「もちろんです。嫌です」

「じゃあ、殺して! 私から奪うものを、全部を殺して」

「エーリカ様」

「全部、全部殺して。ねえ、ディード。世界に二人しかいなくなってもいいわ。もう、私から何も奪わせないで! 私を守って、ディード!」

 エーリカは泣いた。自分が言っていることが、狂っているのを知っている。けれど、間違っているのは絶対に自分じゃない。運命に、感情に、抗うことが出来ない、抗えば抗うほど、狂って行く。

「承知いたしました。エーリカ様」

 ディードハルトは、そう答えながら、己の血を呪った。

 きっと、己の汚れた血が、この憐れな娘を狂わせているのだと思った。

 同時に、静まり始めていたその血が沸き立つのを、確かに感じた。


 翌日のよく晴れた朝。

 アルタ伯爵の館にいた一族と住み込みの家政婦、職人、騎士、全110名がことごとく死体で見つかった。

 たった二人生き残ったアルタ家の息女と、彼女を守り切った男の証言によれば、賊は八人組。

 家中を歩き回り、丹念に、徹底的に家人を殺し回っている。

 相当量の貴金属、銀食器、貨幣が盗まれており、怨恨にしろ強盗にしろ、異常な犯行だ。

 実際には、ディードハルトが家人を皆殺しにし、目につく貴重品を、近くの池に沈めたのだ。

 犯行現場の証拠から、賊ではないと主張する者もわずかながらあったが、あまりの巨大で異常な殺りくに、それがひとりの犯行であると推測できるものもまたいなかった。

 徹底的な山狩りと国家の介入を経たものの、結局真犯人は見つからず、かなり離れた位置に巣くっていた山賊団が「それらしい」という理由でつるし上げられ、事件は沈静化した。

 この後、事件に巻き込まれなかったアルタ家の三男、四男、五男が、同じく強盗と、不慮の落馬と、原因不明の病気で死んだ。

 エーリカは、こうして由緒あるアルタ家を継ぐ、正当な権利を得たのだ。


 それでも、エーリカは怯えている。

 自分より身分の高い者。鼻持ちならない貴族。意思の及ばない世界に、怯え、怒っている。


「怖いわ、ディード。また誰かが、私から何かを奪う気がする」

「エーリカ様。ご安心ください。必ず、私めがそのような輩を一掃してご覧にいれます」

 本心ではない。

 無理だということは、よくわかる。

 それでも、この憐れな娘から、もう何も奪わせはしない。

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