第4話
その男。
名をジーン・ジグジーンという。
あきらかな偽名だ。
本人も自分の本当の名前など知らない。
名前などどうでもいいのだ。
ジーンもまた、リングの上の二人。セイとフィーザスの戦いに魅入られていた。
鳥肌が立った。
どれほどの戦いを積み重ねれば、あのような境地に立てるのか。
それに水を差すように、目の端に光が当たった。
観客席。最高貴賓席の真向かいから、鏡で反射された日光が、ジーンの目にあたっていた。誰がやっているのかまでは見えない。
(いいところだぜ? まったく)
鶏も鳴かぬほどの早朝、王暗殺の依頼主から要望があった。
『合図があったら、状況の良し悪しに関わらず、決行せよ』
寝起きに、阿呆のような計画変更を告げられて、ジーンは腹立たしかったが、提示された額を見て、すぐに承諾した。
貴族が一年に使うほどの額。命を懸けてもまだ余りあるほどの額だ。
手付として受け取った額ですら破格である。
リングの上の武人は、お互い様子見のまま、動かない。
二人の戦いを見ていると、暗殺は絶望的とも思えたが、逆に捉えれば好機とも言えるかも知れない。
会場の全ての意識が、あの凄まじい戦いに気を取られていれば、案外楽に事を運べる気がする。
ジーンは周囲を窺う。
誰一人、ジーンを警戒していない。
次の試合を戦うはずだった、セイの弟子――アルとかいったか? あの少年すら、ジーンを気にしていない。
(おいおい、俺と戦うはずだったんだぜ?)
もうすこし、自分に意識を向けてくれてもいいだろうに。
まあ、仕方ない。木刀で試合に挑むような甘ちゃんだ。しかも、目の前で師匠が化け物じみた戦いを繰り広げている。こちらを向けというのが無理な話だろう。
ジーンは得物を確認する。
どこかで奪った、幅広の剣。やや短めで、刃は厚い。
何度か頭の中で動きを確認する。
全力で駆け、やや高く設けられた観客席を駆けあがり、さらに高い貴賓席に飛び移る。
十五秒といったところか。
(マジでイケるかも知れねえな)
最悪の展開も考える。
騒ぎ立てる貴族ども。無視して構わない。
王の周囲に侍る騎士連中。二秒で皆殺し。
義侠心に溢れた大会参加者が阻止に向かったら? 例えばリングのあの二人。
(まあ、その時ゃその時だな)
それも流れだ。
殺せるだけ殺し、逃げられるだけ逃げる。
死んだら、死んだときのことだ。
リング上の二人の間に、また緊張感がみなぎってきた。
セイの全身から力が抜けていく。風に当てられた柳が、その身を沈めるような、静かで、自然で、先が読めない構え。
フィーザスが迎え撃つように構える。激流を受け止める湖のような、質量を感じさせながらも、穏やかな構え。
誰もが、両者の激突を待つ。
セイの『雷光』が、初撃の倍以上の速度でフィーザスを襲った。
彼我の間は、十メートル近く離れていたはずだ。
その間を、セイはまさに雷光のごとく詰め、フィーザスの右胴を斬り抜こうとした。
撃剣の音は耳をつんざくばかりに闘技場に響き渡る。
さしものフィーザスも、受けるのに精いっぱいだった。いや、正確には受けきれてはいない。戦斧の柄は半ばまで割れ、フィーザスの巨体が二歩ほども『ズレ』た。
駆け抜けるようにフィーザスの背に回ったセイは、即座に回転し、フィーザスの背から袈裟懸けに斬りつける。
フィーザスもまた、斬撃の衝撃から瞬時に立ち直り、迎撃の構えをとる。
「その勝負、待った!」
貴賓席からニウルス王の命が大音声で発せられる。
大音。
大声。
殺気。
追いつかない認識。
すべての人間が、わずかに静止した瞬間。
ジーンは全ての気配を絶って、走り出した。
やがて、人々は平衡を取り戻す。
耳の奥に残る撃剣の音が消え去り、絶えたと思わせる蝉の声が蘇ったとき、ジーンは既に観客席の壁を一足に駆け上っていた。
観客席を蹴り、跳躍する。
最高貴賓席の下で構える槍兵二人。兜の隙間に剣をねじ込む。もう一人の体を踏み台に、バルコニーの下部に取りつく。
軽業師のように身を捻り、捻った勢いで上へ跳躍する。
王を、殺す。
心臓がざわめく。
セイと、フィーザスの叫び。
何を言っているかはわからないが、今さら気づいても遅い。
貴賓席のバルコニーに着地。
ニウルス王の顔。狼狽する近衛が、抜刀しきれず、だが高い忠誠を示すように体ごとぶち当たってきた。
それをいなすと、もう一人。
「邪魔だ!」
ジーンは近衛を蹴り飛ばし、首筋のわずかな隙間に、広刃を突き立てた。
ニウルス王が自ら剣をとろうと手を伸ばした。
(遅い!)
剣を振り下ろす。
カッコォォオ!
予想外の音。
予想外の手ごたえ。
予想外の人。
「てめぇ! アル!」
アルが、凶刃を受け止めていた。
違和感があった。
それを正確に表現するのは、当の本人でも難しい。
強いて言うならば、流れを阻害する感覚がある。
アルはそう感じた。
緊迫する空気の中、その違和感を感じたのは、アルだけだった。
リングの対面に座っている男――ジーン・ジグジーン。
試合の一日目にすれ違った、目つきの悪い武人。その武人にほんの一瞬見られた気がしたのだ。
彼だけが、試合に熱中していない。
アルの頭の奥、ずっと深いところに、沈み込むような重さを感じた。嫌な予感、とでも言うべきか。
セイの戦いから片時も目を離したくなかった。
けれど――
目の端で、セイが動き出すのを捉えた。
同時に、ジーンがふっと存在感を消して、駆けだすのを見た。向かう先に、ひときわ高い最高貴賓席。
アルの脳髄に警戒信号が鳴り響く。
(賊だ!)
同時に、木刀を持って走り出す。
ジーンが観客席に踊りこむ。
アルも跳躍。
顔を上げる。ジーンは既に近衛を踏み台に跳んでいる。
走る。だが
(間に合わない)
そう思った瞬間、後ろから声がかかった。
「跳べ!」
ムイカだ。
信じた。
信じるしかなかった。
バルコニーに、ジーンが飛び移る。
ごう、と音がして、目の前に槍が突き立った。足場だ。
アルは突き立った槍の根元をとっかかりに、跳ぶ。
ジーンからの遅れを二歩、詰めることが出来た。
ニウルス王に、剣を振りかぶるジーン。近衛兵が命と引き換えに稼いだ時間で、アルは木剣を掌で滑らせる。
(間に合え!)
ジーンと王の間に体ごと突っ込む。
大上段からの斬りつけを、木刀で受ける。
瞬時に半ばまでえぐれた木刀に、両手を添え、足を柔らかく使う。
イメージするのは、極細の楕円。
えぐれた木刀はジーンの剣に削がれながら、その一撃を流す。
「てめえ! アル!」
ジーンが叫んだ。
アルは踏み込む。自分でも驚くほどの正確さで、打ち込む。
削がれて細くなった木刀が、ジーンの両腕と胸を完璧に捉え、折れる。
完璧な流し打ち。
だが――
(木刀が折れた分、浅い!)
強打されて吹き飛ぶジーンの体を、追う。
両の掌をふわりと広げ、片方を己の腰巻きつけるように、片方をジーンに向ける。無手でも戦う術はある。
ジーンが、憎悪に燃えた目でアルを捉えた。激烈な打ち込みを受けながら、すでに完璧な迎撃の構えをとっている。
アルは丸腰だ、斬られれば防ぐ手はない。
(でも、飛び込め)
自分の意志と、師の教えがダブって聞こえた。
飛び込め、死地に。
広刃の剣の一撃を、髪の毛一本の見切りで避ける。
アルの掌打が、ジーンの顎を捉えた。
『鎧貫』
踏みしめた足が膝に、膝が腰に、腰が胸骨に、胸骨が肩に、肩が肘に、肘が掌に――すべてが連動して、衝撃を伝える。
打たれたジーンが、細かく震えた。
震えて、膝から倒れ込む――かに見えた。
地を踏みしめる音。
ジーンが一歩、踏み出した。その足で、震える全身を抑え込むように。
アルは一瞬狼狽する。『鎧貫』が決まった。立てるはずはない。
(なら、もう一撃だ!)
アルが、流れるように次の動作に入る。
その間隙を、ジーンは見逃さない。
獣のように叫びながら、体ごとアルにぶち当たる。
「ぐっはっ」
アルは、思いもかけない速度のぶちかましに、肺の空気をすべて吐き出す。
(なんで、こんな……!)
アルの驚愕は当然だった。
痛打だったはずだ。
ジーンはアルより格上だった。
痛みを無視する術と、死地において挽回する術を数多く持っていた。そのわずかな差が、経験の浅いアルの隙を見逃さなかった。
倒れたアルを飛び越えるように、ジーンが剣を王に向ける。
体をなげうって守る近衛兵を、瞬時に斬殺。その衝撃で王は抜刀しかけた自らの剣をとり落とした。
「殺ぉぉす!」
殺意そのものになったジーンの剣は、阻まれた。
竜槍が、割って入っていた。
「間に合った!」
ムイカが不敵に笑う。
「てめぇえええらああああ!」
憎悪。
むき出しの、圧力すら感じる憎悪。
ジーンは、血走った目をムイカと、アルに向けた。
殺す。殺す。必ず殺す。
言外の気合。ジーンの強烈な殺意が、空間を震わせる。
その殺意に触れた時、アルの全身に走ったのは、恐怖でも、逡巡でも、怒りでもなかった。
(この男は、強い!)
その認識に、アルの全身は歓喜に震えたのだ。
委縮した全身に気合を込めて、肺を膨らます。
アルの目の端に、剣が見えた。ニウルス王が抜刀しかけ、取り落とした剣。
拾い、抜く。
ジーンの連撃を、ムイカは長い槍で器用に捌いている。体にまとわりつくような槍の回転は、狭い室内を感じさせない。人槍一体。ムイカ自身が槍となり、ジーンと王の間に立ちふさがる。
「どけ! 女!」
「はっ! やってみなよ、賊が!」
ムイカは毒づき、後ろに一歩大きく引きひきながら、上体を沈めた。跳ね上がるように槍がジーンを上段から打ち据える。
強烈な一撃をジーンは正面から広刃で受け止める。
音と、衝撃。
「ぬぅうああああ!」
気合の声は、ジーン。
槍を受け止めた剣ごと体を押し込んで前進すると、ムイカを蹴りあげる。
受け損ねたムイカが、胃液を吐いて仰け反る。
立ち替わるように、アルがムイカの立っていた位置に割り込み、立ちふさがる。
「邪魔だあああ!」
ジーンは青筋を立てて叫び、横薙ぎに刀を振った。
アルがそれを受ける。
王の剣「白霜剣」
典礼用の王剣と違い、武人でもあるニウルスがほれ込み、王覧試合にふさわしいと持ち込んだ名刀。
細身で、柔軟性のある刀身はその名の通り、霜が降りたように白く霞んでいる。
その『白霜剣』が、ジーンの剣を、紙のように切り裂いた。ただ受けただけで、鉄をも引き裂く、比類なき名刀。
「っ!?」
あまりの切れ味に、ジーンもアルも一瞬驚愕し、硬直する。
(でも、これなら!)
アルが受けた態勢から、一本踏み出し、袈裟切り。
ジーンは身を捩って回避。『白霜剣』を警戒して動きが大きい。
斬り上げ、薙ぎ、突く。
名刀の性能が、アルとジーンの力量差を埋める。
ジーンが床に転がるように伏せ、落ちていた近衛兵の騎士剣を振り上げる。
(この剣なら、やれる!)
アルは確信的に『白霜剣』を騎士剣にぶち当てた。
――『斬鉄』
連城の奥義を、その技術でなく刀の力でやってのける。
切り抜けて、斬り上げる。
刀を斬られる、というありえない状況、そこに生まれる空白と、空白を埋める斬り上げ。
アルの胸中には、武器に頼る己への後ろ暗さ、強敵との戦いに歓喜する恥、人の命を救おうとする義心、命を奪うことへの恐怖と好奇、そして連城の業への誇り……様々な感情と思考が、刹那のさらに何分の一の間に膨れ上がり、それが剣の先に乗った。
『白霜剣』が空を切った。
アルの迷いだけではない。
ジーン・ジグジーンの類まれな天分が、その瞬間花開いたのだ。
剣を切られ、本来なら前につんのめる重心を、膝と股関節を意図的に「抜いて」下に落とした。
「死ねよ、クソガキ!」
半分残ったジーンの剣が、正確にアルの首筋に迫る。
――竜槍。
「お前が死ね! くそ野郎!」
アルの首を切り裂く寸前に、ムイカが騎士剣を受け止め、押し込むように突く。
「がああああ!」
その突きをいなして、ジーンが怒りに吠える。
吠えて、だがジーンは、力任せに槍を弾くと、くるりと方向を変えた。
扉から殺到した近衛兵が、必死にとびかかる。
死傷者が増えるだけだ。
風のように近衛を殺傷し、扉の外に躍り出るジーン。
長い廊下に、悲鳴が響き渡る。
「くそっ!」
アルが追おうと立ち上がった瞬間、背中から声がかかった。
「追うな、アル!」
セイだ。隣に青ざめたフィーザスもいる。バルコニーからようやく這い上がってきたのだ。
前代未聞のニウルス王暗殺未遂。
ジーン・ジグジーンを名乗る男が貴賓席に乗り込み、逃亡するまで、わずか四十秒の死闘だった。
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