第2話

 炎天下。

 陽炎が立ち上るほどの熱気の中で、一日目の熱戦は大方の予想通り、ほとんど一般参加の武人が勝ち上がっていた。

 三十二人の参加者には番号が振られ、リングの周りに日よけと共に、等間隔で座らされているが、アルだけは、時折セイのところへ行って介抱させてもらうよう願い出て、それを(半ば憐れまれながら)許されている。


 王の強い意向で、貴族お抱えの騎士対一般参加の武人で組まれたカードばかりである。

 名ばかりの貴族騎士たちは、ほとんど赤子の手を捻るように敗れ去っている。破れた本人たちも予想していたようで、負けるに際して極力怪我をしないようにしている節すら見受けられる。その様を見て、ニウルス王は眉間に皺を寄せ、観客もまた怒号を飛ばした。

 一試合三本勝負、二本先取の試合形式だが、これまでのところ、三本戦った試合は存在しない。

 ただ、七戦目のムイカ戦では、始まった瞬間にムイカが相手の剣と足を叩き折り、一本で勝負を決めている。

「こんな暑い中、二本もやったら死んじゃうよ」

 そう言って、冷たい水を飲み干したムイカは、多少貴族騎士に苛ついた感情を持っているようだった。

「大丈夫なの? キミの師匠」

 ムイカは周囲の怪訝な視線も気にせず、その足でアルのところへやって来て、気遣った。

「朝方まで、ずっと厠で吐いていて……」

 白を通り越して、青にまで変色したセイの顔色は、昼近くになってようやく赤みを取り戻していが、席で倒れ込んだまま身動き一つしない。

「……とりあえず、あたしが見ておいてあげるからさ、準備したら? アルは九戦目でしょ?」

「すみません」

 アルはため息をつきつつも、木刀を握って立ち上がる。

「あの、お水だけ飲ませてあげて下さい。動くの辛いみたいなんで」

「はいはい。ほら、セイ。あんた弟子に何か言ってやりなよ。アドバイスとかさ」

 セイは手をちょっと上げてみせた。

「アル……賞金をとらないと生活が……」

「わかってます」

 苦笑いのアルは、立ち上がった。


 アルの前の試合、八戦目。

 半径十メートルの試合場では、やはり騎士が昏倒していた。

 相手の目つきの悪い、若い武人はつまらなそうに、鞘に収まったままの剣を撫でていた。抜刀すらせず、拳で殴ったらしい。

 客席からは罵声が飛んでいる。どうやら、倒れている騎士の雇い主のようだ。

「その木刀で十分だったな」

 勝った武人がすれ違いざまに言った。

 アルは、会釈だけした。その目つきの悪い武人の言葉には、嘲笑するかのような響きがあった。あまり近づきたくない部類の人間だと思ったのだ。


 アルが木刀を片手に試合用のリングに上がると、殺気立っていた観客席に、昨日と同じように笑いが起きた。

 なるべく気にしないように、国王のいる方向へ礼をすると、やはり笑いが起きた。

(何だよ、笑うことないだろ)

 少し唇を尖らせてリングの中央へ進む。

 試合の相手は、やはり貴族だ。

 四十がらみの大男で、騎士団制式採用のロングソードを提げている。

 表情にはアルを見下す色が露わになっていた。あるいは連敗続きの貴族の中で、くみしやすい相手に当たったという安堵が、態度に現れているのかも知れない。

「坊や。これは試合とはいえ、名誉をかけた戦いだ。どうなろうとも恨みっこなしだよ」

「わかっています、どうぞご遠慮なく」

 アルは深々と礼をして、木刀を正中に構える。騎士はロングソードを抜き放つと、同じように構えた。


「はじめ!」


 審判の声が響くと、観客席から怒号に近い声が響いた。

「アルぅ! 頑張れよ!」

「オイゲン! 小僧に負けるな!」

 貴族が全員負けているという中で、それでも少年に対する嘲りは変わらない。


 アルは、深く息を吐ききり、静かに吸った。

 高揚していた全身が、適度な緊張感に包まれ、聴衆の歓声は遠くから響く山鳴りのように意味を失っていく。


 対峙した瞬間から、相手の騎士が明らかに格下であることには気づいていた。


 強さに気づく感覚とは、あるいは自然を前にした時と似ていると、アルは思う。

 目を閉じると、足元に小石が転がっていることに気づくことは出来ないが、巨大な岩がそびえていれば、感覚でそれを感知することはできる。

 それは聴覚かもしれない。

 あるいは皮膚に感じる触覚かもしれない。

 それらを総合した五感で感じるものかも知れない。

 経験のなせるわざ、ということなのかも知れない。

 ただ、アルは感じていた。

 腕を組めば、それが女子供なのか、細くても緊密な膂力を有する肉体なのかを感じられるように、目の前の騎士は、アルにとって難敵とは言い難い。

 それでも、全霊を尽くして集中するのは、強大すぎる敵は、その実力を隠すことも出来る、ということを知っているからだ。

 セイがそうであるように。


(それにしても、構えが雑過ぎる)

 アルは思う。

 騎士は、半身になりながら、顔の脇まで剣の柄を引き寄せて、突きの態勢に入っている。

 見栄えだけは良いが、まるで意味のない構えに見えるのだ。

 それが謙虚なアルの警戒心を、かえって引き上げた。

(そう見せて、僕の実力を測っているのかも)

 アルは騎士に対して、ほとんど水平に構えを変える。彼我の距離は十五歩はあるが、セイであれば、瞬きの半分ほどの時間で詰められる距離だ。

 騎士がにじり寄る。まるで紙か布を前にするような、ぼんやりとした圧迫感。

「チエェェェイ!」

 騎士が踏み出し――駆け出して、突いてくる。

(……遅い)

 アルは剣の先が自分の制空権に入るまで、八通りの打ち込みを想定する。

 

 コォォン!


 鐘を打つような音が響いた。

 アルの木刀が、騎士のロングソードの側面を、正確にとらえて、はじいた。

 騎士が剣を弾かれたことに気づく、ほんのわずかな時間のうちに、木刀は騎士の首筋をつるりと撫でた。


「一本! アル!」


 審判が宣言すると、場内は沸き返った。

 そこかしこで、嘲笑していた男たちが、自分の目利きの正しさを主張しだし、女たちはアルへの見方を「可愛い田舎者の少年」から、「将来有望な可愛い田舎者」に訂正する。

 アルは、落胆しそうになる自分を必死で抑え、つんのめって倒れた騎士に手を差し伸べた。

(仮にも騎士が、こんなに弱いのか?)


 二本目も同じだった。

 大上段から斬りかける騎士からは、もはや余裕は消え失せていた。それがアルには、ただ剣を振り廻しているだけにしか見えない。

 正確に、ロングソードの腹を打ち、騎士の体が泳ぐと、足を引っかけた。

 転んだ騎士の眼前に木刀を差し出し、それで試合は終わった。


 深い落胆を態度に表さないように、相手に一礼し、慇懃な感謝を述べて会場を後にした。

 本当は、騎士に勝ったことに喜ぶべきかも知れない。

 だが、アルは自分でも思いもしなかった感情を発見して、驚いていた。


(僕は、強い人と戦いたかったんだ)


 それはアルにとって、武人であることの自覚の初めの一歩でもあるのだった。


 第十二試合。

 二日酔いで土気色の顔をした男が、頭を抑えながらリングに上がると、アルの時とは一転、会場はブーイングの嵐になった。

 なにせその男は、水の入った木製のコップを持ったまま、俯くように貴族騎士に相対し、武器すら持っていなかったのだ。

「いいのか? セイ・レンジョウ。君は武器を持ってくることも、棄権することも出来るぞ。そのままでは命を落としかねない」

 審判が再三にわたって問いただすが、セイは小さく腕を振って否定するだけだった。

「侮辱だ! この王覧試合、いや、ニウルス陛下と武人たちへの侮辱そのものだ!」

 観衆は鼻息を荒くして、セイの態度を非難した。

 非難されている当の本人が、それに答えるでもなく、むしろうるさそうに(本当にうるさかったのだけれど)耳を抑え、審判にさっさと始めるように言うと、場内は怒りの嵐が巻き起こった。

「カーライル卿! その無礼な異国人に騎士の何たるかを教えてやれ!」

「異教徒め! 血反吐を撒いて懺悔しろ!」


 カーライル卿が、血反吐を撒きながらリングをのたうち回ったのは、その十秒後だった。


 観衆で何が起こったのか見えていたのは、ほんの僅かだった。

 リング際で、アルと一緒に観戦していたムイカは、自分が唾を呑む音をはっきりと聞いた。

「キミの師匠……剣を掴んだよね?」

「そうですね。素手で掴みました」

 アルにとっては不思議でも何でもなかった。

 ほんの三年ほど前まで、アル自身もされていたことだ。

 全力で打ち込んだ真剣をを、素手でひょいと掴まれたうえに、投げ飛ばされる。宙を飛んでいる間に隙を作れば、さらに空中で何度も打たれた。

「普通じゃないよ、あの剣力」

「そうなんです。普通じゃありません」

 アルは、自分の落胆を忘れて、誇らしい気持ちが湧いて来たが、歩く屍のように戻ってきたセイを見て「でも、こうはなりたくないなぁ」と呟いた。


 結局、その日に行われた試合のうち、騎士の中で勝ち上がったのはフィーザス・オーウェンだけだった。同じく重度の二日酔いではあったが、重い全身鎧を着てリングに上がり、相手の肋骨を戦斧で粉砕しての勝利だった。

 決して弱い相手ではないように、アルには見受けられた。その実力の片鱗も見せていのかも知れない。



 その日の夜、宿舎近くの気安い食堂で、師弟二人は食事を楽しんでいた。


 ようやく体調が戻ってきたセイは、アルに睨まれながらも薄いエールを注文し、何とかひと心地ついたようだった。

「参加報酬が今日中に入ってよかったですね」

 まったくだ。と頷いて、セイは野菜たっぷりのスープを胃に流し込んだ。染み渡る程美味い。

 勝ち負けに関わらず、今日の試合を戦ったものには、寸志が渡された。それにしても、貧乏武人にとっては目が飛び出るような額だ。早速セイが金を掴んで、用意された宿舎を飛び出そうとしたので、アルが襟をつまむようにこの食堂に連れてきたのだ。

「そうそう簡単に散財しないでくださいね。おばさんに借金もあるんですから」

「わかってるよ。ほら」

 受け取った自分の金を、アルに渡す。

「どうせ明後日以降、勝てばどんどん賞金も上がっていくんだ」

 そう、一日置いて明後日の試合は八組の試合。

 さらに一日置いて、四試合を経ると、その翌日は準決勝、決勝だ。

 一度勝つたびに賞金は倍以上に膨れ上がり、優勝賞金は五十万タント。慎ましい農夫が一生に稼ぎ出す金額だ。

 準優勝でも二十万タント。最後の八人に残れば――つまりもうひとつ勝つだけで、一人二万タントにもなる。

 本来は謹厳実直なニウルス王の、この試合にかける意気込みが知れる。

 街には王覧試合の恩典が盛大に降り注ぎ、行商人が集まり、行商人を目当てに人が集まり、人を目当てに犯罪者が集まるという、一時的な特需が発生していた。


「師匠、聞きましたか? この後の試合も、王陛下自らが対戦を組むんですって」

「ま、あの王様なら、えこひいきはしないだろうがね」

 なにせ、自分と領主たちの子飼いの騎士を、すべて一般参加の武人にぶつけるカードを組む男だ。

 そのせいで、騎士はフィーザスしか残っていない。メンツなどよりも、純粋に自分の観たいもの、知りたい強さを追い求めるタイプのようだった。

 むしろ心配なのは、アルとセイが次の試合で当たることで、それは少なくとも二万タントの賞金の目減りを意味した。

 始めからクジで決めていれば、運よく弱い貴族騎士と連続で当たって、楽に勝ち進めたかも知れない。

 だからこそ、アルにとってはこれからが、ようやく試練と言える。今日勝ち残った人間で、形ばかりの武人など一人も残っていないのだ。

「今日は、楽勝だと思ったか?」

 セイは、愛弟子に視線も向けず訊いた。

「正直に言うと、そうです」

 応えながらアルは、今後はそうはいかないだろう、という実感も込めたつもりだ。

「あれだけ武人に執着している王様が、なんであんな弱い連中に囲まれているか、分るか?」

「なんで?」

 今度はアルが、敬愛する師の横顔を覗き込むように言った。弱いから、弱い。そうではないのだろうか。

「どうしてでしょうか。指導者が悪いから?」

「それもあるかもな」

「戦が少ない?」

「それも、間接的にはそうかも知れない。十年前に比べれば、この国には――」

 言おうとして、セイは言葉を飲み込んだ。二人にとって、いやこの国の多くの人にとって、口にしたくない思い出が多すぎる。

「――慣れちまったんだと思う」

「慣れた?」

「うん」

 頷いて、セイはワインを注文した。アルが目で咎めたが、注文が通ってしまったのを見て諦めた。でも、これ以上は許さない。

「この食堂の料理はうまいな」

「え? ええ。そうですね」

「昨日の宮廷料理って言うのか? まあ、あれも美味かったよな」

「はい。見たことも無い食べ物がたくさんありましたね」

「でも、俺はおばさんとカリンが作る『巻き貝亭』の料理が一番うまいと思う」

 アルは小首を傾げながらも、同意した。

 巻き貝亭という、小さな旅館兼食堂は、二人が世話になっている女性たちによって運営されている。貧乏師弟の、仮にも人間らしい生活は、彼女たちがいなければ成り立たないのだ。

「料理にせよ、強さにせよ、慣れちまうとな、これで良いやって思っちゃうんだ。宮廷料理しか食ってない連中は、巻き貝亭の味を一生知らないだろう。それで不足なく生きていられれば、それで良いと思っちまう。今日、リングの上でぶちのめされた騎士どもは、そういう連中だよ。鎧を着て、剣を振り廻していれば、美味い飯が食えて、みんながちやほやしてくれる。わざわざ痛い目をみてまで技を磨く必要もないし、恥をかいてまで教えを乞おうとも思わない連中だ」

「でも、同じ騎士でもフィーザスさんは違うように思えました」

「ま……そうだな。馬鹿みたいな格好だが、あの格好に沿う、理合があるように見えたな」

「どうしてフィーザスさんだけが、強くいられるんでしょう」

「だからさ。慣れないことだよ、アル。もっともっと美味いもんを食ってみたいって思わなきゃダメだ。比喩で言えばな」

「痛い思いをしても、恥をかいても?」

「武はな、料理と違って、間違えりゃ死ぬかもしれん。多かれ少なかれ、人の恨みは必ず買うし、その先に何もないことの方が多い……だから、アル。本当は、料理を作って生きる方がずっと良い。家族を養えるだけの仕事をして、巻き貝亭の美味い飯が毎日食えるくらいの生活が、一番いい。強くなることに、そんな大した意味は……」

「僕は生きています」

 アルは、セイの言葉を押しとどめるように言った。ときおり、この異国の男が武と、それにまつわる物事を否定的に語ろうとするとき、アルはいつもこう思うのだ。

「僕も、カリンも、おばさんも、師匠が強かったから、生きています」

「……」

「僕は、間違えるのも、痛い思いをするのも、人に恨まれるのも嫌です。嫌ですけど、強くなりたいんです。強くなることに意味を求めるなら、僕が生きていることそのものが、意味です。僕は、師匠の強さに生かされた命だから」

 セイは、ちらりと弟子を見た。

 出会った時に比べるとずいぶん大きくなった。背丈だけは、もう大人とそれほど変わりない。

 他人にとっては良くわからない理屈でも、それを押し通そうとする目の光があった。

 それが若さのせいなのか、大人になったからなのか。

 セイは、一瞬何か言いかけて、やめた。少なくとも、自分が傍にいられる限り、アルのことは守れる。

「ま、失敗するのが怖くて酒は飲めないわな」

 セイはテーブルに置かれたワインを一息で干して、それとこれとは違う、と弟子にたしなめられた。



 その日の夜、アルは夢を見た。

 よく見る夢だ。

 炎、黒煙、阿鼻叫喚。

 男が断末魔を上げ、女の悲鳴が聞こえる。

 幼いアルは、ただ立ち尽くしていた。

 目の前で、酸鼻を極める事態が起こっていることだけはわかる。

(ああ、またこの夢だ)

 血の付いた得物を片手にそこかしこを走る、野卑な男たち。


 後ろから、誰かが手を伸ばして、まだ小さなアルを引き寄せた。

(マリアおばさん)

 幼いアルを必死で引きずり、なにか語りかけている。

 親を殺され、家を焼かれ、立ち尽くしていた自分を助けてくれた、見ず知らずの女性。

 マリアの胸には、一人の女の子が抱えられている。

(カリン)

 煤だらけの顔に、涙の跡が幾筋も通って、表情が失せていた。冷たい陶器の人形を思わせる。後から知ったことだが、カリンもまた、見ず知らずのマリアに助けられ、逃げていた。


 狭い田舎道の向こうで、どこかの農夫が喉を割かれ、その子供たちは蹴倒され、生きたまま炎に投げ込まれた。


 アルは、野盗どもを斬り殺したいと思った。

 だが、夢の中の幼いアルは動くことが出来ない。ただ過去をなぞるだけだ。

 マリアが幼い二人を隠すように抱いた。柔らかい両手で、二人の耳を覆う。

「大丈夫。大丈夫だよ。さ、目をつぶっておいで」

 マリアは必死に笑った。この後起こるであろう残酷な現実に、幼子たちをわずかでも遠ざけようと、小さく聖句を唱えている。


 その背中越しに三人組の野盗が、笑いながら近づいてくるのが見えた。


 炎。黒煙。阿鼻。叫喚。


 アルは怖かった。

 何より、声も出せない自分が嫌だった。

 勇気も、力も、何もない子供の自分を嫌悪した。

 野盗が楽しそうに剣を振りあげ、鼻歌でも歌うように剣を振りかざした。


 周囲を包む煙が突然巻き上がった。


 光。そう感じた。


 光が、野盗の前に立ちふさがり、あっという間に斬り伏せた。

 煙の中から飛び出して来た男の手には、不思議な光を放つ刀が握られている。

 男はこちらをちらりと見て「大丈夫か?」とでも言うように、少し目を開いて見せた。

(師匠、師匠!)

 叫びたかった。

 セイは何も言わない。

 このころのセイは、まだこちらの言葉があまり話せなかった。

 だが、幼いアルにも、セイが自分たちを守ってくれたことはよくわかった。

 セイは、次々と野盗を斬って倒した。

 体が、沈むように低くなったと思うと、次の瞬間には目の前の敵の喉を、腕を、腹を斬っていた。

 何人斬ろうと、一合たりとも刀を合わせない。

 やがて、騒ぎの中で野盗の本体――今思えば、どこかの軍隊の輜重隊だったのだろう。装備が整っていた――が隊列を率いてやってきた。

 三十名ほどの中で、三人は馬に乗り、他は胸当て鎧まで身に着けている。

 セイは、少し首を傾げるようにして、間髪を置かずにその隊列に突っ込んだ。

 馬が、人が、腕が、頭が、臓物が吹き飛んだ。

 十秒しないうちに、セイは隊列の向こう側まで斬り拓く。血煙の中、隊列の半分は死体に変わっていた。

「神様」

 野盗の臓物をまき散らす男を見て、アルはそう思った。

 血に塗れた異国の男は、憐れな羊たちを救いに来た神に見えた。

 小手を叩き落とし、膝を蹴り潰し、喉を潰し、胸を貫き、動脈を引き裂き、ろっ骨をむしり取り、縦に、横に、袈裟に体を分断した。

 わずかたりとも慈悲のようなものは見えない。戦闘不能に陥った兵は、倒れたまま時間をかけて死んでいく。


 いつしか、炎は止んだ。


 ひどい寝汗に、アルは覚醒した。

 深夜、さすがのお祭り騒ぎもひと段落したらしく、窓からのぞく街道には、月の光に照らされた野良犬が、静かに地面を嗅いでいるのが見えた。

 隣の部屋からは聞きなれたいびきがかすかに聞こえる。

「僕は強さに生かされた命だ」

 アルはそう心に強く念じた。



 満月の下、王城からほど近い屋敷の中庭で、ひとりの少女がグラスを傾けていた。

 エーリカ・ルネ・アルタ。今年で十六を迎えるその娘は、鋭利な刃物を思わせる瞳を、傍らに控える男に向ける。

 若くしてニウルス王国、東北に位置する地方領主の一人である。

「それじゃあ、失敗なのね?」

 少女の瞳は、さらに酷薄な光を放った。

「まず、間違いなく。申し訳もございません、エーリカ様」

 男の年齢は二十後半。肩まで伸びた黒い髪を深々と下げ、少女に詫びた。

 エーリカは、男の頭を踏みつけた。憎しみに燃える口元が歪んでも、その美しさは一片も欠けぬようだった。

「その『申し訳』ってのを、聞かせてほしいのよ、ディード。まだ王覧試合は一日目。それでどうして暗殺が失敗なの?」

 ディードハルトは、頭を踏みつけられたまま、眉ひとつ動かさず、臣従の礼をとり続ける。

「ニウルス王に接近するために雇い、王覧試合に紛れ込ませた刺客、三人のうち二人が、第一試合で敗れました……」

「だから、あんなボンクラ騎士ども、お金の無駄だって言ったのよ!」

 ディードハルトの頭を踏む足に力がこもる。

「しかし、王に接近できるという確率を考えれば……」

「それで? 勝ち残った下賤の武人がいるのに、どうしてニウルスを殺せないの?」

 ニウルス王暗殺。恐ろしい大逆の罪を、エーリカは何はばかることなく言ってのける。

「ひとえに私の見立て違いです。親衛隊副隊長のフィーザス伯の実力は、思っていた以上でした」


 王覧試合最終日、勝ち残った最後の武人は、武器を携えたまま王に拝謁し、賞を受ける機会がある。

 騎士叙勲、爵位叙勲には、いずれもその剣を王に捧げる儀式が必要だからだ。

 本当のところは分らない。叙勲式を後日にする、と言われればそれまでだし、そうでなくとも、どれだけの警備体制がしかれるかは予想するしかない。

 あくまで、ニウルス王の性格と、この試合にかける意気込みを考えれば……という儚い希望に過ぎない。その儚い希望に、王暗殺の機会をうかがうのは狂気の沙汰だったが、エーリカの気まぐれで唐突な狂気を実現しようとする、別の狂気がディードハルトという男にある。

「二位でも、三位でもチャンスはあるんじゃないの?」

「あるいはそうかもしれません。が、際立った実力者が、もう一人います。セイ・レンジョウという異国の男です」

 それを聞くか、聞かぬかのうちに、エーリカから烈火のごとき感情が、嘘のように消えている。理解しがたいが、この話題から興味を失いかけているのだ。

「それで?」

「残った刺客がフィーザス伯、あるいはセイ・レンジョウと当たれば、まず間違いなく敗北するでしょう。もしも、幸運にも刺客が優勝したとして、おそらく王の傍らにはフィーザス伯がいるでしょうし、暗殺阻止にセイ・レンジョウが動けば、失敗は確実です。どちらにせよ、フィーザス伯が傍に侍る以上、どのような混乱が起きようとも、王の暗殺は難しいかと」

 政治的な発言力のないエーリカの立場を考えれば、始めから幸運という要素抜きでは成り立たない計画だった。

 だがそれでも、ディードハルトは出来うる限りの算段を打ったつもりだった。

 しかし、今日見たフィーザスの力は、多少の混乱や幸運などをねじ伏せて余りある、圧倒的なものだったのだ。この上は、今後のことも考えて、無用な動きを避ける。それが、ニウルス王暗殺をわずかにでも確実なものとする、唯一の道であるように思えた。

「お前はやれないの? ディード」

「……雇った三人に関しては、どのような調査が入ろうとも、エーリカ様に嫌疑が及ぶことはありません。しかし、エーリカ様付の騎士である私が動けば……」

「冗談よ」

 エーリカは、薄張りのワイングラスをディードに投げつけた。ディードはそれを避けもせず、当たるに任せる。グラスが割れ、細い傷がその頬に付いても、微動だにしない。

「申し訳ございません。すべてはこのディードハルドの責にございます」

 深々と頭を垂れるディードに、エーリカは色を失った目で応えた。

「いいわ、でも、どんな結果になっても実行はさせなさい」

「……」

「失敗なら、失敗でいいわ。もう面倒。刺客には、お金を二倍でも、三倍でも与えて、次の試合中にニウルスを襲わせなさい」

「しかし……」

「万が一暗殺が成功すればよし。お前が言ったように失敗するならそれもよし。ニウルスが命を狙われて、あたふたするところが見たいわ」

 ディードハルトは、黙ってエーリカを見つめる。

「そうだわ、もうそれでいいや。もしかしたら、何かの拍子にどこかの馬鹿貴族が死ぬかも知れないしね。そうしよっと!」

 エーリカは、独り言のように言って立ち上がると、薄い絹のドレスを無造作に脱ぎ捨て、ディードハルトに放った。異論も反論も聞くつもりはない。

「もう遅いから、寝るわ。おやすみ、ディード」

「おやすみなさいませ。エーリカ様」

 月が亮了と照る屋敷の中庭で、主人の足音が消えるまで、ディードハルトは指先ひとつ動かさずに臣従の礼をとり続けた。

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