第14話 咲との天体観測


 平田と話を終えた安藤が病室に戻ると、ベッドに横たわる咲の姿があった。消毒液の匂う部屋で、ただぼんやりと写真を見ている。写真には幸せだった頃の家族の姿が映っていた。


「姉さんを殺した人は捕まったの?」


 蚊の鳴くような小さい声でつぶやく。何とか聞き取れた安藤は黙って首を横に振ると、「そっか……」と彼女は呟く。声からは生気が感じられなかった。


「姉さんを殺したのは死人病患者を差別している人たちなんだよね。なら今度は私が殺されるのかな……」

「大丈夫さ。警察も警戒してくれているし、病院の中は安全だ。それに――」

「それに?」

「俺の命に代えても、必ず守り抜くよ。約束だ」


 彩が遺書で残した最後の願いは妹の幸せだった。姉の彩は守り抜けなかったが、妹の咲だけは必ず守ると、安藤は心に決めていた。


「約束か……兄さんとの約束なら安心だね」


 咲は先ほどまでの落ち込みが嘘だったように、ベッドから飛び起きる。


「いつまでもクヨクヨしていられないもんね。きっと姉さんが生きていたなら、そう言うもの」

「元気になったようで良かった。何かしたいことはないか?」


 咲は彩ほどではないが、それでも先の長い人生ではない。貴重な彼女の時間を、思い出に変えてあげたいと安藤は考えていた。


「なら天体観測がしたいな」

「…………」


 天体観測という言葉には楽しい思い出しかなかったのに、彩の死によって、それは彼の最も忌避する言葉に変わっていた。


「もしかして嫌だった?」


 安藤の顔色が悪くなったのを悟ったのか、咲は伺うように言葉を続ける。


「いや、いいよ。天体観測をやろう。どこでやる?」

「病院の外に出るのは危ないから、屋上はどうかな?」

「屋上から見えるのか?」

「ママの望遠鏡があるから、これを使えば凄く綺麗に見えるよ」

「へぇ~」


 咲はベッドの傍に立てかけていた望遠鏡を安藤に手渡す。かなり高価な望遠鏡なのだろう、鏡筒と架台に有名ブランドのロゴが記されている。


「ラッキーなことに、今日は星が綺麗だし、早速見に行かない?」

「行こう」


 安藤と咲は善は急げと病院の屋上へと向かう。誰もいない殺風景な屋上には夜風が拭いており、生ぬるい風は肌を舐めるように流れていった。


「兄さん、望遠鏡は使ったことあるの?」

「何度かな。咲は?」

「私は使えない。だからいつも姉さん任せだった」


 安藤は慣れた手つきで、望遠鏡の設定を変更する。のぞき込んで確認すると、夜空に輝く星がくっきりと見えた。


「さすがは亜美さんの望遠鏡だ。綺麗に見える」

「私にも見せて、見せてー」


 安藤は咲に場所を譲り、望遠鏡を覗くように促す。


「綺麗……」


 咲は夢中になって望遠鏡から覗く景色を眺めていた。新しい星を見つけるたびに、彼女は感嘆の声をあげる。そんな彼女の姿がとても愛おしいと、安藤は感じた。


「ねぇ、兄さん……」

「なんだ?」

「兄さんには好きな人とかいるの?」


 望遠鏡を覗きながら、咲は訊ねる。表情は望遠鏡で隠れてしまい伺えない。


「恋人とかさ、いなかったの?」

「いないさ。俺の顔を見てみろよ」

「だ、だよね。そうだと思った」


 咲の言葉には馬鹿にしたような響きはなかった。それよりも安心や喜びと云った感情が含まれた声だった。


「私と姉さん、子供の頃に良く喧嘩したんだ。意外でしょ?」

「二人はいつも仲が良かったからな」

「喧嘩する理由はいつも同じ。どちらが兄さんと結婚するかだったんだよ」

「それは……」


 どういう意味だとは返さなかった。咲の照れた表情が、何を意味するか教えてくれていた。


「兄さんに恋人がいないなら、私が恋人になってあげてもいいわよ」

「咲……」

「か、感謝してよね。私と姉さん以外に、ゴリラみたいな顔の兄さんを好きになってくれる人なんていないんだから」

「ああ。感謝している」


 安藤は気づかない内に目尻から涙を溢れさせていた。彼の人生は迫害が常だった。誰からも愛されず、孤独な人生を送るのだと思っていた。だからこそ自分を一人の男として認めてくれた彼女の言葉は何よりも嬉しい一言だった。


「ねぇ、手を繋いでもいいかな?」

「ああ」


 咲は怯えるように手を伸ばす。その手は小刻みに震えていた。彼女もまた恐れていたのだ。死人病に感染し、ゾンビのような外見に変わってしまってからは、誰からも愛されず、誰からも忌避されてきた。だから嫌われてしまうのではないかと恐ろしかったのだ。


 安藤は咲と同じように手を伸ばす。はっきりと力強く握りしめようとした。だが手は宙を掴む。それは闇夜を切り裂くような銃声が響いたことによるものだった。


 屋上の入り口には、黒死病の仮面を被った男が立っていた。手には拳銃が握られており、銃口からは煙が上がっている。既に銃弾が発射された後だった。


「に、兄さん……」


 冷たい屋上のコンクリートに咲は横たわっていた。腹部を拳銃で撃ち抜かれ、大量の出血で水たまりを作っている。


「さ、咲……」

「わ、私、死ぬのかな……」

「死ぬもんか。死ぬはずがないだろ」


 守ると約束した。だから絶対に死なせないと安藤は吠える。


「兄さんがパパに会いに行った日のことね。感謝しているんだよ。パパは私のことを嫌っているのに、私がパパに愛されているって希望を持たせてくれた。死人病に感染してから愛情なんて感じたことがなかったけれど、あの時だけは感じられた」

「うぅ……」


 安藤の瞳からは涙が零れ落ちる。涙の量に比例するように、咲から流れ出る血の量も増えていった。


「気持ちの悪い私なんかと……恋人に……なってくれて……ありがとうね。兄さんと恋人になれたこと……お姉ちゃんに自慢……し、ないと」


 そう言い残して、咲は息を引き取った。あっさりと大切な人が死んでしまった。


「殺す! 殺す! 殺す!」


 大切な人を二人も殺され、安藤の怒りは頂点に達していた。だが黒死病の男はその怒りに屈する様子を見せず、ただ冷静に銃口を安藤へと向ける。そして引き金を引いた。銃弾で頭を打ち抜かれながら、安藤は願った。もし人生をやり直せるなら、二人の大切な人たちを救いたい。そして眼前の男に復讐してやりたいと。意識を失う直前まで、彼はただそれだけを望み続けた。


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