第5話 死にたがりの少女


 次の日。赤崎姉妹の父親から意外にもメールはすんなり返ってきた。夜に会う約束を取り付けたが、それまで予定のなかった安藤は、日用雑貨をデパートで買い占め、星空病院へと赴いた。


 灰色の病室には妹の咲はおらず、姉の彩だけがいた。安藤の顔を見ると、嬉しそうに微笑んだ。


「今日も来てくれたんだね」

「日用雑貨、病院で用意するにも限界があるだろ。だから買い漁ってきた」

「ありがとう。けれど私はあっくんが会いに来てくれたことが一番嬉しいよ」


 日用雑貨には衣服や菓子や娯楽のための本、他には果物も含まれていた。


「色々ありがとう。特に本は嬉しいな。病院だと暇で暇で仕方なくて」

「喜んでもらえたのなら良かった」


 安藤は本を手渡した後、紙袋の中から真っ赤なリンゴと果物ナイフを取り出す。


「彩はリンゴが好きだったろ」

「……覚えていてくれたんだね」

「昔、彩の母親の亜美さんに連れられてリンゴ狩りにいった時、嬉しそうにリンゴにかぶりついていたもんな」

「そうだね。あの頃はお母さんも生きていたんだもんね」


 安藤は彼の母が彩の母の亜美であれば良かったと何度も願ったことを思い出す。


「リンゴ食べるか? 良ければ皮を剥いてやるぞ」

「ごめんね。食べられないんだ」

「お腹がいっぱいなのか?」

「そうじゃなくてね。死人病に感染すると普通のご飯は食べられなくなるの。正確には口にはできるんだけど、味が本来の味とは違った味に感じるの」

「違った味?」

「うん。リンゴは生ゴミを下水で煮込んだような味だし、ケーキは砂と土を練りこんだ粘土のような味がするの」

「なら食事は……」

「基本は点滴だね。舌に触れなければ味は感じないから」

「そうか……」


 安藤は彩があまりに不憫に思えてならなかった。何を食べても苦痛にしか感じない。三大欲求の一つが苦痛しか生まないのは地獄以外の何物でもない。


「ご、ごめん、あっくん。そこにある水筒を取ってくれない」


 彩が突然息を荒くして、机の上に置かれた水筒を指さす。突然の変化に安藤は動揺してしまう。


「あっくん! お願い!」

「ああ。分かった」


 水筒を手渡すと、砂漠でオアシスを見つけたかのような勢いで、水筒の蓋を開ける。だが中身を出そうと水筒を傾けるが、水は姿を現さない。代わりに一滴の血が水筒の上にポトリと落ちた。


「ないっ、ないっ、ないっ! どうしよう! どうしよう!」


 彩は自分の胸を掴んで苦しみ始める。水筒から零れ落ちた血の滴と、彩の突然の変貌、そして知識と知っていた死人病患者の症状から、安藤は自分のすべき行動を理解した。


「待ってろ」


 手に持った果物ナイフを自分の手首に当てて切り裂き、血を水筒のコップで受け止める。流れ落ちた血がコップ一杯になったのを確認し、彩に飲ませた。すると先ほどまでの急変が嘘だったように、彩は落ち着きを取り戻した。


「あっくん、それ!」

「血が必要だったんだろ。だから手首を切ったんだ。彩が無事で良かったよ」


 安藤が笑顔でそう答えると、彩は今にも泣きそうな表情を浮かべる。


「ごめんね、私のためなんかに。痛かったよね」

「痛くなんてないさ」

「ごめん……」


 彩が目尻に涙を浮かべながら頭を下げる。安藤は少しでも彼女の罪悪感を減らすため、買ってきた日用雑貨の中から包帯と消毒液を取り出し、切った手首の治療をする。


「ほら見てみろよ。完治したぞ」

「本当に痛くないの? 本当に無理してないの?」

「痛くもないし無理もしてない」


 彩は安藤の言葉が嘘だと分かったが、彼の優しさに甘えることにした。


「あっくん、そこのタオルを取ってもらっても良い」

「ああ」


 近くに積まれていた真っ白なタオルを手渡す。何枚も積み重ねられたタオルは、使いきれないような過剰な枚数だった。


「凄い枚数でしょ。死人病の病室には必ずタオルが積まれているんだよ。なぜだか分かる?」

「いいや。分からない」

「これが原因」


 彩が服の袖を捲ると、皮膚が灰色に変色し、腐敗水泡が肌に浮かんでいた。腐敗臭も漂っている。


「死人病患者が発作を起こすと、タンパク質が分解されて、皮下脂肪が腐敗するの。それでこんな風になっちゃうんだ」

「拭けば治るのか?」

「うん。血を飲めば体が修復されるの。不思議だよね。お医者さんも原因は分からないんだって」


 彩はタオルで自分の肌を拭いていく。中々取れないのか、必死にタオルを肌に擦りつける。


「背中、拭いてやろうか」

「無理しなくていいよ。気持ち悪いでしょ」

「気持ち悪いもんか」


 言葉を証明するように、彩の手の届かない背中をタオルで拭いてやる。脂がタオルでぬぐい取られていく感触が手に伝わっていく。気づくと、彩の目から涙が零れ落ちていた。


「ごめんね。ごめんね……」

「…………」


 彩はひたすら謝罪の言葉を口にする。それを安藤はただ黙って聞いていた。


「私、生きている価値ないよね。早く死んだ方が良いよね……」

「…………」

「いつも、朝目を覚ますと、今日もまた生きていることに絶望するの。どうして眠りから目覚めちゃったんだろうと後悔するの」

「…………」

「こんな気持ち悪い人間、きっと死んじゃったほうが皆も幸せなんだよ。鏡で自分の顔を見るたびに自分がそう思うんだもん。間違いないよ」


 安藤は彩の嘆きをすべて受け入れ、ようやく重い口を開く。


「彩は気持ち悪くないし、死んだら俺が悲しいよ。それに――俺の顔だってゴリラみたいなんだし、ゾンビとだって大差ないさ」

「ありがとう……あっくんは優しいね」

「家族なんだから優しいのは当然さ」

「ふふふっ、そうだね」


 彩は嬉しそうに微笑んだ。その表情を見て、安藤まで嬉しい気持ちで一杯になった。


「今日この後予定があるから帰るよ。また夜に来るから」

「うん。待ってるから。絶対にまた来てね」

「分かった。約束だ」


 安藤は立ち上がり病室を後にする。彼が病室を去ると、彩は彼が来るのを心待ちにするように、ずっと出入り口の扉を見つめていた。

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