第十七章 <Ⅳ>

 私はこのバケモノから逃げてきた。

 目をそむけ、耳をふさいでやり過ごしてきた。

 木槿むくげを失ったときでさえも。


 でも。ようやく気づいたのだ。

 このままでは、りんを守れないと。


 私は、もう逃げるわけにはいかないのだ。



よいち姫は、鬼に勝ったじゃないの」


 沙羅さらが頬笑んだ、その瞬間――。


 大地が火花をいて炸裂さくれつした。

 マグマの山が押し寄せる。

 そのいただきが、二人の頭上高くまで、せり上がった。



(どろぼう! 返せ!)


 バケモノの咆吼ほうこうが大気を揺るがした。



「――えっ?」


 林は息を飲む。


 あれは――真夜中の露天商の声だ!


 ポンヌフを取り返しに来たんだ!


 すくんだ体が凍りつく。あの夜の恐怖が林をらえた。



 そして。燃えさかるいただきが、沙羅と林の上に雪崩なだれ落ちてくる。

 けきれる大きさではなかった。



「――!」


 りんは、目をおおって望みを捨てる。


「林!」


 沙羅さらが娘の上におおいかぶさった。


「――ダメ! ママ! いやだ!」


 その悲鳴までもが、高熱に溶かされる。



(どろぼう! 返せ! どろぼう!)


 バケモノのしゃがれた声が、勝ち誇ったようにどくづいた。



 林の意識が途切れようとした、そのとき。

 やわらかなものが、抱きあう二人をすっぽりと包みこんだ。


 のどを焼く熱が遮断され、清々すがすがしい空気が肺に流れこむ。

 全身の痛みが遠ざかり、心地良いぬくもりが二人をやした。


「え? あれ? ――ママ?」


「林! 林! 大丈夫?」


 林と沙羅が顔を上げると、闇の空を白くうずめるように、きらきらと無数の羽が舞っていた。


 やわらかな羽が雪のように降りかかると、二人の体も光をびてきらめいた。

 羽に触れると、灼熱のマグマも漆黒の臭気ガスも、霧のように溶けて消え失せる。



「ポンヌフ! ポンヌフ! どこ?」


 あおざめた林が叫ぶ。――背中の翼が無い。



 ――ばいばい。


 ポンヌフのあどけない声が、林の耳元でささやいた。



「ポンヌフ! 待ってよ!」


 空中に差し出された林の指先に、白い羽がひらりと舞う。



 ――リン。だいすき。



 そして――。

 空いっぱいに舞い散る白い羽が、ろうそくの炎を吹き消すように、一斉に消えた。



「ポンヌフ! ポンヌフ――ッ!」


 泣き叫ぶ林のからだを、沙羅が固く抱きしめた。


 やがて暗闇が二人の周囲に戻っても、林と沙羅にまといつく淡い光は、いつまでもきらめいて消えなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます