第十六章 <Ⅱ-2>

 沙羅さら眞彦さなひこと結婚し、実家の別棟で暮らしはじめたのは六年前だった。


 しかし、沙羅と眞彦を慕う木槿むくげが、昼夜を問わず沙羅たちの二階家にびたるので、プライバシーはどこにもなかった。 

 研究一途な眞彦はたびたび職場に泊まりこむ。

 この家で夫と過ごす時間は、沙羅にとって短く貴重だったのだが。


 ――木槿がわずらわしい。

 そんな本音は、邪気のない木槿本人にはもちろん、誰にも言えなかった。




 先月作った梅シロップは、ワインの空き瓶に入れてある。

 ラベルなどもつけないから、台所に立たない者には見分けがつかないだろうが、そこがまたしゃくさわる。


「ほら、これが梅シロップ!」


 緑色の半透明のボトルを指差しすとと、木槿は愛らしいえくぼを浮かべた。


「ママ、ありがとう!」


 ――あんたのママじゃないわよ、と沙羅は思ってしまう。

 りんと同じように甘えて欲しくなかった。


「はいはい。あとは自分で作ってね」


 気のない返事をして、沙羅は胡瓜きゅうりの浮くたらいに戻った。



 大人は梅酒、林と木槿は梅シロップ、が夏の定番だった。


 梅酒を水のように薄めても、木槿は一口で真っ赤になってしまう。

 よほどアルコールに弱いたちなのだろう。お前は大人になっても酒を飲んではいけないと言い含められていた。


 そのとき勝手口から、お隣の奥さんが入ってきた。


「こんにちは。回覧板ですよ。保健所からお知らせですって――」


「あら、お世話様です」


 話し好きの叔母は友だちが多い。

 お隣の奥さんとは幼馴染みで、とくに気が合うようだ。


「これ、ご覧なさいよ。この地区でも山菜の食中毒が増えてるんですってよ」


「あらイヤだ。ここに出てる写真も毒草なの?」


「そうよ。ドクニンジンだって」


「いやだ、セリに似てるじゃない。そういえば、この前も毒キノコで――」


 叔母は仕事を放り出して、楽しげに他所よその家の不幸をうわさしはじめた。

 沙羅さらはため息をついて、サヤエンドウの山に取りかかる。


 木槿は、お気に入りのグラスを食器棚の奧から探しだし、梅シロップを注いで氷と冷水を足した。


「おねえちゃん! 今年のシロップ、いつもより美味しいね!」


 一口飲むと、大袈裟おおげさに喜ぶ。


「そう?」


 沙羅はサヤエンドウに返事をする。


「最高だよ! これ、道の駅に出したら売れるんじゃない?」


「そのグラス、洗ってちょうだいね」


「はーい」


 ガチャガチャと雑にグラスを洗って、木槿がようやく台所を出ていく。

 叔母たちは何が可笑しいのか、けたたましい笑い声をあげている。


 そのとき沙羅の目の端で、木槿の足元がふらりと蹌踉よろけたように見えた。

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