第十六章 沙羅の家

第十六章 <Ⅰー1>

 それは、カンテラが真昼の光を飲み込んだときのこと。


 りんが声も上げられずに立ちすくんでいると、闇の向こうから、ぼんやりと頼りなげなあかりが、ふわりふわりと、こちらへ漂ってくるのが見えた。

 ぼん提灯ちょうちんのような丸い灯りは、粉砂糖のような光の粒子をまきちらしながら、林に近づいてくる。


「リン! お帰りなさい!」


「ポンヌフ!」


 林は両手を差し出して、子グマの頭を抱きとめる。


 ――わたしはまた眠っているのだろうか?


「どうやって、車から出たの?」


「あのね。箪笥たんずで寝てたら、ママが連れてきてくれた」


 ポンヌフは林の胸でモグモグと言った。


「それって、わたしと会うまえでしょ?」


「そうだっけ?」


 ポンフヌがのんきに笑う。


「ママがね、今からポンヌフをリンのところに届けるから、ポンヌフ、リンを助けてねって言ったんだよ! ――だからね、ぼく、おっけー! って言ったの!」


「ほんとに?」


 林は目をみはった。


 ――ママにも、ポンヌフの「おっけー!」が聞こえたかな。


 ポンヌフを抱いた胸が暖かくて、林の瞳がうるむ。

 母の一途な優しさも、ポンヌフのおかげで素直に受け取れた。


「ポンヌフ。ここはどこ? 真っ暗で何にも見えないよ」


 二人を取りまく暗闇に目をらすと、一様に暗いわけではなく、黒いもやのようなものが渦巻いているのだった。大気を震わせる気味の悪い音は、いまも、どろどろととどろいている。両親やみんなは、どこにいるんだろう。


「おねえちゃんも困ってたよ。声がリンに届かないって」


 こんなときでも、ポンヌフの声はのどかに楽しげだ。


「おねえちゃんが? それ、どういうこと?」


「この煙のせいなの」


「これって、煙なの?」


「そうだよ。くさいでしょ」


 林はすんすんと闇の匂いを嗅いで、顔をしかめた。


「――ほんとだ。なんかげ臭い」


「おねえちゃんが『リン、好き』って言うでしょ。その声が煙のなかを通ると『リン、キライ』になるの」


「ええっ!」


 思わず驚きの叫びをあげる。


 ――わたしは、林が、キライ。


 夢で、おねえちゃんに何度もそう言われた。――あれは?


「ポンヌフ。――それって、この煙のなかを通ると、反対の意味になるってこと?」


 林の声が震える。


「すっごく恐いのになるの」


 ポンヌフがおびえたように、ふわふわした耳を伏せた。


「大丈夫だよ、ポンヌフ。私が守ってあげるから」


 林はぎゅっとポンヌフを抱きしめた。


 ――恐いのになる?


 夢で見た露天商を思い浮かべた。

 あの母に似た面影の女の人はもしかしたら――おねえちゃんだったの?


 もつれてからまり合った糸が、ほどけかけている気がした。


「リンが小さいときは、ちゃんと届いたんだって。――リン、苦しい」


 腕のなかでポンヌフがもぞもぞと身動きした。


「あ、ごめん。――それって、まだここに住んでたとき?」


 ゆるめた腕から、ポンヌフがふわふわと宙に抜けだした。


「そうだよ。子ども部屋で、リンが一人で遊んでたときだよ」


「そうだったかなあ。なんにも覚えてないや」


 なんとか思い出そうと、林は左右に首をひねる。


「さびしくないよ、そばにいるよって。リンには、ちゃんと聞こえたじゃないか」


 ポンヌフのあどけない声が、かすかな記憶を呼びさました。


「――そうだった! 思い出した!」


 小さな林が心細くなると、きっとどこからか、おねえちゃんの声が聞こえてきたのだ。


 ――りん。だいじょうぶ。さびしくないよ。おねえちゃんは、ここにいるよ。


「それでわたしは、おねえちゃんがいなくても寂しくなかったのね?」


「そうだよ。リンが忘れちゃっただけだよ」


 ポンヌフが、くすくす笑った。

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