第十三章 <Ⅴ-2>


「よし! こんなものかな」


パパが書いたフリップ代わりのノートには [ 視覚情報の流れ] と題されて、こんなことが書かれていた。


光(刺激) → 網膜もうまく = 視床ししょう → 大脳皮質だいのうひしつ第一視覚野だいいちしかくや

        ◎20%  ✕    15%  =3%          


「では、最初からもう一度――」



 ――ひえええええーっ!



「『見る』とは、眼球の網膜もうまくが、視覚情報を光刺激として受け取り、視床ししょうかいして大脳皮質だいのうひしつに伝達することだ。ここまではいいよね?」


 ――いや。さっぱりですよ。さっぱりダメだってばよ!


「この時、視床の受け取る視覚情報は、全情報量の20%である。――さらに大脳皮質の第一視覚野だいいちしかくやが受け取る情報は、そのうちの15%だ。つまり目から脳が得る情報は、全体のたった3%に過ぎない。残り97%は脳の内部情報で補足される。これが『見る』ということなんだ」


「――パパ、よくわからない」


 りんが思いきり顔をゆがめる。

 てか、全ッ然、わからない。だれか、助けてー!


「つまりね――」


 権平ごんだいら先生がパパの隣に、解説者のように並ぶ。――そんな助けなら、要らねえ!


「目で見た画像がダイレクトに脳に伝わるんじゃなくて、脳が『これは机で、あれはイスだよなー』とか認識してはじめて『見えた』ことになるんだよ。――って、桐原きりはらうなるよ」


「きゅーん」 


 吹雪の山で遭難したようなあたしたちの顔を見渡して、権平先生が頭をかいた。


「ええっとね、だから――。チラ見した情報に、脳がやたら盛ってくるんだよ!」


「盛るの?」


「お、目が生き返ったな。取りあえずそう考えてくれ。――この説明自体がかなり盛ってるけどな」


 先生が苦笑いする。


「桐原は絵を描くから分かるだろう。――例えばリンゴを写生しようとするよな。リンゴなんて見慣れているはずなのに、いざ描こうとすると難しくないか?」


「あ、それ! ――あれ、こんなんだったっけ? っていつも思う!」


「日常生活では、目がチラ見して『これはリンゴだ』と脳が判断すると、二度見はしないからだよ」


「そいうえば、イチイチ細かいところまで見てないかも」


 先生の授業が始まってから、おなかを抱えて笑ってたパパが、解説を添える。


「人間が毎日、目や耳や五感から受け取る情報はとてつもない量なんだ。だから、イチイチ受け取っていたら、脳がパンクしてしまう。そこで脳は大雑把おおざっぱに関連づけをして、さっさと整理したがるんだよ」


「おお! なんか分かったかも!」 「そうなんだー♪」 


「はい!」


 青深はるみが手を上げて質問する。


「はい。石動いするぎくん」


「ということは、初めて目にするものは、見えないってことですか?」


 パパがうなずく。


「そうなるね。ただし、おおかたのものは、これが何かわからないけれども、以前に見たことのある別の何かに似ている――と関連づけて認識するんだよ」


「つまり、ものを見るためには、ある程度の経験が必要だということですよね」


 権平先生が補足する。


「そうなんだ。だから僕らは、こうして並んで、あの木をみているけれど、それぞれの脳が見ている木は、同じではないんだ」


「なんだか切ない……」


 あたしがつぶやくと、パパの大きな手が伸びてきて頭を撫でてくれた。


「僕も同感だ! しかし、実にそこが愛しいじゃないか。人間ってやつは」


「あれ……?」


 林が首をかしげた。


「そしたら、まだ経験の足りない小さい子は――」


 林の言いよどんだ先を、権平先生が引き取る。


「――自分の見たものを認識できないこともあるかも知れないね」


「そうなんだ……」


 林がため息をついた。


「そして、林の見たものが仮に真実だったとしても――」


 パパはフリップをふせる。


「さらに様々なパターンが想定される。例えばそのとき、木槿むくげちゃんは既に心停止していたかも知れない。だとすれば、君が周囲の大人に知らせても、手遅れだった可能性もある。――これは君をかばいたくて言ってるんじゃないんだ」


「科学者は謙虚であれ。――ですね?」


 権平先生の言葉に、パパが大きくうなずいた。


「その通り。希望や憶測でものを語ってはならない。人間とはことごとく愚かなのだ。まずは出来うる限りのデータを集めよう。そして様々な視点からアプローチするべきだ。一番大事なのは、真実を受けとめる勇気を持つこと」


 ここまで語って、パパがクシャクシャッと顔をほころばせた。


「――というわけです。さて出発しようか?」

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