第十三章 <Ⅳ-1>
* * *
沙羅は切れた電話を胸に押しあてる。
また言えなかった。あの家のことを――。
でも、あの夜――。
二度と聴けないと思った
あの木槿が、林に悪いことをするだろうか。
そう思うと、沙羅の胸につかえていた
私は何に
沙羅はこめかみに指先をあてた。
――そうだ!
沙羅は寝室へ急いだ。クローゼットを開けて、手前の紙袋を取り出す。
中では子グマの顔が笑っている。
タスマニアから眞彦が電話をくれたのは、木槿の声を聞いた直後だった。
――それは、林に返してやろうよ。もし君から渡し
隠しておいたはずのポンヌフが、眠っている林の枕元に転がっていたと聞くと、夫は、なんでもないように言うのだった。
――小さい子ならトラウマになるかも知れないけれど、もう大丈夫だろう。明日、飛行機をおさえるからね。僕が帰るまでは隠しておいていいよ。
――権平先生にも、林に返してあげなさいって言われたわ。
――そうか。権平君はいい先生だな。
――ところで、沙羅。脳というものはね。五感が受けとった情報を、眠っている間に整合性を付けて整理するんだけど。その高速で膨大な情報処理の過程で、
夫の口調がいつものごとくに熱を帯びる。
――海馬?
――そう。例のタツノオトシゴさ。記憶の中には、かなり遠い過去のものも含まれるし、実体の無い本人の思考も含まれる。だから、亡くなった人からの意味深なメッセージのような夢を見ることもあるんだね。(注①)
――そう言えば、林が木槿の夢を見たって言ってたわ。
――なるほど。それは興味深いね。夢はランダムにみえて、実は現在の自分に必要な情報を、脳がセレクトしている可能性もあるんだ。
――それはユングの説? それとも河合隼雄さん?
――いろいろ。さらに僕の推論。(注②)
夫はハハハと笑った。
――だからね。林が木槿ちゃんの夢を見るなら、それも彼女自身の脳が指し示した何らかのメッセージなんだ。ポンヌフは、この先の
夫の脳科学の話はさらに続き、その夜も木槿の幽霊の話は、しそびれてしまった。
沙羅はひとつため息をつく。
眞彦さんも
私だけが怖がっていてはダメなんだわ。
そうよ。昨日まで引きこもっていた林が、友だちと出掛けられるまでになったんだから、私もあの子を応援しなければいけない。
それに眞彦さんもついて行ってくれるのだし。
ポンヌフが沙羅の顔を見上げている。
そのあどけない笑顔に、林の幼い頃の
林が葛籠谷へ行くなら、早くポンヌフを返してあげるんだったわ。
今から出れば間に合うかしら。沙羅はぬいぐるみを胸に抱かえて
でも、どうしたらいい?
あの子はもう電車に乗ってしまったし。眞彦さんは後を追いかけている。
これから私がタクシーで追いかけたら、二人と行き違ってしまわないかしら。
そのとき。エプロンのポケットの携帯電話が震えた。
「――もしもし。
#注①「
脳の一部位の名称です。形がタツノオトシゴに似ています。(以下略)
その名の由来はギリシャ神話の海神ネプチューンが乗っていたという謎の生物 ヒッポカムポス(前半身が馬で後半身はイルカ)の「足に似てる」からだって。
――わかりにくいわっ!
#(注②)カール・グスタフ・ユング (1875-1961)
スイスの精神科医。深層心理学研究の先駆者。
臨床心理学者。ユング派分析家。児童文学にも造詣が深い。
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