第十三章 <Ⅲ>

「わたしは、思い出したことをパパとママに打ち明けようと思いました。

 でも、口に出そうとすると、恐くて――言えませんでした。

 もしかしたら、あれは、子どもの頃に見た夢かも知れない。

 きっと夢だ。そう思い込もうとしました。その方が楽だから。

 でも、あの日の水の匂いも、風の香りも、わたしは、はっきりと覚えています。

 夢なのか、現実なのか。考えれば考えるほど、分からなくなって。

 そのうちに考えるのに疲れて。なにもかもがつらくなって――」

 

りんのせいじゃないわ!」


 泣きじゃくるママが両手を伸ばして娘にすがりついた。


「つらかったね。ごめんね。ママがいけなかったのよ。林、ごめんね――」


 大きなパパが二人をかかえこむように抱きしめる。


「林。言葉にするのは苦しかったろう? よく話してくれた! よく頑張った! 今から、君が気に病むことは、もう何もないんだよ!」


「――ママ。――パパ」


 二人に包まれて、林が泣きだした。



 涙で顔をグシャグシャにした陽蕗子ひろこが、あたしにささやいた。


「ミレイのオフィーリアって、なあに?」


「えっとね、死んじゃったお姫様が水に浮いてる絵。綺麗な絵だよ。恐いけど」


 あたしも泣きながら答えた。――落ちついて泣かせて欲しい。


「そう。恐くて綺麗な絵だ。よく知ってるなあ。桐原きりはらは」


 あたしたちの背中から権平ごんだいら先生が言った。この人も鼻が真っ赤だ。


「オフィーリアは、シェークスピアの悲劇『ハムレット』に登場するお姫様だ。ハムレットとの恋に絶望して自殺するんだよ。その絵は、オフィーリアの死の場面を描いたものだ。ミレイは、イギリスのヴィクトリア朝の画家なんだ」


 そのとき。


「ふざけんな!」


 青深はるみが腕に抱えていたバッグを歩道に叩きつける。

 鬼の形相ぎょうそうで、白銀しろがね親子に、のっしのしと歩み寄ると、パパとママが周章あわてて左右によけた。


「その頃、林はいくつだ? 四つか、五つか?」


 足を踏ん張って仁王立ちした青深は、泣き顔の林の鼻先にギリギリまで顔を寄せてにらみつける。


「――い、五つです」


 林がおののいている。――わかるぞ、その恐怖。


「五つだとお……」


 青深が腰を溜めて、ガルルルっときばを剥いてうなる。


「おまえは、五歳の幼児に、どこまで要求する気だっ!」


 青深の正拳突きが紙一重で林の頬を掠め、林がひっと息を引く。


「そんなッこいガキに、死体と昼寝の区別が、つくわけがないだろっ!」


 青深の剣呑けんのんな眼差しが、じわじわとうるむ。


「いいか! 林は、なにも悪くないんだっ! 二度と自分のせいだとか思うんじゃねえ! このバッカヤロウ!!!」


 ブフッと、権平先生が吹き出した。


石動いするぎの言う通りだ! 林はなにも悪くない!」


「そうだよー♪」


 陽蕗子が歌うように叫んだ!


「そうだよー♪」


 あたしもハモって、陽蕗子とステップを踏んだ。


 林が青深に取りすがり、声をあげて泣いた。

 娘に歩み寄ろうとするママを、パパがそっと押しとどめた。


 駅前をパン屋さんのトラックが通り過ぎる。

 駅舎の屋根でヒヨドリが鳴いている。


「リンリン。……もう気にすんな」


 青深が空を見上げて言った。


「ありがとう……」


 青深の肩に濡れた頬を押しつけたまま、林がつぶやいた。


「そうだったのか。苦しかったろうなあ。それで、君は学校にいけないんだね」


 権平先生のすべてを包み込むような温かい声に、林がもう一度泣きだした。

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