第十一章 <Ⅲ>

* * * 白銀しろがね眞彦さなひこの回想 * * *


「もしもし――」


 あの夜。何故だかとにかく沙羅さらの声が聞きたくなったのだ。

 その直前まで同僚と、ソクラテスの最期について興じていたというのに。


 タスマニアと日本の時差は二時間だ。まだそれほど遅い時間ではない。

 僕は自宅に電話するために、港まで全力疾走し、モーターボートのエンジンを掛けて錨を上げた。たまに夜釣りにつきあうから、ボートの扱いは慣れたものだ。


 波の静かな海上に、カノープスが一際ひときわ高く輝く。

 この地球ほしが漂流する銀河系宇宙が、水平線の向こうに壮大に迫ってくる。

 日本で見慣れた星座は、南半球ここではみな逆立ちして見える。


 僕は小一時間かけて、タスマニア島の港に渡った。

 キャンプのある小島の岬には電波が届かないから、そうするしかないのだ。


 長く家を留守にすることは珍しくないのに、あんな追いつめられた気分になったのは初めてだった。


「もしもし。眞彦さなひこさん? ほんとうに?」


「どうした? 沙羅」


 電話は繋がったが、沙羅がおかしかった。

 声や呼吸、言葉の間。ただならぬ緊張感が感じられる。りんになにかあったのか。

 まさか。


「どうしたんだ。林がどうかしたのか?」


「いいえ! 大丈夫。林は無事でした」


 娘の名を口にした途端、沙羅の声から弱々しさが消えた。

 僕の知っていた、どこかはかなげな少女は、母というものになってから別人のように強くなった。そんな沙羅に、母性の持つ気高さを思いつつも、ときおり違和感に似たおそれを感じるのは身勝手というものだろうか。


「無事というのは? なにかあったんだね?」


「ええ。あの子が入院したの」


「なんだって、林が入院した?」


 今朝方から一時的な昏睡状態になって入院したが、すでに回復したこと。

 検査の結果、なにも心配ないと診断されたこと。

 今夜は入院して様子を見ることになった経緯を、沙羅は説明してくれた。


 林の入院を知らせるメールは、例の電波の事情で、その時点ではまだ目にしていなかったから、僕はひどく驚かされた。


「大変だったな。大丈夫かい。疲れたろう」


「そうでもないわ。それよりね――」


 沙羅が文節の最後に、わずかな間を置く。


「あ、やっぱり、他のことはメールにしますね。――たいしたことじゃないから。電話はお金がかかるから節約しないとね」


 ――そのおどけた声は無理に作ってるね。僕がわからないと思うのかい。


「いや。いま聞きたい。どうぞ続けてくれ」


「でも、……いいの?」


 沙羅の息がすこし弾む。喜んでくれたかな。


「もちろん。君さえよければ、このまま夜明けまで語り合いたい」


 沙羅がやっと笑った。そして、話し出した。

 突然、天使のように家を訪れた、林のクラスメイトのことや、病院から送ってくれた心優しい担任のことを。


「今日は、いろいろな人が助けてくれたの。あの人達がいなかったら、私はどうしていいか分からなかったわ。私は一人じゃないんだって思えて、ほんとうにありがたくて。――どうしたの、眞彦さん?」


「失敬。感動した。鼻をかむから、ちょっと待ってくれ」


「まあ」


 泣くとは不覚だった。まいったな。

 私は一人じゃないって、僕がここにいるじゃないか。

 いや、いないのか。


「それは、ありがたいことだったね」


「ええ。ほんとうに」


 沙羅の頬笑む気配がする。


 ――なんだろう。この無力感は。


 彼女は何も言わなかったが、僕はそんなに心細い思いをさせてきたのか。

 妻はこれまでも、何度も一人で立ち往生してきたのだろうか。

 僕の不在というのは、そこまで重荷だったのか。


 林が高校に通わないことは、僕には小さな問題だった。

 長い人生の一時期にはそんなこともあるだろう程度にしか捉えてこなかった。

 だがもしかすると沙羅にとっては耐え難い悩みだったのだろうか。


「沙羅。僕は、君にいろいろ任せすぎたね」


「そんなことないわ。それと、いまね――」


 聞き取りづらい。彼女も泣いているのか。

 僕は携帯電話を耳に押しあてて、待つ。


「――さっき、お風呂場で木槿むくげの声が聞こえたの。私、やっぱり疲れてるのかな」


 泣いているのか笑っているのか、切ない声で妻が言うのだ。


「――そうか。木槿ちゃん、何て言ったんだい?」


「……」


 低く嗚咽が聞こえる。


「沙羅? もしもし?」


「――木槿が、あの子が、優しい声で『おねえちゃん。泣かないで』って言ったの」

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