第九章 <Ⅳ>

「でも、あの子がもし、それでも、あの家に行きたいと言ったら――」


 沙羅さらは身を震わせた。


――あの子に何かあったら、私は生きていられない。




「行かせてあげてください。そのときは私が守りますから!」


 権平ごんだいらが白い歯を見せる。


「え、先生が?」


 沙羅は目をみはった。

 その日焼けした童顔は、自分より頭二つ分は高い位置にあった。


「ええ。りんさんに同行しますよ。フィールドワークは得意ですから」


 権平がすこし照れたように笑う。


「それとですね。子どもの頃の林さんの不思議な言動は、白昼夢はくちゅうむだった可能性も考えられる、と思うんですよ」


「――白昼夢?」


 沙羅は首をかしげた。


「はい。つまり覚醒時かくせいじ幻視や幻聴。簡単に言ってしまえば幻覚ですね」


「幻覚……」


 権平がうなずく。


木槿むくげさんが亡くなったとき。林さんはまだ幼過ぎて、人が死ぬという意味がわからなかったんだと思います。けれども――。大人たちのかもしだす緊張感に、ただならぬことが起きたことだけは感じられる。林さんは、ひどく怖ろしかったのではないでしょうか」


「そうかも知れません。かわいそうに。あの子――」


 沙羅の瞳がうるむ。


「そして葬儀の後も、大人たちはみな悲しみに沈んで、いつになく自分から感心がれている。林さんは一人っ子だから、なおさら心細かったかもしれません」


 に落ちるものを感じて、沙羅はうなずいた。


「そんなとき一番そばにいて欲しい木槿さんが、なぜかいない。寂しさに耐え切れなくなった林さんは、想像力でおぎなったのではありませんかね?」


「それって、どういうことでしょうか?」


「つまり、自分で空想した木槿むくげさんを、現実にそこにいると思い込んでしまったわけです」


「そんなことが、ありるのですか?」


 沙羅はすがるように権平の顔を見つめる。


「子どもの空想する力はビッグバン的に豊かですからね。それに最近の脳科学の研究報告によると、幻覚や幻聴というのは決して珍しい例ではないそうです」


「そうなんですか。それでは、あの子は寂しくて、あんなことを――」


 沙羅は深いため息をついた。

 そうだとしたら、いろいろなことに説明がついた。すべてではないけれど。


「いや。いま申し上げたのは、単なる憶測です。先程のおはなしだけでは、結論を導くに足る裏付けが足りません。当時の状況をもっと分析してみなければ」


 権平が早口で付け加える。


「というわけで、今からでも御主人にも相談されてみてはいかがですか? 科学にたずさわる者なら、なにごとも頭から否定したりはしませんよ。不可解な現象ほど好奇心が湧くものでして――あ、すみません。不謹慎でした!」


 周章あわてて失言を詫びるに大男に、沙羅は頬笑んで首を振る。


「どこが不謹慎なものですか。先生、どうぞ先を聞かせてください」


 権平は頭をかいて話を続けた。


「火事のことも、木槿さんの亡くなったことも、すべて林さんには実感がないとしたら、それはそれで寂しいことです。一度でも現地に行って、自分の目で確かめれば、林さんも先に進めると思います」


 権平は、ぬいぐるみを沙羅の手にそっと預けた。


「このぬいぐるみ、林さんに返してあげてください。きっと喜びますよ」

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