第九章 <Ⅲ>
私には、そうとしか思えませんでした。
木槿の幽霊のいるこの家から、一日も早く、林を連れて逃げなくては。
そして、林に木槿を忘れさせなくては。
でも、その為に何をどうしたらいいのか――。
私は頭がおかしくなりそうでした。
家族に相談できなかったからです。
愛娘を失って
夫は昔から研究一途な人で、その頃は近くの火山観測所に勤務しておりました。
施設に泊まりこむことも少なくなかったので、相談したくとも、なかなか家に戻って来てくれませんでした。それに夫は日頃からオカルトの
私は林を連れて別居することさえ考えました。
そんなとき、夫に転職のはなしがまいりました。いま勤めている研究所から誘いを受けたのです。私は祈りが天に通じたような思いでした。
叔母は長男の家に移ってゆき、家は空き家になりました。
木槿の亡くなった年の冬のことでした。
* * *
黄色い車体が、白銀家の門口に静かに横付けした。
「その後は、林さんの様子はどうだったんですか?」
エンジンを切りつつ、
「この家に移ってからは、木槿の話はしなくなりました。はじめのうちは帰りたがっておりましたが、時間が経つうちに忘れてくれたように見えました。こちらで友だちもできて、学校も楽しそうだったのですが、中学校の卒業間際になって突然、外に出られなくなりまして……」
「学校で何か、あったのでしょうか?」
「わからないのです。中学の先生も、お友だちも、心配してくださったのですが、当人が何もないと言うばかりで……」
「そうですか。なんとかしてやりたいなあ。どうしたらいいんだろう。いやあ、難しいですねえ……」
権平は短く刈りあげた頭をかきむしっている。
「すみません。送って頂きながら、おかしな話までお聞かせしてしまって……。今日はほんとうにお世話になりました」
つい打ち明けてしまったあとで、じわりと不安になる。
――幽霊が怖いだなんて、頭がおかしいと思われたろうか。やはり言わない方が良かったろうか。
「あっと。待ってください、
権平が
「林さんのぬいぐるみは、ここですか?」
冷え冷えとしたエントランスを歩きながら、権平が尋ねる。
「はい。――病室に置いてきた方が良かったでしょうか?」
沙羅がうつむいたまま返事をする。
権平がバッグを開けると、子グマが笑顔をのぞかせた。
「この姿を見たら、たしかにショックですよね――」
優しい大男は眉をひそめる。
「林さんに見せたくないと思われるのは、無理もないです。――それに、これを見たら木槿さんの思い出がよみがえるかも知れない、それも怖ろしいんですよね?」
「そうなんです。どうしても、そのことが――」
沙羅がうなずく。
権平はぬいぐるみの鼻にそっと触れた。「でも、林さんはきっと――」
その言葉の先を、沙羅は泣き出しそうな表情で待っている。
「すべてを隠さずに話して欲しいのではないでしょうか。何も知らずにいるよりも――。子どもは、いつまでも子どもではいられないのですから」
権平のおだやかな眼差しが、沙羅の瞳を見つめ返した。
――何から守ってるのよ!
沙羅の耳に、林の泣き出しそうな声がこだました。
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