第十章 <Ⅱ>

 火曜日の放課後だよっ!

 ――ヤケで空元気からげんきいっぱいな桐原きりはら時雨しぐれです。


 あたしと陽蕗子ひろこは、たったいま、白銀しろがね家の玄関チャイムを押した。

 リンとの約束を果たす為、あたしたちは極秘ミッション遂行中なのだ。

 例の花柄のノートには幸せな女子高生の日常を書きつづり、さり気なく挟んだ折り紙のパンダの内側に最大のシークレットが書き込まれている。


 眉間に縦じわを入れた青深はるみに「おまえら、お母さんに絶対にさとられるなよ」と命じられた。「普通に行ってこい」だって。普通ってなに? どんな罰ゲーム?

 相方あいかたが、酸欠の金魚みたいにピクピクひくついている。


「陽蕗子、大丈夫?」


「わかんない。なんか視界が黒い。耳がキーンてする」


「それ、ブラックアウトじゃね?」


 そのとき、玄関ドアが開いて、林のママが現れた。なんて爽やかな笑顔だい!


「まあ、桐原きりはらさん。靱負ゆきえさん。昨日は御世話になりました。ほんとうにありがとうございました」


 栗色のシニヨンが揺れて深々とお辞儀をする。やめてー。


「そんな……。えっと、あれは偶然ですからっ!」


 まともにママの目が見られない。隣で陽蕗子の目が宇宙をさまよっている。


「林は、あれから少ししたら目が覚めて、今日のお午前ひるまえに退院してきたんですよ」


権平ごんだいら先生に聞きました。良かったですね」


「ええ。ほんとうにお陰さまで――。いま、林を見てきますから、すこしお待ち下さいね」


 階段を上がるママを、呼びとめる声が裏返る。


「はわわ……、あの、いいんです。今日もノートだけ置いていきますから」


「でも、せっかく来ていただいたのですから」


 振り返ったママが、観音菩薩かんのんぼさつ様みたく頬笑む。


 あーっっっ……! 溶けるーっっっ……! 


 けがれたあたしを、ママの後光ごこうの矢が貫く! 

 心も膝もボッキボキだ。もうダメ。あたしにはムリ。

 ひざまずいて懺悔ざんげしようとしたとき、水色のスウェットを着た林が階段を降りてきた。


「リンリン!」


 あたしと陽蕗子が同時に叫ぶと、ママがぷっと吹き出した。


「時雨さん。陽蕗子さん。昨日はすみませんでした」


 階段の途中で、林が恥ずかしそうに頬笑む。


 リンリンだ。リンリンだ。


 リンリンに会えたら、あたしはポロポロ涙が出た。

 陽蕗子もすでに号泣している。そしてママも目頭めがしらを押さえている。

 もうやめようぜ、こんな極秘ミッション。


「さん は要らないからっ!」


 持てる力を振りしぼり、あたしはノートを林の手に押しつける。


「ぱ、パンダの折り紙。挟んであるから見てねー」


 陽蕗子が事前の打ち合わせ通りに言い添えるが、異様に棒読みだ。


「パンダ?」


 リンリンが驚きを隠さない。そりゃそうだろ。なんでパンダだよ。


「そ、そう! パンダ! お見舞いに! ガンバって折ったから!」


 疑念を払拭ふっしょくすべく、あたしは決死のフォローを試みる。


「チカラ入っちゃって! もう指折れるかと思ったし!」


「……そんなに? えっと、ありがとう――」


 不審な表情を浮かべていたリンリンが、ふいにまばたきしたと思うと瞳を輝かせた。


「うん。ありがとう! わたし、パンダ、大好き!」


 ママに見えない角度でサムズアップを決めてきた。


 ――おお、気づいてくれたか! わが友よ! これでミッション・クリアだ!


「じゃ、また明日ね」


 もう限界だ。陽蕗子は倒れる寸前のコマみたいに揺れてるし。

 

「あら、もうお帰りになるの?」


 リンリン本人より、ママが名残なごり惜しそうにする。

 そんな優しい眼差しはやめてください。これは拷問か。いっそ殺してくれ!


「はい。また来ます! じゃまたね、リンリン!」


「ありがとう。またね」


 リンリンが手を振ってくれた。

 ママが玄関の外まで出てきて、お辞儀をしてくれている。

 あたしと陽蕗子は渾身こんしんの速歩で、白銀家の敷地を脱出した。


 満天星どうだんつつじの垣根の陰で、二人とも地面に手をついて、へたりこむ。


「おなか痛い……」


「陽蕗子! ちょっと、しっかりして!」


 翌日、陽蕗子は学校を休んだ。

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