第十章 <Ⅲ>

 母はまだ眠っているらしく、寝室からは物音がしなかった。

 音をひそめて洗顔するのは、ひどく緊張する。


 白銀しろがねりんは、いつものスニーカーを抱えて階下に降りた。

 茄子紺なすこん色のニットジャケットとベージュのスパッツが、少年のような林によく似合っていた。皮のワンショルダーのバッグを背に掛けている。


 まだ六時にはだいぶ間があったが、家の中でじっとしていられなかった。

 玄関の扉をそっと開けると、まぶしい朝日が差しこんだ。

 光に満ちたエントランスへ足を踏み出すと、門柱の両脇に怪しい動きをする人影が見えた。


(――リンリンッ! おはよッ!)


(――リンリンッ! こっち!)


(――おまえら、しずかにしろっ!)


 本人たちはひそめているつもりの声がはっきり耳に届くので、はらはらする反面、とてつもなく嬉しい。


 足音を忍ばせてエントランスを急ぐと、三つの笑顔が待っていた。

 白いファージャケットの陽蕗子がちぎれんばかりに手を振っている。並んでいる小豆あずき色のダッフルコートは時雨だ。


「リンリン。乗れ!」


 青深が低い声で呼んだ。自転車にまたがったジーンズの足が長い。

 門から走りでた林は、青深のメタルグレーのパーカーの背中にまわる。

 その肩に手を置き、ひらりと後輪の軸に立つと、青深がペダルを踏みこんだ。


「行くぞ!」


 自転車が風のように走りだす。林の黒髪が空になびいた。


「キマってね?」


 時雨がささやく。


「リンリン、すてき!」


 陽蕗子がうっとりと頬笑む。


 二台の自転車も、二人の後を追いかける。


 ――わたしは本当に行くんだ。おねえちゃんとの約束を果たしに。


 林の白い頬を、朝日があかく染めた。




 自転車で住宅街を十分ほど走り抜けると、合歓森ねむのもり駅前のターミナルだ。

 大型スーパーや全国展開中の飲食店などが軒を連ねるが、まだシャッターが閉じている。駐輪場に自転車を止めて、四人は駅の構内に入った。

 土曜日の早朝でも、列車を待つ人の数はそこそこに多い。


 青深が路線図を確認する。


「2番線だな。あと十五分あるぞ。みんな、トイレは大丈夫か」


「あたし、行きたい」 「うちも」


 全員でトイレに寄ってから、ホームへの階段を上がった。


「うち、コアラ、持って来たー」


「開けるの、早くね?」


「よこせ! 腹減った!」


 到着のアナウンスが流れ、線路の先に列車が小さく見えた。


 そのとき、階段を駆けあがってくる男性がいた。

 風に乱れた髪をかき上げ、鋭い眼差しでホームを素速く見渡した。

 その頬は陽に焼けて浅黒く、無造作に撫でつけた髪には銀色の筋が交じる。背中に担いだデイパックが、クラシカルなダークスーツにそぐわない。


 線路をきしませて、列車がホームに入ってきた。

 笑いさざめく少女たちは、開いたドアに吸い込まれる。


「林! 待ちなさい!」


 男性の声は乗降客の喧噪けんそうにかき消され、林の黒髪の背中で自動ドアが閉じた。

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