第七章 <Ⅱ>

「おねえちゃん!」


 濃紺の更紗さらさのワンピースに純白のレースのショール。

 瞳にあどけなさを残した可憐な乙女は、驚くほどりんの母に似ていた。


「おねえちゃん。やっぱり生きてたんだね」


 子ども部屋の窓辺に立つ木槿むくげを見上げて、林は泣きじゃくった。




 ――花束を抱いて水面に浮かんでいたんだよ。


 あのとき幼い自分が目にしたものは、恐ろしい夢だったんだ。




「ごめんなさい。一人ぼっちで置き去りにして。ごめんなさい。約束を破って」


 いつのまにか背中の羽を失った林は、楓の下で声の限りに泣いた。


「ごめんなさい。おねえちゃんは、ずっとここで待っていてくれたのに」


 だが、林がいくら叫んでも、その人は口を開かない。

 昔と変わらぬ頬笑みをうかべて、林を見つめるばかりだった。

 片腕にポンヌフを、もう一方の腕には大判の古い絵本を抱えている。


「あ、その本――」


 ――『よいひめ』だ。


 あの頃からずっと林の宝物だった。

 ポンヌフをここに置いていったときも、この本だけは手放さなかった。

 もう長いこと手に取っていないけれど。いまも自分の本棚におさまっているはずだった。


 ――あれ、おかしいな。

 どうして、おねえちゃんも『宵待ち姫』を持っているんだろう?


 そのとき突然、ぐらりとめまいがして、林の視界を暗灰色のもやが覆い隠した。

 温かな光に包まれた子ども部屋が、たちまち彼方へと遠ざかってゆく。

 遠くから、自分の名を呼ぶ母の声が聞こえる。


 ――これも夢なの?


 覚醒とあらがいながら、林はその人に手を差し伸ばす。


 ――待っててね。きっと、すぐに帰ってくるから。

   今度こそ、きっと帰ってくるから。

   絶対、約束するから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る