第六章 <Ⅲ>

 誰かに見つからぬように、りんは夜空に高く羽ばたいた。

 眼下に汐見しおみ川の川筋が、風に流されたリボンのように光っている。

 河口の先には、パクリと黒い海が広がっていた。

 その圧倒的な存在感に比べると、人の夜景のきらめきは、いかにももろはかなげだ。

 さざめく街の灯りが尽きる辺りから、黒々とした丘陵が闇を濃く深めている。


「どっちだっけ」


 ポンヌフがつぶやいた。


「ええっ? だいじょうぶ?」


 動揺が翼に伝わり、林の体がふわふわと揺れる。


「ううんと……わかった。あっち」


 子グマは東天にまたたく赤い星に向かって飛びはじめた。


 幹線道路の水銀灯が、木の間に寂しく見え隠れする。

 丘陵のうねりは次第に険しくなり、森が深くなる。

 林の目の前に、針葉樹におおわれた斜面がせり上がってきた。

 吹きおろす風に逆らって、さらに高く舞いあがれば、星空にすこし近づいた。

 傾きかけた天の川の下に、黒く連なる山影がそびえている。


「ねえ、ポンヌフ?」


 気流に翼をゆだねながら、林が話しかけた。

 地面を走るよりも、空を飛ぶほうがはるかに楽だ。


「なあに?」


 ポンヌフがふり向く。


「あのね。ごめんね」


「なんで?」


「いままで帰らなくて。それと……助けにいけなくて」


 ポンヌフがおかしそうに笑った。


「いまから帰るんじゃない」


「でも……、あれから十年も経ったんだよ」


「十年って、なあに?」


「ええっと――」


 過ぎた時間を、なんと説明したものかしら。

 ぬいぐるみには時の感覚がないのかもしれない。

 だから、持ち主の帰りを永遠に待ち続けられるのだろうか。


 ――ごめんね。ポンヌフ。


 子グマの見ていないうちに、林は頬の涙をぬぐった。


 気がつくと地上から、絶え間なく水音が轟いてくる。

 森の切れ目から、深い渓谷が見えた。

 谷川のを走る流れが、断崖にせばめられて滝となっている。

 目に映る水の冷たさに心を奪われた林は、ぞくっと震えた。


「ついたぁ」


 嬉しげな声をあげて、子グマがふわふわと下降しはじめた。


 木立に縁取られた空には、星座が静かにときかなでていた。

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