第四章 <Ⅲ>

「ママ! 助けて! ママ!」


 自分が叫んだ声に驚いて、林は我に返った。

 はねのけた上掛けがベッドの脇に落ちている。


「どうしたの?」


 あっという間にドアが開いて、母が駆けこんでくる。

 この人はいつでもこうなのだが、まるでドアの外で待っていたみたいだ。


「ママ。あたし、いつ帰ってきたの?」


 母の温かい腕にすがりつきたい。でも拳を握りしめてこらえた。

 幼い頃から変わらないベタベタした親子関係が、最近ひどく後ろめたいような気にさせられる。


「なに言ってるの。今まで、よく眠っていたのに」


 照明のスイッチをつけた母は、心配そうに娘の顔色を調べた。


「……そうなの?」


 前髪が額に貼りつくほど汗をかいている。

 すぐに気づいた母は、林のキャビネットから新しいパジャマを出した。


「恐い夢を見たんでしょう? ほら、脱いでごらん。風邪を引くわよ」


「平気だから。自分で着替えるから」


 差し出される手にイライラする。我知らず言葉が邪険になる。

 この優しい母が嫌いなわけではないのだけれど。 


 ベッドから出ようとすると、布団から、なにかが転がり出た。

 林は青ざめた。 ――ポンフヌ?


「あら。これは なあに」


 母が無遠慮に手をのばす。


「触らないで!」


 林は自分でも驚くような大声を上げて、それをベッドの下に蹴りこんだ。


「なんなの?」


 母もさすがに気を悪くしたようで、かるく眉間に皺を寄せたが、ひょいと屈んでベッドの下を覗きこんだ。


「なんでもないからっ!」


 林はれた声をだした。この人はどうしてこんなに無神経なのだろう。


「もう寝るから、あっち行ってよ!」


「自分で呼んだくせに」


 母はむくれながら、まだベッドの下をのぞいている。


「どいてよっ!」


「あら!」 母は、ベッドの下に手を差し入れた。


 林が止める間もなく、その手は水色のハンドタオルを握っていた。

 昨日の夜、汗を拭いたまま置き忘れたものだった。


「洗っておくからね。お休みなさい」


 母は汚れたタオルをつまんで部屋を出ていった。


 一人になった林は、おそるおそるベッドの下を覗いてみた。

 暗くてなにも見えない。


 ポンヌフの頭はどこにいったんだろう。

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