第四章 <Ⅱ>

 手のひらに、甘い天鵞絨ビロードの感触。

 林は受けとったものを見て息を飲んだ。


 やわらかな焦茶こげちゃ色の頭から、小さな桃色の耳が二つ生えている。

 ベージュの鼻面が上を向き、黒いガラス玉の瞳が笑っている。


「ポンヌフ!」


 懐かしさが胸にあふれだした。


「ポンヌフ! あたしのポンヌフ!」


 林はぬいぐるみの首を抱きしめた。


「ほうれ、楽におしゃべりできるようになったろう」


 露天商が得意気にわらった。


「でも体は? ポンヌフの体はどうしたの?」


 その質問は気にさわったらしい。

 露天商は、ぬらりと白い腕をぐっと突きだした。


「気に入らないなら、返しとくれ!」


「いや! ダメよ!」


 林は身を引いて、親友を胸にきつく抱えた。


「おや。買うのかい?」


 露天商は声をおだやかにあらためた。


「買います! ――あ、でも、いまはお金を持ってなくて……。すぐに取ってきます! おいくらですか?」


 それを聞くや、露天商は舌打ちした。


「とんでもない。お代の払えない奴には、売れないね」


「すぐです。十分で、いえ五分で戻りますから」


 露天商は苛立いらだたしげなうなり声をあげた。


「ダメだね。あきらめな」


「お願いします。この子をください! ポンヌフはわたしの親友なんです」


「ダメだと言ったろう。ほれ、返しな」


 露天商は売り台の隙間すきまに手をついて、ぐっと身を乗り出した。

 かぎ爪のようなてのひらが、ポンヌフに突き立てられそうになる。


「返せッたら」


 林はじりじりと後退あとずさりながら頼んだ。


「お願いです。お願いします」



 そのとき。凍えるような風が吹きつけた。


 帽子のつばがめくり上がり、若い女の生白い顔が現れた。

 林は息を引いた。その面差しは、あまりにも母に似ている。

 ひな人形のような顔を醜くゆがめて、露天商は老婆の声で叫んだ。


「返せ! 泥棒どろぼう! 誰か! 泥棒だよ!」


 叫び声にはじき出されるように、林は灯りの輪の外にのがれた。


「泥棒! 泥棒!」


 さっき、なんでもなく下ってきた坂が、そそり立つ崖のようだ。

 ぬいぐるみの首をジャージの胸に押し込み、林は地面に手をついて這いあがった。

 指先に、手のひらに、血がにじむ。足がおもりをつけたように重い。

 高い崖は天にまで届くかと思われた。


 背後で、露天商が叫び続けている。


「どーろーぼーうー」


 ぜいぜいと息をあえがせて、暗い坂をのぼり続ける。

 ようやく頂上にたどりつくと、見覚えのある歩道に出た。

 ポンヌフを抱えなおし、林はよろめく足で走りだす。


「どー ろー ぼー うー」


 林の背中を、こだまが風に乗って、どこまでも追ってくる。


「どー  ろー  ぼー  うー」


 立ち止まっちゃだめ。

 早く。はやく逃げなきゃ。

 息が苦しい。胸がキリキリと痛い。



 ――逃げちゃダメだ。



 もう一人の自分が心の底で叫んでいる。


 なにしてるの。返さなきゃ。

 どんなに欲しくても。盗むなんてダメ。



 ――でも。



 林の足は止まらない。


 ポンヌフは、おねえちゃんがわたしにくれたんだ!


 わたしのものだ!


 絶対に誰にも渡さない!


 

 わらった口の形をした黄色い三日月が、淀んだ川面に浮いている。


 林はポンヌフを抱いて走り続けた。

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