第一章 眠らない少女
第一章 <Ⅰ>
午前三時。
夢から突き放された
うとましい現実の自分をパジャマと一緒に脱ぎ捨てる。
飾りのない黒のジャージに着替え、大きめのキャップに束ねた長い髪を押し込めば、ヒョロリと細い男の子が出来上がる。クローゼットの上に隠してあるスニーカーを抱えて、つま先立ちで階下に降りた。
音を忍ばせて玄関の鍵を開け、母の眠る家から脱出した。
夜空には暗緑色の雲の群れが さ迷っている。
冷たいエントランスで靴紐を結ぼうとすると、終夜灯がチリリと鳴いた。
靴底で自分の影をきつく踏みつけて走り出す。冷えた風を吸って吐く。吸って吐く。何度も繰り返して、この夜に同化する。なだらかな勾配をくりかえす住宅街の路地。でたらめに進みながら次第にペースを上げ、林は意識を彷徨わせた。
あの夢には
可愛いポンヌフ。大好きなおねえちゃん。二人とも、二度と会えない。
新しい家に移ってから、おねえちゃんのことを話題に上せるのは、我が家の禁忌だった。
そのことに触れそうになると、母が俯いて押し黙る。
そんなときの母の目がおそろしかった。
おねえちゃんと呼んでいた、その人は、血の繋がった姉ではなかった。
大人たちに混じれないほど若く、かといって子どもでもなかった。
とてもきれいな手をしていた。そうだ。一緒にレンゲを摘んだのだ。あの川辺で。
みずみずしいレンゲの茎に触れた瞬間の、ちりっとする感触を覚えている。
不思議なのは、その人の顔も声も思い出せないことだ。
十年経ったとはいえ、五歳児の記憶とはそんなに脆いものなのだろうか。
夢の中では、この人がおねえちゃんだと分かるのに。目覚めると記憶に霞がかかってしまう。
いつも一緒に笑っていたのに。
――花束を抱いて水面に浮かんでいたんだよ。
ああ、考えてはいけない。考えても疲れるだけ。
どうせ分からないなら、忘れてしまおう。
楽しかったことも、悲しかったことも、なにもかも。
蜘蛛の巣のような鉄塔の先に、赤い三日月が引っ掛かっている。
――お月様。
うそつきの
わたしは、まったくの別人です。
黒ずくめの少年は、ススキの堤防を駆けあがった。
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