次は終点、異世界です

神坂 理樹人

一章 地図から消えた街《ポリ》

東武東上線川越行

 深夜の池袋駅は土曜日ということもあって、昼間と大差ない人で賑わっていた。もう時計の針は一番高い位置を通り過ぎ、短針が真下を過ぎた辺りだった。春が近づいてきているというのはこよみの上だけでの話でまだコートが手放せない空気に、僕は体を震わせる。


 これから僕は電車に乗る。何度も繰り返してきたことなのにこれほど緊張するのは、その電車が特別な、月に一本しか出ないものだからだ。改札側の時刻表を眺めて、僕が乗る電車の時刻を確認する。休日ダイヤの下り線はあと四本残っていた。


 そのうちの一本、〇時四〇分発普通電車川越かわごえ行。


 米印のついたその電車は枠外に追加の説明文がついている。『この電車は毎月第二土曜日のみの運行となります』。この電車はいま日本で唯一、川越に向かって走る電車なのだ。


 埼玉県川越市が地図上から姿を消してからもう三〇年になる。僕が生まれるずっと前の話だ。突然川越市が地中に沈むように崩れていったのだと学校で習った。多くの科学者がその原因を探ったが、未だにわかってはいない。ただ元々川越市と呼ばれていた一帯は今は陥没した地盤に川から流れ込んだ水が溜まって川越湖と呼ばれている。


 そう。川越はもう地図にはないのだ。東武東上線の終点は今は新河岸しんがし駅になっている。時刻表を見ても他の行き先は新河岸駅より手前までしか行かないように書かれている。


 この毎週第二土曜日の終電を除いては。


 誰かのいたずらだともただの間違いだとも言われている。でもこの時刻表は僕が知っているだけでも二年以上変わっていない。それにこの電車に乗ってから行方不明になっている人の話もたくさん聞いていた。


 川越はまだ存在するのかもしれない。そんな空想にかられたのは今日僕に突きつけられた現実を僕がまだ受け入れられてないからだろう。改札を抜けて電車を見送る。入れ違うように八両編成の電車が入ってくる。電光掲示の川越行という文字を確認して僕は一番車両に乗り込んだ。


 中は意外にも人の数が多かった。みんなが川越を目指しているわけじゃない。普通電車なので途中で降りるつもりなんだろう。なんとなく居心地が悪く感じて、僕はまだ少し空いている席を避けてドアの近くに寄りかかった。


「ないはずの街。本当に行けるのかな?」


 高校受験、本命の志望校から届いたのは薄い不合格通知だった。大丈夫だと信じていた期待はあっさりと砕け散るように消えていった。その結果を受け入れられないまま、僕はこうして深夜の東武東上線にやってきたのだ。


 ないはずの街を見つけることができれば、何か変わるかもしれない。そんな少しも論理的じゃない思考を持ったまま、僕は流れていく景色をぼんやりを見送っていた。


「やっぱり降りようかな」


 二駅過ぎたところで僕は少しだけ迷っていた。たった二駅でも乗客の数は減っていき、空席の方が目立つようになっている。やはり川越に連れていかれるかもしれない電車にみんな好んで乗っているわけではないのだ。


 今ならまだ間に合う。降りてから少し遠いけど歩いて帰ることだってできる。それなのに僕の足は電車と一体になったように貼りついて動き出すことができなかった。僕はもう、川越に魅入られているのだ。


 本来の終点である新河岸駅に着くと、わずかに残っていた乗客もみんな降りていってしまった。広い車内に残っているのは僕だけだ。もしもあの時刻表が嘘ならこの電車は車庫に向かっていくはずだ。なら乗務員さんが必ず確認に来る。それなのにいつまで経っても誰かが現れることはなかった。


 電車のドアが閉まる。


『次は川越、川越。終点です』


 やや機械的なイントネーションのアナウンスが車内に流れ込んでくる。電車が線路のないはずの方向へと動き出す。


「本当に川越に行くんだ」


 僕は車窓に顔を張りつけるように外を見た。街並みは急激に光を失って、電車が闇の中に溶け込んでいくようだった。横目に電車の行き先を見ると、真っ暗な川越湖に向かってまっすぐに進んでいる。少しずつ揺れも激しくなってくるけど、電車が止まることはない。でもその先にはやっぱり川越湖があるだけで。


「え、落ちる!?」


 僕の言葉に答える代わりに電車が直角に曲がった。横にじゃない。縦にだ。止まらない電車はそのまま川越湖へと沈み始めた。僕はなんとか手すりにつかまって、近くのドアを押してみる。それは当たり前のようにびくともしなかった。


 揺れる電車の中で車掌室にかかっていたカーテンが開け放たれた。もう水が入り込んでいるが車掌は少しも動じることなく自分の仕事をこなしていた。そんなの絶対におかしい。そう言おうとして僕の口は入ってきた水に塞がれてしまった。


 溺れる。逃げ出そうともがいてみてもドアも窓もびくともしない。出入りできるのはただ川越湖の水だけだった。


 限界に達した僕は何度も水を飲み、いつの間にか力の抜けた手から手すりが離れて電車の中に浮かんでいた。不思議と苦しいという感覚はなかった。もう頭も体も諦めてしまっているのかもしれない。


 電車とともに僕の意識はゆっくりと湖の底へと沈んでいった。




「お客さん、終点ですよ!」


 体を揺すられて、僕ははっと目を開けた。目深に帽子をかぶった車掌さんが僕の体を揺すっている。


「えっと、終点?」


 東武東上線の終点だから、ここは新河岸駅だろうか。やっぱりさっきのは夢だったんだ。ちょっと疲れていて僕は電車で居眠りをしてしまったらしい。遠くまで来てしまってこれから帰るのには苦労しそうだけど、きっとなんとかなるだろう。


 急かされるままにホームに降りる。見慣れないホームなのは僕が路線図でしかこの駅を知らないからだと思っていた。


「どこ、ここ?」


 足元は砂ぼこりが舞っている。駅のホームがこんなに掃除されていないことなんてあるだろうか。それに外はもう明るい。深夜の終電に乗ったはずなのに。僕は今見ていたのが夢だったのか現実だったのかわからないまま、階段を上って改札へと向かった。


 階段を上がると違和感はさらに増えていった。破れたポスター、明かりが一つもついていないせいで薄暗い通路。駅の中なのに枯葉がいくつも落ちている。通り抜けようとした改札も電気が通っていないようで、反応する気配がなかった。


「あの、改札壊れてるみたいなんですけど」


「あぁ、こちらからお通りください」


 帽子を深くかぶった駅員さんに言われるままに改札を抜けた僕は、ただ足が向くままに東口に出た。


「あれ、ここは」


 初めて来た場所のはずなのにどこか見覚えがあった。入り組んだ陸橋を取り囲むように崩れかかったビルが背を伸ばしている。見下ろすバスロータリーには人の影はない。やっぱり人の手が入っていないようで、そこかしこに砂ぼこりが舞って、吹き溜まりに積もっていた。


 僕の頭に浮かんだ光景を確かめるように今出てきたばかりの駅を見る。崩れかかった看板には確かに『川越駅』という文字が書かれていた。


「本当に川越だ」


 受験勉強で見た川越の駅前の風景だった。教科書に載っていた写真はもっときれいだったけど、今は駅前ですら荒れ放題で地図から消えた街にふさわしい姿に変わってしまっていた。


「本当に川越はあったんだ」


 湖でしかなかった場所にある秘密の街。僕はそこに辿り着くことができた。それだけで僕は何かを成し遂げたような気持ちで受験に失敗したことなど忘れてしまいそうだった。でもそんな僕の気持ちを踏み荒らすように誰かの大声が川越駅の構内に反響した。

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