ひとつ、私の願いが叶いました
ひとつ、私の願いが叶いました。
芽以は感動しながら、日向子の手を取った。
「ありがとう、日向子さん」
「……いや、なんなのよ、あんた」
と言われてしまったが。
日向子が、
「かけてみなさいよ」
と強硬に言うので、逸人が、
「なんなんだ……」
と言いながらも、メガネをかけてみてくれたのだ。
細い黒縁のメガネで。
めちゃくちゃ賢そうに見えるし。
――いや、元から賢いけど。
超絶、格好いいしっ。
――いや、元から格好いいけどっ。
と思っていたのだが。
全部口に出したら、毒舌の日向子に、
「あんた、莫迦じゃないの?」
と言われること
「なんなの、あんた。
莫迦じゃないの?」
と口に出してもいないのに、結局、罵られてしまった。
ああ、ありがとう、日向子さん。
「お礼になにかしたい気分です」
と言うと、日向子はなんのことだかわかっているのか。
「じゃあ、そこで、舞い踊りなさいよ、鯛やヒラメ」
と女王様らしい口調で命じてくるので、危うく、本当に舞い踊りそうになった。
だが、踊り出す前に、何故か、日向子が微笑ましげに笑い、いきなり、店のドアを開けて飛び込んできたものも居たので、踊らずに済んだのだが。
「あー、寒い寒い。
なんか飲ませてよー」
……だから、この店、ただいま、クローズになってると思うんですが。
寒そうに手をこすり合わせながら入ってきたのは、
「……お前らは、何故、開店しているときに来ない」
そう言いながら、逸人は、静のために、ココアを入れてやっていた。
たぶん、静が好きなのだろう。
美味しそうだ。
生クリームたっぷりのココア、と逸人が作っているのを横から眺めていると、
「飲むか?」
と逸人が訊いてくる。
「いえいえ、そんなこれ以上、お手をわずらわせては」
と言ったのだが、
「顔が笑ってるぞ」
と言われ、結局、入れてもらった。
しかし、困ったな。
どのタイミングで圭太を外に出したらいいのやら、とチラチラ上を伺いながらも、みんなと窓際の席で、チャーハンを食べた。
静はもう食べたあとだったらしく、ココアだけだったが。
「ココアが好きなの?
意外ね。
女たらしの画家さんが」
と言う日向子の言葉を、静は、
「画家じゃないよ。
ただの絵画教室の先生」
とご丁寧にも否定する。
って、女たらしは否定しないのか、と思いながら、芽以は、まだチャーハンを食べていた。
「でも、なんか賞とかとってんじゃないの?」
「そうだけど。
自分の絵を売って、食べてけるわけでもないから」
「あら、意外とまともなこと言うのね」
二人のやりとりを聞きながら、
……なんか意外にしっくりくるな、この二人、と眺めていると、いきなり、日向子が溜息をついたあとで、椅子に背を預け、言い出した。
「いろんな男の人が居るのよね、世の中。
私、今まで、圭太しか目に入ってなかったわ。
子どもの頃から、近くに居すぎたからね。
家のためにも、圭太と結婚するのがいいって、ずっと言われてきてたし」
あのー、圭太と一緒に、逸人さんもずっと居たと思うのですが。
こんな格好いい人が何故、目に入らなかったんでしょう、と思っていると、察したように、日向子がこちらを向いて、
「なによ。
じゃあ、私が逸人を選んでもよかったの?
結婚しちゃってもよかったの?」
と言い出した。
待て、俺の意思は? という顔で、逸人が日向子を見る。
「ま、そしたら、意外と、逸人が社長になれてたかもねー」
軽く日向子はそんなことを言ってくるが、芽以は、そうだったのか、と衝撃を受けていた。
常々気にはなっていたのだ。
逸人は本当は会社に未練があったのではないかと。
この人のことだから、引き際は美しくありたいと願って、なにも言わずに、辞めたのだろうが。
「でもさー」
と静が相変わらずの呑気なテンポで口を挟んでくる。
「逸人はこの店やってる方が向いてるよ」
自分でいろいろ想像してみたのか、少し間を空けたあとで、
「うん、向いてる」
と頷く。
「なんたって、人がいいから。
あんな陰謀うずまく世界は向いてないよー」
いやいや、それだと圭太はどうなるのですか、と濁流に呑み込まれていく圭太を想像し、思っていると、静は更に、
「嫌な世界で出世しても、心は休まらないと思うし。
しかも、家に帰れば、芽以ちゃんじゃなくて、こんな嫁が居るんだよ?」
と日向子を見て、言い
「……こんな嫁ってなによ」
と日向子は静を睨んでいたが、いつもほど覇気がなかった。
圭太とうまくいっていないようなので。
些細な人の言葉が意外と気になるのかもしれない。
「心配するな、静」
と逸人が
「日向子と結婚して社長になるくらいなら、俺は、会社を辞めて川に飛び込む」
「川に飛び込むはいらなくない?」
と言う日向子に、逸人は、
「いや、こいつは使い物にならないとみんなが思うくらい、徹底して、錯乱したところを見せないと」
と言っていたが。
今、現在、錯乱して使い物にならない人が上に居るんですが……と思う。
そっと天井を窺っていたのに気づいていたらしい日向子が、
「上になにか居るの? ネズミ?」
と訊いてきた。
逸人が、サラダのためのフォークを手に、
「……これで突き殺すのに、ちょうど良さそうなサイズのネズミがな」
と呟いていて、ちょっと怖かった。
「っていうか、私、結構モテるんですけどねっ?」
と日向子が静に喧嘩腰に言うと、静は、
「だろうね。
顔にそう書いてあるよ。
私は、いい女ですって」
と笑う。
……特に悪気もなさそうだった。
「まあ、いい女はいい女なんだろうね。
街歩くと、みんな振り返るだろうね」
淡々と言う静に、日向子は、
「いい女だと思っているのなら、貴方、私と付き合ってみる?」
物の弾みか、喧嘩のついでか。
そんなことを言い出した。
あのっ、上に圭太が居るんですけどっ、と慌てたが、静が即行、
「やだ」
と言う。
「言ったじゃない。
僕、めんどくさいの嫌いなんだよねー。
幾ら美人でも、婚約者が居る女なんて勘弁だよ」
あっそ、と言いながら、日向子がチラと天井を窺ったのに気がついた。
もしかして、日向子さん、わかっているのだろうか?
っていうか、もしかして、圭太が此処に居るのを知ってて来たとか?
素直じゃない人だから、圭太は何処? とも言えないまま、視線でウロウロ探していたのかもしれないな、と思う。
「あーあ。
好きな人をイチコロに出来る惚れ薬とかないかしらねー」
と言う日向子に、
「そういえば、パクチーは昔、媚薬として扱われていたそうですよ」
と芽以は答える。
「……でも、圭太、パクチー嫌いじゃない?」
「そうでしたね」
「っていうか、パクチーが媚薬なんだったら、このお店に来た人、みんな此処でカップルになっちゃったりするんじゃない?」
「そうですよね……」
ま、ちょっと言ってみただけじゃないですか、と思いながら、パクチーを操るパクチーの王様を見る。
しかし、王様は、まったくそのようなことには興味はないようだった。
じゃあね、と日向子が帰ったあと、圭太が一階に下りてきた。
それを見ても、特に静も驚く様子はなかった。
「下の会話、聞こえてた?」
と芽以は訊いたが、は? なにが? と圭太は言う。
聞いてなかったのかーー。
日向子さんが静さんと浮気したいと言った話。
よかったような、悪かったような。
日向子さんは、圭太の心を試したかったんだろうにな、と思いながら、芽以は、なにか考えている風な圭太の横顔を眺めていた。
パクチー……。
そういえば、昔は媚薬として使われていたんだったな。
芽以が日向子に言っていたことを思い出しながら、逸人は、圭太と芽以の会話を聞いていた。
まあ、芽以もパクチー嫌いなので、意味はないが。
だが、確か、香りに催淫効果があるとか言うのではなかったか。
この店には、朝から晩まで、パクチーの香りが満ち満ちているはずなのに、ちっともいい雰囲気にならないんだが、と思っている目の前で、静と圭太が話し出した。
静も日向子が圭太を試すような真似をしていたのに気づいていて、調子を合わせてやっていたようだった。
いい奴だからな、静。
ま、多少、女癖の悪いところはあるが、と思ったあとで、ハッとする。
こんなパクチーの残り香が漂う中で、静と芽以を一緒にしていたら、静を芽以が好きになってしまうかもしれない。
って、なんか前も思ったぞ、こんなこと。
でも、そうだ。
静だけではない。
他の連中もいい奴らだから、誰が此処に来ても、芽以が好きになってしまうかもしれないし。
みんなも芽以を好きになってしまうかもしれない。
再び、芽以と圭太が話し出すのを見ながら、頭がぐるぐるしていると、静が側に来た。
見るからに色男なその顔を見ながら、つい、
「もうお前らは店には呼ばん」
と言うと、
「急にどうした?」
と訊いてくる。
「いや、お前らを呼んでたら、芽以がお前らを好きになって。
お前らも芽以を好きになって。
みんなが芽以ちゃんが欲しいと言い出して、手をつないで芽以を連れ去ってしまうかもしれん」
「それ、花いちもんめだよね~……」
っていうか、早く、芽以ちゃんに告白したら? と言って、帰ろうとした静だったが、戻ってくると、圭太の首根っこをつかみ、
「じゃあね~」
と引きずり、去って行った。
「なんで俺まで~っ!?」
と圭太は叫んでいたが。
芽以も、それを見ていたが、
「……ま、さっき、帰るって言ってたから、いっか」
と言って見捨てていた。
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