ちょっと正気に返ってきました

 

「おはよう」


 翌朝、爽やかに圭太がやってきた。


 まるで、此処に来るのが、当然のごとく。


 開店準備をしていた芽以が、

「どうしたの?」

と問うと、


「いやいや。

 今日は会社休みだから、手伝ってやろうかと思って」

と言ってくる。


「お前、本当に休みなのか」

と小振りなフライパンを手にしたまま、腕を組んだ逸人が、厨房から覗き、言ってくる。


 圭太が、

「今日、土曜だろうが……」

と眉をひそめていた。


「クビになったんじゃないのか」

「俺がか」


「社長だって、クビになるご時世だぞ、株式会社なら」


 まだ社長にもなっていないお前なら簡単になるだろう、と逸人はまた、嫌な託宣を告げる。


 だが、

「いや、単なる息抜きだ」

と圭太は言った。


「意外とこの間、楽しかったからな。

 会社の人間じゃない人たちと話をするのも新鮮で面白いし」


 圭太がそう言う気持ちもわかる気がした。


 良くも悪くもお客さんにはいろんな人が居るからだ。


 ちなみに、芽以は、困ったお客さんに遭遇したときは、心は遠くを見つめ、謝罪を繰り返すことにしている。


「心を無にしようとしすぎて、仕事中に無我の境地におちいりそうになりました……」

と逸人に言うと、


「そういうときは俺に言え。

 厨房に居ると、ホールのことは見えないからな」

と言ってくれる。


「いえまあ、結構、彬光あきみつくんが役に立ってくれてるので」


 あの空気を読まない発言に、逆に客が引くからだ。


 本当に読んでないのか。


 それとも、読めないフリをしてかばってくれているのかは謎だが。


 すると、圭太が、

「俺はいつも会社で心を無にしているぞ」

と笑いながら、笑えないことを言ってくる。


「あんまり無理しないでね」

と芽以が心配して言うと、横から逸人が、


「そいつに、やさしい言葉などかけてやらなくていい。

 お前を捨てた男だぞ」

と言ってきた。


 いや、私が最初から貴方を好きだったとすると、この人は特に私を捨てたわけでもないんでは、と思っていると、逸人はフライパンを圭太に向かって突き出し、言い出した。


「代わりに俺が慰めてやろう。

 あまり無理するな、圭太。

 なにかあったら、俺に言ってこい」


「……男に言われても、慰められないなあ、ちっとも」

と呟く圭太に、逸人が、


「じゃあ、日向子に言ってもらえ」

と言う。


「それ、かえって、血も凍るから……」

と言いながらも、圭太は昼休憩まで手伝ってくれた。






「じゃ、俺、帰るよ。

 昼からは彬光あきみつも来るんだろ」

と言いながら、圭太がエプロンを畳み掛けたとき、窓の向こうにそれは見えた。


 また違う暖かそうなコートを羽織り、早足に歩くショートカットの女。


「あ、日向子さん」

と芽以が言うと、なにっ? と圭太は固まる。


 日向子は準備中の札も無視し、既に、ドアノブに手をかけていた。


 ひいっ、と固まった圭太は隠れようとして周囲を見回している。


 逸人が、

「何処に入る?

 ポリバケツ? 冷凍庫か?」

と訊いていた。


「だから、まだ、生きてるっ」


 凍死させる気かっ、と叫びながら、圭太は二階に逃げた。


 あっ、こらっ、と逸人は階段を駆け上がる圭太を見上げたが、深追いはしなかった。


 日向子が、

「なんで閉まってんのよ~」

と言いながら入ってきたからだ。


 さすがに、日向子に圭太を突き出すほど非情ではないようだ。


 日向子が、

「もう昼休憩なの?

 お腹空いたんだけど」

と言い出したので、芽以が、


「相変わらず、フリーダムですねえ」

と言いながらも、


「そうだ。

 まかない一緒に食べますか?」

と言うと、


「ほんとっ? 嬉しいっ。

 一回、食べてみたかったのよっ。


 賄いの方が、店の料理より美味しかったりするって言うじゃない」

と言ってきた。


 いや……さすがにそれはない。


 まあ、家庭料理に近いので、味が慣れてて、食べやすくはあるが。


 すると、

「引き止めてどうする」

と小声で逸人が言ってきた。


「日向子さんが食べてる間に、圭太を裏から逃がします。

 すみませんが、賄いお願いします」


 本当は圭太にも食べさせたかったのだが、と思いながら頼むと、逸人はわかった、と言う。


「ねえねえ」

と窓際の席に陣取った日向子が大きな声で厨房に居る芽以たちに話しかけてくる。


「この間の会食、二人とも来なかったから、私たちとご両親とあんたたちで、ご飯でもってお義母様たち言ってたわよ」


「そうですか」

と芽以が厨房から顔を覗けて言うと、日向子は、


「でも、来ないでねー」

と言ってきた。


「……なんでですか」


 私もそうそうお義母様に逆らえないんですが……と思っていると、


「だって、まだ、あんたを圭太に会わせたくないから」

と言う。


 いや、今、二階に居ますけどね……。


「あんたが、枯れたバアさんになったら、圭太と会ってもいいわよ」


 それ、何十年先の話なんですか、と思っていると、逸人が手早く作ったチャーハンを皿に盛りながら、


「それはないな」

と言ってきた。


「芽以は年をとっても、きっと可愛いからな」


「……どんだけラブラブよ、あんたたち」

と呆れたように、言いながら立ち上がった日向子がこちらに来る。


 カウンターのところから身を乗り出した日向子が、


「ふーん。これが厨房かあ」

と眺めたあとで、棚の上に置かれていた眼鏡ケースに気づき、


「あら、これ、誰の?」

と訊いてきた。


「俺のだ」

と逸人が日向子にチャーハンののったトレーを渡しながら言うと、


「へえー、あんた眼鏡なんてかけるの。

 ちょっとかけてみなさいよ」

と言い出した。


 やっぱり、即行、言うんだな、と苦笑いして、芽以は聞いていた。





 二階に潜んでいた圭太は、下の会話を全部聞いていた。


 特に、声の大きな日向子の話がよく聞こえてくる。


「どんだけラブラブよ、あんたたち」


 呆れたように言う日向子の声。


 確かに気になっていた。


 此処に来るたび、芽以と逸人が共に居る姿が、しっくり来るようになっていることに。


 子どもの頃から、芽以も逸人もお互いが苦手なようで、常に距離があったというか。


 妙な緊張感があったのに、何故一気に此処まで距離が縮まる? と思っていた。


 それがお互いを意識してのことだと気づかなかったのが、圭太の敗因だったし。


 ざっくりしているところが、圭太のいいところではあるのだが。


 そんな風に、他人の微妙な感情が読めないところが、重役たちと上手くいかない原因のひとつでもあった。


 このままでは、逸人と芽以が、ちゃんとした夫婦になってしまう。


 錯乱して、二人を結婚させてしまったものの。


 だんだんと仲睦まじくなってくる二人を見ていて、さすがの圭太も少し正気に返ってきた。


 思えば、逸人は完璧な弟だ。


 重役たちの間に、未だに、逸人社長待望論があるのも確かだ。


 そんなことを悶々と考え続けていたので、下に新たな訪問者が現れ、妙な騒ぎが起きているのにも気づかなかった。





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