これではまるで盗聴だ……



 芽以の様子がおかしい。


 いや、いつものことなんだが。


 なんで、今日はこんなに俺をチラチラ見てるんだ……。


 いつも芽以は料理を取りに来ても、ささっと居なくなってしまうのだが、今日は、いちいち、こちらをじいっと眺めていく。


 こっちを見ないでくれ、芽以。


 手が震えるじゃないか、と逸人は思っていた。


 妻に見つめられて、緊張して手が震えるというのもおかしな話だが。


 それにしても、芽以。

 一体、どうしたんだ、と思う。


 やはり、昨日、圭太に会ったからか?


 あいつを店内に入れるんじゃなかったな、と思ったが。


 入れなかったら、外で、ひとり寂しくマッチでもってそうで――


 ああ、放火的な意味ではなく、マッチ売りの少女的な意味でだが。


 想像した方が物悲しくなってしまうので、つい、うっかり入れてしまったのだ。


 そういえば、さっき、芽以、離婚がどうとか叫んでいたな、と思い出す。


 まさか、俺と離婚したいとか?


 まだ結婚してないぞ、芽以っ。


 パクチーと貝柱を炒めながら、悶々もんもんと考え続ける逸人は、今日はなにを作っても、パクチーの匂いが、より鮮烈に感じられるな、と思っていた。





 店が閉まる前、会計していた常連のおじさんが逸人の方を見、

「今日はいつも以上に、パクチーの香りがよく効いてたよ」

と褒めてくれた。


「ありがとうございます」

と言いながら、


 自分を痛めつけたかったので、ついパクチーの分量が増えてしまったのだだろうか、と思っていた。


 片付けを終え、彬光あきみつが帰った頃、芽以が自分の許にものすごい勢いでやってくる。


 なにを言われるかと厨房でビクついたが、芽以は頭を下げて言ってきた。


「あのっ、ありがとうございますっ」


 ありがとうございます?


「昨日、区役所に必要な書類を取りに行って、婚姻届が出てなかったのを知りました」


 婚姻届が出てなかったのをありがとうございますって、それは俺と結婚してなくて、


『ああー、良かったーっ』


 ってことか、芽以っ。


 逸人の頭の中では、いつか見た光景のつづきが再現されていた。


 寒い冬の夜。


 観覧車の方に向かい、手をつないで歩いていく芽以と圭太。


 やっぱり、圭太と結婚するから、ありがとうございますっ、とかかっ?

と多少頭がガンガンしながら思っている逸人の前で、芽以は俯きがちに少し赤くなり、言ってくる。


「私が覚悟を決めるまで、婚姻届は出さないとおっしゃってくださったそうですね。

 ありがとうございます。


 嬉しかったです」


 そのまま、芽以は恥ずかしそうに、ぱっと居なくなってしまったが、逸人はそのまま固まる。


 なんだろう、これは……。


 やはり、


『貴方とは結婚したくなかったんですよー。


 出してなくて、良かったですっ。

 ありがとうございますーっ』


 ――ってことなのか?


 それとも、あの赤くなっている様子からして、


『お気遣いいただきありがとうございますっ。

 嬉しいですっ』


 ――ってことなのかっ?


 ああ、どのようにも取れて難しい……と芽以を追えないまま、ぐるぐる考えていたが。


 いや、このままにするわけにはいかんっ、と逸人は覚悟を決めた。


 まあ、決めた時点で、芽以が走り去ってから、二日くらい経っていたのだが。


 芽以を問いただそうと心に決めたその日。


 逸人は仕事を終えたあと、芽以が厨房にスマホを忘れていることに気づいた。


 ちょうどいい口実が出来た、と思い、芽以の部屋のドアをノックしようとしたとき、中から声が聞こえてきた。


「ごめんなさい。

 待ってた?


 今日も一日お疲れ様」


 芽以?

 誰と話してるんだ……。


 頭の中では、話し相手は圭太になっていた。


 だが、そういえば、芽以のスマホは此処にある。


 まさか、部屋の中に圭太がっ?


 緊張しながら、逸人は戸に耳を当て、中の様子を窺ってみる。


「今日もお客様いっぱいだったよー」

という芽以の言葉を聞きながら、


 待てよ。

 これでは、盗み聞きだな、と気づく。


 しかし、一体、中でなにが、と思いながら、勇気を出して、ノックしてみた。


 他に誰も居ない部屋で、芽以が鏡に向かって、ひとりで話しかけてても怖いなと思いながら。


「はい」

と返事がしたので、開けてみると、芽以は、暗がりで窓辺の机に向かい、ひとり座っていた。


 誰も居ないことに、ほっとしながらも、


 いや、待て。

 じゃあ、こいつ、ひとりで喋ってたのか?

と思って、ちょっと怖い。


 いやいや、もしかして、このスマホとは違う、秘密の通信機器を持っているのやもしれん。


 無線とか、トランシーバーとか。


 いや、そんな嫁も怖いが、と思ったとき、芽以がこちらを振り返り、

「あっ、逸人さんっ」

と叫んだ。


 まずいところを見られてしまったという顔をする。


 さっき、はい、と言ってしまったのは、ノックをされてつい、反射で答えただけだったのだろう。


「……なにしてるんだ?」


 入っていいものなのか迷いながらも部屋に入ると、芽以は、ははは……と苦笑いしていたが、特になにかを隠そうとする様子もなかった。


 近づいてみると、芽以の机の上には、小さな鉢植えがあった。


 芽はまだ出ていない。


「これは?」

と訊くと、


「パクチーです」

と芽以は言う。


「一から育ててみたら、可愛く感じられるかなーと思って」


 芽以なりに、パクチーに近づこうとしているようだった。


「育てて、食べてみるのか?」

と訊くと、


「そうですね」

と言ったあとで、あっ、いや、でもっ、と言う。


 芽以は、まだ芽の出ていないパクチーを見つめ、言ってきた。


「可愛がって育てたら、食べられなくなるかもしれませんよね」


「いや、食べないまま枯らすのも問題だろ」

と答えたあと、二人で、街と月の明かりの下、まだ芽が出ていない鉢を眺めた。


 こうして一緒に眺めていると、なんだか、二人で子どもを育ててるみたいだな、と逸人は思う。


『芽以、子どもを作ってみようか』

とか言ったら、確実に、


『は?』

と言われるな、と思いながら、逸人は芽以の後ろからパクチーの鉢を覗き込み、言った。


「無理にパクチーを好きにならなくてもいいんだぞ、芽以。


 俺は逆に今は怖いんだ……。


 パクチーはいきなり好きになる瞬間が訪れるというが」


 その瞬間が来ることが、今は怖い。


「俺は、こんな感じにパクチーが出てきたら嫌だなとか。


 こんな料理に混ざってたら、香りが強そうで嫌だな、とか。


 自分がこれは強烈に嫌だな、と思う料理を作ることで、お客様にお褒めいただいてきた。


 でも、自分がパクチー好きになってしまったら、そういう発想が出なくなるんじゃないかと思って、ちょっと不安なんだ」


 暗がりなせいもあり、なんとなく、芽以との距離を近く感じ、そんな不安を吐露してみた。

 

 ……芽以、返事がないが、と思いながら、逸人はしばらく黙っていた。





 芽以の返事がないことを逸人が不安に思っている間、芽以は自分の頭のすぐ上に逸人の顔があり、自分の背中のすぐ真後ろに逸人の身体があることに緊張して、フリーズしていた。


 近い近い近いっ。


 普段吐かない弱音を吐く逸人に、なにか言ってあげなければと思うのだが、上手い言葉が出てこない。


 そのまま黙っていると、

「……俺と結婚してなくて、ほっとしたか」

と逸人が訊いてくる。


 此処だけは、なにか言わなければっ、と思い、芽以は慌てて口を開いた。


「いえ。

 ショックでした」


 ああっ、なにを言ってるんだっ、私はっ、と言っておいて、焦る。


 これでは、告白しているようなものではないかっ、と思ったとき、後ろから逸人が抱きしめてきた。


「芽以……」

と呼びかけられ、失神しそうになったとき、軽い足音が屋根の上で、バタバタバタとした。


 それと同時に激しくなにかが羽ばたき、月明かりの中、高い木に飛び移る猫が見えた。


 どうやら、夜目がきく猫が、休んでいた鳥を襲おうとしたようだった。


 逸人は芽以から手を離し、窓辺に寄ると、飛び去る鳥を見ながら、

「……鳥さんか」

と呟いた。


 鳥さんっ?


 だが、逸人の顔は大真面目だ。


 おそらく、子どもの頃、鳥さん、と言っていたのが、口癖として、そのまま残ってしまったのだろう。


 その顔立ちに似合わぬ可愛い物言いに、心臓をやられそうになる。


 逸人さんっ。

 めちゃくちゃ好きかもですっ、と思いながら、立ち上がり、芽以は走って逃げた。





 二日経って、芽以はまた会社に行ったのだが。


 ちょうど総務の課長と居た、人事の課長に、

「すみません。

 この間、結婚の届け出のための書類を持ってこいと言われましたが。


 それが役所に行ってみたら、私、まだ結婚してなかったんですよー」

と陽気に言って、


 結婚詐欺っ? と人の良い課長たちを青くさせてしまった。







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