そりゃ、お前が知らなかっただけだ

 


 次の日の休憩時間、借りていたタッパーを実家に返しに行く、という名目で、芽以は店を出た。


 天気もいいし、ちょっと気分転換したかったのだ。


 逸人も、

「行ってこい。

 お義母さんたちによろしくな」

と言ってくれた。


 いい旦那様だ。


 ……そう。

 いい旦那さまなんだよあ、と思いながら、ぐだぐだ考えているのが莫迦らしくなってくるような青空を芽以は見上げる。


 芽以が実家に着いたとき、ちょうど幼稚園のバスも着いたので、水澄みすみと翔平と一緒に先生やお友だちに手を振った。


 ああ、平和だなーと思う芽以に、翔平が、

「芽以、抱っこ抱っこっ」

とせがんでくる。


 はいはい、と抱っこした翔平のほっぺたに、ほっぺたがぶつかると、ぷっくりしたその頬はひんやりしていた。


「寒かったねー、翔平。

 お外でも遊んだのー?」


「遊んだー」


 無邪気に今日なにをしたか語ってくる翔平は芽以が通っていた幼稚園に通っている。


「今も変わってないのかなー。

 お友だちが、ステープラーで指ぱっちんしちゃって、二人で泣きながら先生探した中庭のバラの門とか」

とうっかり言って、


「……芽以ちゃん、そういうエグい話はやめて」

と水澄と翔平におびえられる。


 いや……今となっては懐かしい思い出なんだが。


 まあ、指ぱっちんした、まみちゃんも懐かしいと思っているかは謎だけど――。


 きゃっきゃっとはしゃぐ翔平を玄関に落としそうになったりしながら、中へと入る。


 翔平、今日も可愛いが、ほっぺに、チューとかはすまい。


 今、子どもの頃、日向子が逸人にキスしたことを自分が大人気なく怒っているように。


 将来、大人気なく怒った翔平のガールフレンド殴り殺されるかもしれん、と思ったからだ。





 家の中で、翔平を遊んでやっていると、夕方から出張するという兄が水澄に電話をかけてきた。


 自宅に荷物を取りに帰ってきたらしい。


 今、こっちに居ると水澄が言うと、すぐに聖はやってきた。


「どうした、芽以。

 渋い顔をして」

と言ってくる。


「いや……実は、昨日、区役所に行ったら、逸人さん、まだ、婚姻届出してなかったみたいで」

と言うと、聖は、


「なんだ、お前知らなかったのか」

と言ってきた。


 えっ? と兄を見上げると、


「いや、逸人は、お前が本当に自分とこの先暮らしていっていいと覚悟を決めるまでは、婚姻届は出さないと言ってたからな」


 此処に挨拶に来て、足湯に入ったとき、と言ってくる。


 そ、そうか。

 それでか、と芽以はようやく気がついた。


 逸人と聖と父とで足湯に入っていたとき、それまで硬かった父の表情が柔らかくなり、急に笑い声が聞こえ始めた。


 あれは、そんな逸人の覚悟を聞いたからだったのだ。


「でもそういうのって、お父さん、逆に不安じゃなかったのかな?」

と今は会社に行っている父のことを思い、芽以は訊いてみる。


 娘がそのまま、ポイ、される可能性もあるからだ。


 すると、リビングと続きになっているキッチンに居た母が、


「逸人さんはいい加減な人じゃないからね。

 あんたが気に入らなくても責任くらいはとってくれるでしょうよ」

と言ってきた。


 おい、母。


 気に入らなくてもってなんだ……、と思っていると、翔平を片腕で抱っこした聖が言ってくる。


「逸人がお前を捨てるわけないだろ。

 念願叶って結婚したのに。


 だって、あいつ、昔から、お前のこと好きだったんだからな」


 ……はい?


「あら、素敵」

と水澄が言う。


 ところが、それを聞いた母は、はははは、と豪快に笑って言ってきた。


「ないない。

 逸人さんほどの人がそんな」


 おい、母……。


 結婚させておいて、どういうことだ、とそこだけは釈然としないまま、芽以は店へと戻った。






 夜の営業中、芽以は厨房に入るたび、こちらには目もくれずに黙々と調理している逸人の横顔を眺めた。


 こんな良くできた人が私を好きとか。


 ……いや~、ないない。


 そのとき、彬光がホールから呼んできた。


「芽以さん、ちょっとー。

 取材の人らしいですよー」


 取材? と小首を傾げながら行くと、若い男女がテーブルに居て、地元タウン誌の者だが、取材させて欲しいと言ってきた。


 えっ、と芽以が詰まっていると、


「この界隈でパクチー専門店って初めてなので、ぜひ、特集させていただきたいと思うんですが」

と言ってきた。


 でも、逸人さん、最初は広告打たずにじっくりやって足場を固めたいって言ってたから、お客さん増えすぎるのは困るんじゃ、と名刺を手にしたまま、芽以が固まっていると、カメラを持った男性が言ってきた。


「いや、お宅のシェフ格好いいですよねー。

 ぜひ、シェフの写真をバーンッと載せてですね――」


「のっ、載せないでくださいっ」

と芽以は思わず叫んでいた。


 写真が雑誌に出て、逸人さんが人気になって、浮気して―― まで、妄想が広がっていたからだ。


「えーっ。

 なんでですか?

 

 もったいないー」

とボブの髪にゆるくパーマをかけた女性の方が言ってくる。


「せっかくイケメンシェフなんだから、前面に出して売り出したらいいのにー」


「そ、そんなことしたら」


 逸人さんが人気になって、浮気して……


「離婚してしまいますっ」


「は?」


 ああ、いや、まだ、結婚してないけどさ、と思う芽以の後ろから逸人がやってきて、

「すみません。

 まだ店の体制が整っていないので。


 お話、ありがとうございました」

と言って、さらりと断ってくれた。


 よ、よかった、と思う芽以の前で、女性の方が、

「えーっ。

 残念ですー。


 私、パクチー好きなんですよねー。


 この店にみんな来てくれたら、パクチー好きが増えるかと思ったのにー」

と言い出す。


 芽以の頭の中では、何故か、荒廃したこの町の中をゾンビがパクチーを求めて彷徨さまよいながら、増えていた。


 なにかこう、爆発的に増えるイメージだからだろうか。


 それとも、パクチー好きが増えると、世界がパクチーの匂いで汚染されそうな気がしたからだろうか。


「私、パクチーをもっともっと世に広めたいんですよー」

と笑顔で彼女は言ってくる。


 奇特な人だ……。


 でも、私もいい加減、パクチーを好きになって、お店に来る人と楽しくパクチー談義とか出来るようにならなきゃな。


 逸人さんのためにも、と息を止めて、料理を運びながら、芽以は思っていた。






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