これは、パクチーによる暴力だ

 


 芽以はパクチーに歩み寄ろうと、パクチーを育てることにした。


 可愛がって育てれば、愛着が湧くのではないかと思ったのだ。


「逸人さん、パクチーが好きになれたら、お話があるんです」


 朝ごはんのとき、芽以はそう切り出した。


「……パクチー好きになれなかったら、話はないのか」


 箸を手にしたままこちらを見、逸人はそう訊いてくる。


 いや、そういうわけでもないのだが……。


 食事を終えた逸人は、なにも言わずに片付け、休憩時間に何処かに出かけていったと思ったら、ちょっと育ったパクチーの苗を持ってきた。


 どうやら、神田川に分けてもらってきたらしい。


 立派な苗が三つもある。


「今育ててる奴と並べて育てろ。

 パクチー発芽率悪いしな」

と言う逸人に、はいっ、ありがとうございますっ、と言うと、


「……それだと一週間程度でもう食べられるから」

と言ってくる。


 まさか、朝言ったお話がありますが気になって、早くパクチー育てて食べて、パクチー好きになるように、苗を持ってきたのだろうか。


 まあ、貴方にとっては、たいした話ではないと思いますけどね、と思いながらも、ありがたくいただいた。


 その日から、芽以はパクチーとともに寝起きした。


 幸い、パクチーはそこにあるだけなら、強い匂いを発したりはしないので、

「おはよう。

 パー、クー、チー」

と名付けた三つの苗と、


「おはよう。

 種たち」

とまだ芽が出ていない土に向かい話しかける。


 パクチーの種は硬い殻のようなものに包まれているので、少し割ったほうがいいと聞いて、割って植えてみたのだが、なかなか発芽しない。


 まあ、発芽するまで、結構かかるらしいからな、と思いながら、土を見つめている間に、神田川の苗がぐんぐん育ってきた。


 元がしっかりした苗な上に、神田川の用意した土もいいからだろう。


 時折、電話して、神田川のアドバイスを聞いたりもしたし。


 こんなに熱心になにかを育てたのは、兄と転卵しながらかえしたひよこ以来だな、と思う。


 たくさんニワトリを飼っている田舎の親戚に有精卵をもらって育てたのだが。


 ぴよぴよ可愛いひよこも、すぐにニワトリになった。


 そして、一日中、クワクワ言っていったニワトリは、ある日、学校から帰ると消えていた。


 親戚のうちに返したと母は言っていたが、親戚のうちに行っても、どれが自分の庭でクワクワ言っていた奴なのか、見分けはつかず。


 それを聞いた幼なじみの斎藤誉さいとう ほまれなど、

「その日の晩ご飯、チキンじゃなかった?」

と言って、いひひひひ、と笑っていた。


 転卵、今は機械も簡単に手に入るんだよなー、と思いながら、風呂に入ったあと、ネットの動画をタブレットで眺めながら、階段を上がっていた。


 うずらの転卵の動画だ。


 がしゃんっと一気にひっくり返るさまが、卵のままなのに、なんか可愛い。


 がしゃん、がしゃんとうずらが転卵される様子を眺めているうちに、真っ暗な廊下に、うずくまっていたようだ。


 階段を上がってきた逸人が、

「どうしたっ!?」

と叫んでいた。


 タブレットの薄明かりで、顔がぽうっと照らし出されていて、ちょっと怖かったようだった。






「パーとクーとチー。

 食べられない気がします」


 ニワトリをチキンにして食べられなかったように。


 いや、食べたのかもしれないが……と思いながら朝食の席で芽以が言うと、

「……名前なんかつけるからだ。

 せっかく食べるために育てたんだ。


 パー、クー、チーのためにも食べてやれ」

と言われ、一週間で程よく育ったパー、クー、チーを収穫した。


 収穫されて、逸人の真っ白なまな板の上に並べられたら、誰が、パーで、クーで、チーなのか、さっぱりわからなくなっていたが。






「そこで待ってろ」

と逸人に言われ、芽以は、ぽかぽかと暖かい窓際の席で待つ。


 逸人が、開店前に、パー、クー、チーを料理して食べさせてくれることになったからだ。


 客の居ない店内はガランとしていて、ただ逸人がなにかを炒めている音だけが響いている。


 しばらくして、ニンニクの効いた美味しそうな海鮮炒めが出てきた。


 香ばしい匂いが店中に充満する。


 すごくいい匂いだ。


 プリプリの海老やイカ、シャキシャキのセロリの隙間から、ちょっぴりパクチーが顔を覗かせている海鮮炒めを眺める。


 パクチーはほんの気持ちほど入っている、と言った感じだった。


 芽以は、一口、パクチーのない部分を食べてみた。


 イカがやわらくて美味しい。


 うん。

 海老もいける。


 前に立って見ていた逸人が、

「……パクチーに行け」

と言ってきた。


 ……そうでしたね。


 今のところ、パクチーの風味はあまりしません、と思いながら、それらしき炒められたものをつまみ、一口、口に入れる。


 噛んで飲んだ。


 水を飲んだ。


 大好きな海老を食べた。


「食べられました……」


「……お前、今、息してなかったろ」


「いやっ。


 今っ。

 パクチーが上がってきましたっ」


 まるで、マラソンの中継の人のように芽以は叫ぶ。


 正確には、上がってきたのは、パクチーではなく、パクチーの匂いだが。


 芽以にはパクチーが胃から鼻先まで戻ってきた感じがした。


 魔王を打ち倒し、やった! と帰ろうとした瞬間、実は生きていた魔王に後ろから斬りかかられた気分だ。


 おのれっ、パクチー!


 まるで香りの魔王様だっと、そこまで爽やかでなくていいですっ、という香りを放つパクチーの匂いを打ち消すため、慌てて、薄切りにしてあったニンニクを呑み込む。


 開店前に、ニンニクの匂いを消すのに、緑茶飲んで、リンゴを食べなければっ、と思いながら。


 だが、匂いの方向性が違うせいか。

 単に、鼻が記憶していて、匂いが蘇ってくるのか。


 まだ、芽以の鼻には微かにパクチーの匂いが残っていた。


 そこで、逸人が厨房に戻る。


 生パクチーがのった美味しそうなピザが木製トレーに載ってやってきた。


 この美味しそうな、は、もちろんパクチーにかかってはいないが。


 パクチーの美しい緑が、ピザを美味しく見せているのは確かだった。


 ……生パクチー。


 ごくり、と芽以は唾を飲み込む。


「無理はするなよ」

と逸人は言った。


 一発目の海鮮炒めは、たぶん、もっともパクチーの匂いがしない料理として、逸人が選んだものだ。


 だが、これは……と芽以は、ピザの上に鮮やかに盛られたパクチーを見ながら惑う。


 しかし、日々育てた、パクとチーとの思い出が蘇ってきた。


 ああ、いや、パー、とクー、とチーか……と既に錯乱しながらも、芽以はピザに手を伸ばした。


 一週間という短い期間ではあったが、朝日を浴びたパクチーに話しかける日々。


 窓を開けると、風にそよいで、挨拶を返してくれるように見えていたパクチー。


「いただきます」

と手を合わせ、神妙な顔でピザを手に取ったが、逸人は、


 いや、お前、もうさっき、パー、クー、チーの一部食ったろ、という顔をしていた。


 ぱくりと口に入れ、噛んでみる。


 アンチョビの味しかしなかった。


 私の愛が勝ったかっ、と思ったのだが、すぐに鼻を突き抜けるような匂いがしてきた。


 倒したはずの魔王が、大軍を引き連れて戻ってきた気分だ。


「死ぬほど臭いですっ!」


「……新鮮だからな」


 そう言った逸人には、こうなることはわかっていたようだ。


 一生懸命育てて、情が移った、まではいいが。


 新鮮採りたてな分、香りも鮮烈だった。


 だが、パクチーの匂いを消すために、急いで海鮮を口に運んでいた芽以は気づいた。


 はっ、せっかく調理してくださったのに、死ぬほど臭いとか言ってしまったっ!


 いや、パクチー料理としては、褒め言葉に当たるのかっ?


 そう思いながら、逸人を窺うと、彼は微笑み、自分を見下ろしていた。


 ――何故っ?


 せっかく逸人さんが作ってくださった料理を苦い顔で呑み下した私のような無礼者に、何故、そんな優しげな顔をっ。


 申し訳なくなった芽以は、更に、パクチーと触れ合おうとした。


「芽以……」

と逸人は止めようとしたが、もう一口、生パクチーピザを口にする。


 芽以は俯き、吐くのをこらえた。


 これを食べて、にっこり微笑めたら、逸人さんに言おうと思っていたことがあるのにっ。


 彼がその話を聞きたいかはともかくとして、と思いながら、芽以は口許を押さえる。


「じ、人生がメタメタになるほどのダメージです……」

と呟いて、


「……ずいぶん軽い人生だな」

と言われてしまったが、いや、そんな感じだっ!


 パクチーに出会ってから、何度も思っていたことを、また此処で繰り返し思う。


 人は何故、こんなものを食べなければならないのかっ!


 他に食べられるものいっぱいありますよっ?


 パクチーというのは、ある日、突然、

「あ、美味しい……」

と思うようになるものらしいが、まだまだその域には達せられそうにもなかった。


 息を止め、もしゃもしゃとパクチーを噛み砕いた芽以は、口の中のパクチーをすべて飲み干したあとで、水を飲んで呟く。


「なんかカメムシの方がマシな気がしてきました……。


 今、カメムシなら食べられる気がします。


 カメムシは何処ですか」


「落ち着け、芽以」

と錯乱している自分に冷静に逸人が呼びかけてくる。


 哀れな自分を見下ろす逸人の慈愛に満ちた微笑みは、縮こまった胃に染み入る美しさだ。


 ああ、それにしても、すごい匂いだ……。


 運んでいるときの比ではない。


 なにせ、身体の中から匂ってくるのだ。


 美味しい食材も、この店も、逸人さんも。


 この世界のすべてがパクチーに汚染されていく。


 取材の女性と話したときに頭に浮かんだゾンビたちが、今、パクチーを手にこの街をさまよっていた。


 いや、さまよっているのは、お前の頭だと言われそうだが。


 ちょっと気が遠くなりながらも芽以は言った。


「私……逸人さんのために……、頑張りますっ」


 切れ切れになってしまった言葉をなんとか最後まで押し出し、芽以はダッシュでその場から走り去った。


 なんかもう、すべてがカメムシ臭かったからだ。


 だが、パクチーの匂いはピザをつかんだ手にもついており、鼻に残るパクチーの香りを更に増幅させる。


 洗面所で芽以は、いつまでもいつまでも、いつまでも、手を洗っていた――。





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