あの人も来ました……
な、なんということをしてしまったんだ……。
芽以はモップを手にしたまま、ホールで固まっていた。
今朝、目を覚ますと、逸人が髪を撫でてくれていて、
「おはよう」
と微笑みかけてくれた。
ええええええーっ。
そ、そういえば、昨夜、逸人さんに泣きついたまま寝たようなっ、と固まり。
固まったまま、ぺこりと頭を下げ、温かい逸人のベッドを出て、自分への戒めのために、エアコンもつけずに寒いまま、部屋で着替え、朝食の支度をして、食べ、また着替えて、今、ホールでモップがけをしているわけなのだが――。
いや、もう信じられない~っ、と昨夜の自分に対して思っていると、逸人が厨房に下りてきた。
ひいいいいいっ、と芽以はモップの柄を握りしめる。
恥ずかしさと申し訳なさで、逸人を撲殺してしまいそうだった。
撲殺はまずいっ、と思った芽以は慌てて、モップから手を離す。
カン、と音がして、逸人がこちらを振り向いた。
芽以はあまり顔を見ないようにして、逸人の許にダッシュした。
「もっ、申し訳ございませんっ、逸人さんっ」
とコメツキバッタのように何度も頭を下げる。
いや、コメツキバッタがほんとうにこのようにするものなのか、見たことはないので知らないのだが……。
「昨夜は逸人さんにあのように甘えてしまいましてっ。
ぜひっ、逸人さんもなにかお困りの際には、わたくしにお甘えくださいっ」
とちょっと可笑しな日本語でまくしたてたあと、二階へと走り去る。
掃除はどうした、と言われそうだな、と思いながら。
どんな顔したもんかな、と朝から逸人も思っていた。
今朝の芽以は自分とは目も合わせず、二倍速くらいの勢いで動いている。
まあ、仕事が早く終わっていいのだが。
一階に下りると、モップを手にしていた芽以が突然、石像のように動かなくなった。
かと思うと、モップを倒す。
カン、という音ともに、こちらを振り向いた芽以が、いきなり猛スピードで突っ込んできた。
イノシシかと思う、その勢いに、思わず、逃げそうになったが、逸人は、ぐっとこらえ、なにも思っていない風を装った。
だが、そんな風にしなくとも、芽以はそもそも、自分とは目を合わせようともしなかった。
ペコペコ頭を下げながら、
「ぜひっ、逸人さんもなにかお困りの際には、わたくしにお甘えくださいっ」
などと言ってくる。
それは、俺にもお前のベッドに入ってこいという意味か? 芽以っ!
それとも、ただ、なんとなく言ってみただけなのかっ?
ああ、芽以の気持ちがわからないっ! と芽以が消えたあと、表情も変えずに苦悩していると、いきなり、背後で、
「甘々だね」
と声がした。
振り向くと、茶髪でいまどきのイケメン風な男が立っていた。
この間、祝いに来てくれたメンバーのひとりだ。
「
産まれてすぐ、ぎゃあぎゃあ泣き続けて父親が、
「うるさいっ、
と叫んで、『静』になったという、嘘かほんとかわからない逸話のある男だ。
「この間、一個渡すの忘れてた」
と小箱を渡してくる。
「羽ペン。
電話で注文受けたとき、こういうので、サラサラッと書いてたら、お洒落じゃん。
あの上品で美人なお前の彼女とか」
と言ってくる。
「……芽以のことか」
確かに、注文を受けた芽以が伏し目がちにメモを見ながら、サラサラッと書く姿は美しいだろうが。
それは、その手許で書かれた字を見なければの話だ。
何語ですか、とか常連さんに微笑まれて言われそうだ、と思っていると、静は、
「じゃ」
とあっさり帰ろうとする。
「待て。
お茶でも飲んでいけ」
と逸人が言うと、
「いや、いいよ。
開店前で忙しいだろ。
っていうか、今の甘々な会話聞いてたら莫迦莫迦しくなったから、その辺でナンパしてくる」
と手を挙げ、あっさり静は出て行った。
かなりマイペースだと思う自分でも、どうかと思うくらいマイペースな男だ。
「ありがとう」
と言ってみたが、
「いやいや」
というセリフはもう、裏口の戸の向こうから聞こえていた。
ありゃ全然進展なさそうだなー、と思いながら、静は店の外に出た。
まあ、逸人だからな、と思う。
あれだけ頭が切れてイケメンでも、まったくそういうことには
だが、おままごとのようなカップルが新鮮で可愛らしく。
まあ、あそこは、あのままで居て欲しいような気もする、と思ったとき、何故か、肩にかけたフェンディのピンクのファーを持ち上げ、顔を隠すようにして、店内を覗いている女が居る。
「この店になにか用?」
たいして考えもなしに声をかけると、女はビクリと振り向く。
ショートカットで目許のきつい美女だ。
いい女だな、と思う。
同じ上品そうな美人でも、芽以とは対照的だ。
芽以は、ふんわりして可愛い感じだからだ。
「なにも用はないわ。
このガラスでコンタクトがずれてないか、チェックしてただけよっ」
と険のある声で言ってくる。
うわー、いろいろとめんどくさそうな女だなーと思う。
ゴージャスな美人だが。
チェスターコートのポケットに手を入れ、黙って女を見ていると、逃げればいいのに、逃げなかった女は沈黙に耐えかねたように言ってきた。
「……貴方、この店から今、出てきたけど。
お店の人のお知り合い?
私が此処に居たって言わないでね」
うん、わかった、と言った瞬間、静は芽以が店を開けるために鍵を開けるのを見た。
なにも考えずに、ガチャリとドアを開ける。
「あっ、おはようございますっ」
と驚いたように言う芽以に向かい、言った。
「芽以ちゃん、お客さん」
「ちょっとーっ!?」
と後ろで、女が叫んでいる。
静が振り返り、
「いやあ、スッキリするかと思って」
と言うと、
「なにがよっ」
と怒鳴ってきた。
見た目通り、気が短いようだ。
いやいや。
そんなとこから覗いてるより、なんだかわからないが、直接、話した方がすっきりすると思うんだが。
――と心の中だけで思う。
そのとき、苦笑いして、こちらの様子を眺めていた芽以の後ろから逸人が現れた。
「……日向子、どうした」
と驚いたように言う。
芽以が、ええっ? この人が日向子さんっ? と小声で言い、何度も逸人を振り返っていた。
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