ついに来ました、ヤツが
芽以に頭を撫でられそうになった逸人はご機嫌だった。
いや、元来、無表情なので、人の目にどう映っていたかは知らないが。
ともかく、本人的には機嫌が良かった。
そう。
夜、アレが来るまでは――。
「いや、大丈夫だ。
俺が外に出しておくから」
営業時刻も終わりに近づいた頃、逸人は店内に居る芽以に向かって、そう言いながら、一杯になってしまった生ゴミを店の外のポリバケツに入れに出た。
すると、そこにそれは居た。
一瞬、霊かと思ってしまうくらい生気のない男―― 圭太だった。
ブランド物のロングのムートンコートを着たその姿は、お前は何処の芸能人だ、という風情だが、目が死んでいる。
「なにしに来た」
と逸人が言うと、
「なにしに来たって、此処はレストランじゃないのか」
と真っ当なことを言ってくる。
残念ながら、まだ、オーダーストップではなかった。
「入れ。表からな」
と言って、中に戻った。
いつも芽以に、看守に指令を受けているようだと言われる口調で。
「いらっしゃいませ」
と振り向いた芽以は固まる。
入り口に圭太がひとりで立っていたからだ。
少しバツが悪そうにしている。
いろいろ言いたいこともないでもないが。
特に自分が引き取れないから、弟のところに行けとかいう無茶苦茶な要求に関してとか。
だが、今までずっと一緒にやってきたのだ。
此処で仲違いしてしまいたくないという思いもあった。
「……いらっしゃいませ」
と少し笑顔を作って言うと、圭太は、何故か、泣き出しそうな顔をした。
子どもの頃、腕力のある近所の子にやられたときと同じ顔だ。
思わず、誰にやられたの? と訊きたくなる。
逸人は、圭太の来訪を知っていたのか、驚きもせず、機嫌悪く厨房から腕を組んで、こちらを見ていた。
……今、非常にどうでもいい話なのだが。
白いコックコートの袖を
いや……、本当に今、どうでもいい話なんだが、と思いながら、芽以は、
「窓際の席が空いてるからどうぞ」
と圭太を席に案内する。
少し雪が降ったのか、窓枠にうっすら雪が残っていた。
水を運んでくると、メニューを見ていた圭太は、
「……パクチー」
と呟いたあとで、少し悩み、
「夕食は食べてきたんだが。
食べてみようか、パクチー」
と言う。
……まあ、此処、パクチー専門店ですからね。
「この店に入っただけで、少し目眩がしてるんだが、頼んでみよう。
じゃあ、出来るだけ、パクチーの入ってないやつ」
とメニューを閉じ、圭太は言ってきた。
相変わらずだな、と苦笑いしながら、芽以が、逸人のところに行き、
「なんでもいいから、パクチーの少ないのだそうです。
夕食は食べてきたみたいだから、軽いものの方がいいかもしれないです」
と言うと、逸人は表情も変えずに、
「叩き出せ」
と言う。
いやいやいや。
砂羽さんには、パクチー抜きのランチを作ってあげたではないですか、と思っていると、逸人は、鶏と野菜のローストにパクチーソースを添えて出してきた。
「好きなだけかけろと言え」
と言う。
なるほど。
ソースなら、自分で調節できるな、と思い、それを運んでいくと、圭太は、本当に数滴だけ、ソースをかけていた。
なんとなく、そのまま側に立ち、見ていると、圭太は渋い顔をしたあとで、それを飲み込み、
「カメムシの匂いがする」
と言い出した。
いや、ソース、ほとんどついてなかったようだが、と思いながら、
「私は香水だと思うけど」
と芽以が呟くと、圭太は顔を上げ、
「何処が香水だ」
香水に謝れ、と言う。
「帰れ、圭太」
いつの間にか、厨房から出てきた逸人が圭太に向かい、そう言った。
ああ、やっぱり、身内、という顔をお客さんたちはしていた。
まあ、そっくりだからな……と思っていると、
「なにがいけない。
俺は今日は飲み込んだぞ。
昔は吐き出したが」
と圭太は主張する。
「吐き出して、後ろから、はたかれてたな」
と逸人が言った。
もしかして、
鶏を切ると、それを食べ始める。
……圭太。
やめた方が。
息してないの、はたで見ててもわかるから、と芽以も思っていたし。
周りのお客さんたちも、手に汗握って、その様子を眺めていた。
誰しもが、最初からパクチー好きというわけではない。
ある日、いきなり目覚めたという人も多いはずだ。
臨界点を超えて、花畑が見えて、そうなるのかもしれないが……。
みな、パクチー嫌いだったときのことを思い出しているのか。
圭太が食べ続けるのを息をつめて、見つめている。
圭太は水を飲み干し、逸人を向くと、
「食べてんだから、客だろう。
追い出すなよ」
と言った。
近くの席に居た人たちが、
その人、頑張ってるんだから、居させてあげて、シェフッ、
という目で逸人を見ている。
逸人は溜息をつき、
「……食べてる間だけだぞ」
と言って、厨房に戻っていった。
途中で芽以に水をつぎ足されながら、綺麗にローストを食べた圭太は立ち上がり、レジに行く。
芽以は慌てて走っていくと、
「珈琲でも飲んで帰りなよ」
と圭太に言ったが、圭太は、いや、いい、と言う。
パクチーの香り漂うこの店に、あまり長く居たくないのかもな、と思いながら、会計をしていると、圭太はこちらを見、
「俺はちゃんと食べたぞ。
また来てもいいか」
と訊いてきた。
あ、うん、そうだね、と曖昧な返事をしていると、逸人が出てきた。
「お前、こんなところに来てる暇があるのか。
結婚式の準備があるんだろう。
会社の方も今、忙しいんじゃないのか」
そう逸人が言うと、圭太は財布をしまいながら、
「そうだな。
お前が居なくなって、お前を支持する連中が激増しているからな」
と言う。
そんな大変な状況だったのか、と思っていると、逸人は意外そうに、
「何故だ。
お前は、仕事は出来るのに」
と言い出した。
なんか含みのある言葉ではあるが、褒めてはいるようだ……、と思っていると、逸人は、
「それはただの、今、そこにあるものより、ないものの方がよく見えるという現象だ。
気にするな」
と圭太を慰めていた。
圭太はなにか言おうとしたが、逸人が、
「ちなみに、俺は今、此処にあるもので満足している。
なにもかも――」
と言うと、圭太は黙った。
「……また来る」
と言って、圭太は帰っていった。
窓から見える圭太の姿も消えたあと、唐突に、逸人が言い出した。
「……芽以。
正月だからな。
景気付けに、塩でも
シェフッ、正月、塩撒かないですよっ、と芽以の目にも、客の目にも書いてあったのだが、逸人は気にすることなく、入り口に塩を撒いていた。
なんなんだろうな、この兄弟、と思いながら、芽以は綺麗に料理のなくなった圭太の皿を片付けた。
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