ショック死します



 さて、戸締りもしたし、寝るか、と芽以が部屋の戸を開けようとしたとき、逸人が階段を上がって来た。


 芽以の顔を黙って見たあとで、

「……寝れそうか? 芽以」

と逸人は訊いてくる。


「なんでですか?」

と芽以は笑ってみせたが、わかっていた。


 圭太が来たからだと。


「一緒に寝るか?」


 ふいに逸人はそんなことを言ってきた。


 どきりとしながらも、芽以は、

「えーっ。

 また逃げちゃうんじゃないですかー?」

と冗談めかして答える。


 だが、逸人は、自分をまっすぐ見つめ、

「今夜は逃げない」

と言ってきた。


 その真摯な表情に、


 いや……、今、私の方が逃げたい気持ちになってます……と芽以は思っていた。






 今日は芽以の部屋で、二人で布団を並べて寝ることになった。


「お前のベッド、此処に運ばないのか?」

と天井を見たまま、逸人が訊いてくる。


「運ばなくてもいいかなと思ってます」

と言うと、逸人はこちらを向いた。


「だって、そのうち、引っ越すんでしょ?

 だったら、あまり此処に物運ばない方がいいですよ」


 そう言うと、逸人は少し、ホッとした顔をした。


「もしかして、それでこっちにあまり荷物を置いてないのか」

と訊いてくる。


 急だったので、芽以のアパートはまだ引き払ってはいない。


 荷物もそのままだ。


 今月中には移動させる予定だが、一時的に実家に置かせてもらおうかと思っていた。


 逸人が予想外に早く秘境に移るかもしれないと思ってのことだ。


 荷物を動かしたと思ったら、また引っ越し、ということになっても困る。


 少し物を整理もしたいし。


 実家に置いておけば、ゆっくり見極めて、少しずつ荷物を運べるからだ。


 なんせ行動の早い人だからな。


 いきなり秘境にいい店舗を見つけたら、明日引っ越すとか言い出しかねない。


 そんなことを考えながら、芽以もなんとなく天井を見た。


 逸人の部屋ほどではないが、街の明かりが差し込み、天井は明るい。


 そこを見つめたまま、芽以は言った。


「ありがとうございます。

 今日、圭太が来たから、気を使ってくださってるんですよね?


 でも……、自分でもびっくりしてるんですが。

 思ったほどショックではなかったんですよ」


 逸人は沈黙したまま、芽以の話を聞いている。


「あ、圭太が来た、とは思ったんですが。

 次の瞬間には、圭太を見ている逸人さんの腕――」

とうっかり言いかけ、芽以は言葉を止めた。


「腕?」

と問い返され、なんでもありません、と苦笑いして答える。


 うっかり本人に向かって言うところだった。


 圭太が来たのに、次の瞬間には、逸人さんの腕の筋肉のつき方が美しいとか呑気なことを思っていたと。


 人が同情してるときに、なに考えてたんだと言われそうだな、と思ったとき、逸人が、

「こっちに来るか?」

と訊いてきた。


 こ……


 こっちって?


「なにもしない。

 抱いててやる。


 ……そのために俺は、お前の側に居るんだ」


 戸惑うように逸人を見たまま動かないでいると、逸人の方が起き上がり、芽以の布団をめくると、中に入ってきた。


 こ……


 これは一体。


 芽以は、ミイラでもこんなに硬直していないと思うほど固まる。


 逃げ出すことさえ出来ずに、すぐ目の前に来た逸人の顔を見つめる。


 ど、


 どうしたら……


 どうしたら……


 どうしたらっ!?


 なんかこの人、こんな間近に見ても、こんな綺麗だしっ。


 私なんて、化粧してなくて、寝起きだったりすると、すごく腫れぼったい顔してるしっ。


 一緒に寝るとかっ。


 それもこんな間近で寝るとか、ほんと無理ですっ、と思っている間に、逸人は芽以の背に手を回し、抱き寄せてくる。


「大丈夫だ、芽以。

 そのうち、きっと、お前にも、なにかいいことがあるさ」


 逸人のいつも厳しいが、不思議に心地いい声が耳許で、そう告げてくる。


「……なに言ってんですか。

 私は今も、楽しいですよ。


 逸人さんのおかげです。

 ありがとうございます」


 逸人の大きな手が芽以の後ろ頭に触れ、すぐそこにある逸人の肩に、芽以の額をぶつけさせる。


 逸人の匂いがした。


 やめてください、逸人さん、と芽以は思っていた。


 慰めてくれるのは、嬉しいけど。

 なんだか、気を失いそうだから……。


「私、男の人とこんなに近づいたの、初めてです」


 そう言うと、

「……圭太とも手をつないだだけだったんだったか」

と逸人は笑った。


 子どもの頃から、圭太と三人、ずっと一緒に居た。


 だが、圭太は話しやすかったが、逸人はそうではなかった。


 逸人は常に冷静で淡々としてて、遊び友だちというより、尊敬の対象だったので、いつの間にか、すぐ側に居るのに遠い人、になっていた。


 ……だから、こんな風に抱きしめたりしないでください、と芽以は思う。


 夫婦になったとはいっても、全部、会社と圭太のためなのだろうに。


 圭太に放り出された私がごちゃごちゃ言ってこないように、私を引き受けてくれただけなのだろうに。


 それなのに、こんな風に慰めてもらったり、抱きしめてもらったりしたら。


 なんだか泣きそうになってしまうではないですか。


 まるで……本当の夫婦みたいで。


 そう思いながら、顔を上げ、芽以は逸人を見つめた。


 逸人は視線をそらしかけたがやめ、もう一度、芽以と視線を合わせてきた。


 だから、芽以も素直な気持ちを逸人にぶつける。


「みんな、私は圭太のことを好きだったんだろうって言うけど、よくわかりません。


 あのままプロポーズとかされてたら、受けてたかな、とは思うけど。


 それはただ、いつも一緒に居た相手で。

 側に居ると楽しいから。


 男の人として好きだったのかは、今でもよくわからないんです。


 なんていうか。

 好きになる前に、ひょいと取り上げられてしまった感じで。


 ずっとあのクリスマスイブの夜から、宙ぶらりんな感じなんです」


 今でも好きだから、悲しいとかはない。


「ただ……


 こうして、圭太の話をしていると、次々思い出が押し寄せてくるだけです」


 だって、自分の青春時代はすべて圭太と共にあったから。


 そして、思い出のすべてに圭太が居るから。


 そう言うと、逸人が小さく囁くように言ってきた。


「そういうのを好きだったって言うんだろ?」

と。


 なにかが芽以の唇に触れてきた。


 ふわっと軽いそれは、逸人の唇のようだった。


 なにが起こったのかわからないまま身動きできないでいると、逸人はすぐに離れ、

「すまん。

 今日はずっと一緒に居ると言ったのに」

と言う。


 くしゃっと芽以の前髪を撫でてから、布団を持って部屋を出て行ってしまった。


 ぱたん、と扉が閉まる。


 ……いやいやいや。


 ……いやいやいやいやいや。


 いやいやいやいやいやっ!


 今っ。


 今つ、私の身に、一体、なにが……っ!?


 もしや、あれがキスとかいうものなのですか。


 誰とも一度も、したことがなかったので、わからないっ。


 いや、赤ちゃんのときに、両親や聖にされているのかもしれないがっ。


 少なくとも自分の記憶の中にはない体験なので、なんだか訳がわからないまま、ぼんやりしていた。


 芽以の実家に行ったときも、逸人の唇が頬に触れてきたことはあったが。


 あんな風に唇に触れてこられると……、また、全然違う感じがするな、と思いながら、芽以は、ひとり、逸人の消えた扉を見つめていた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る