夫ですが、緊張します
さすがだ。
近所に適当に開いてる店があるからといって、これか、と思う。
芽以たちは、店から歩いていける場所にあるホテルの最上階のダイニングバーに居た。
ま、お正月でも開いてるよねー、ホテルだから。
こういうところは、旅行に行ったときくらいしか行かないんだが、と思いながら、少々緊張しつつ、メニューを見る。
薄暗い店内でなにを頼もうか迷っていると、逸人が適当に頼んでくれた。
酒もいつも同じものを頼みがちなので、たまには人に頼んでもらうのもいい。
新しい発見もあるし。
……新しいハズレも味わうし。
二杯目のカクテルが香りが強すぎて、いまいち口に合わなかったので、進まなかったのだが、逸人が、
「なんだ。
呑まないのなら、貸せ」
と言って、芽以のカクテルを取ると、呑んでくれた。
うひゃーっ。
申し訳ございませんーっ。
せっかく選んでいただいたのにーっ。
っていうか、呑み残しを呑んでいただくなんて申し訳ないっ、と土下座せんばかりに緊張する。
およそ、夫婦で呑んでいる感じではないな、と自分でも思いながら。
逸人は芽以の残したカクテルを呑み干すと、
「なにか好きなものを頼め」
とお酒のメニューを渡してくれる。
「す、すみません」
と逸人による緊張で硬くなったまま、芽以は、それを受け取る。
「料理もなにか。
少し小腹が空いてるだろう」
軽いものしか頼んでいなかったのだが、逸人もお腹が空いているのか、もう少し頼もうと言ってきた。
「パクチーサラダがあるな……」
二人で目を合わせ、やめとこう、と合意する。
外でまでパクチーと遭遇したくなかったからだ。
頼んだあとも、メニューを手にしていた逸人は、夜景の見える席で少し微笑む。
「未だに信じられないんだ。
俺の料理に代金がついて、客がそれを払って食べてくれるとか」
「料理に関しては謙虚ですね」
と言うと、一言多いな……という顔をしたあとで、
「でも、本当に。
なんていうか、こう、新鮮な感動なんだ」
と目を閉じ、逸人は言った。
……可愛いな。
そんな逸人を見て、思わず、そう思ってしまう。
いや、逸人さんに可愛いとか恐れ多いんだが。
逸人は自分より二つも下のはずなのだが、子どもの頃から、彼を尊敬に価する人間だと思っていたせいか、どうしても、二、三歩下がって、ははーっ、とかやりたくなってしまう。
「どうした?」
と逸人がこちらを見た。
「いえ、逸人さんとこのような話をするのは初めてだと思いまして」
とグラスを手にしたまま言うと、
「そうだな。
お前とは、じっくり話したことはなかったな。
意外に、接点が多そうでなかったからな」
と逸人は言う。
みんなで居ることは多かったが、二人で話すことはそうなかったから、お互いのことを突っ込んで訊いてみることもなかったのだ。
「中学も高校も俺が入ると、お前はすぐに居なくなってたしな」
と、まるで、居なくなったこっちが悪いかのように言ってくるが。
いえ、それ、私が二個上なんで、すぐに卒業してたからですよねー、と思う。
そんな話をしているうちに、お腹も満たされ、いい感じに酔って、店を出た。
「あれ、美味しかったですっ。
なんかこう、パイナップルが入って、甘酸っぱい」
と後半、酔っていたので、うろ覚えな店のメニューを褒めながら、歩いているうちに、逸人の店が通りの先の方に見えてきた。
「此処、いい場所ですよねー。
あんないい店から歩いて帰れますよ」
と笑うと、逸人は、
「うちも、あんないい店とか言われるようになるといいんだが」
と言ってくる。
「なりますよ。
だって、逸人さんがやってるんですから」
と笑うと、逸人は俯き、
「……なんの根拠にもなってないが」
と言いながらも、少し笑っていた。
今は暗く、灯りもついていないので、よく見えない店舗の方を見ながら、芽以は訊いた。
「あのー、なんで、パクチー専門店を開こうと思ったんですか?」
苦手なものを克服したいからと言うのは聞いたが、それだけなのだろうかと少し気になっていたからだ。
逸人は夜空を見上げ、白い息を吐きながら黙っていたが、やがて、口を開いた。
「昔――
パクチーを我慢して食べたら、いいことがあったからだ」
「いいことってなんですか?」
と逸人を見上げた瞬間、芽以はアスファルトの
うひゃっ、と間抜けな声を上げたときには、逸人が抱きとめてくれていた。
うわっ。
逸人さんの匂いがするっ。
後ろから逸人に抱きすくめられるような形になった芽以は硬直する。
いや、自分と同じ洗剤の香りなんだがっ。
なんでだろうっ、緊張が頂点にっ、と思いながら、芽以は慌てて逸人から離れた。
「すっ、すみませんっ」
と謝ると、逸人は溜息をつき、
「俺が着るより、お前に着せるべきだな、トレンチ」
と言った。
「は?
レンチですか?」
「……レンチで殴り殺すぞ」
トレンチコートだ、と言う。
「言ったろう。
トレンチコートの肩の飾りは、倒れた仲間を引っ張り起こすためにあるんだ」
素っ気なくそう言い、逸人は先を歩き出す。
仲間か……、と芽以は逸人の小さな頭を見上げ、微笑んだ。
「逸人さん、私のことも仲間だと思ってくださってますか?」
と呼びかけると、逸人は、珍しく、
「……は?」
と少し間抜けな声を上げ、振り返る。
「私のことも、一緒に店をやる仲間だと思ってくださったら、嬉しいですっ」
と芽以は、立ち止まった逸人の白く大きな手を両手で握る。
「私っ、ずっと受付嬢しかやってこなくて。
受け付けることと、愛想を振ることしか出来ませんがっ。
これからも頑張りますのでっ、見捨てないでくださいっ」
と言うと、逸人は、
「いや、他の男に愛想は振らなくていいが……」
と言ったあとで、
「……お前はよくやってると思うよ。
前の会社の仕事もよくやってた」
と言ってきた。
やってた?
「俺はお前の会社に行くことはなかったが、たまに会社の前を通ってたんだ。
嫌な客も居るだろうに、お前は、いつも笑顔でニコニコ応対してた」
「み、見てくださってたんですかっ」
と逸人の手を握る手に力を込めると、
「たまたま視界に入っただけだ。
それから、手を離せ。
不用意に男に愛想を振ったり、手を握ったりするな」
と素っ気なく言ってくる。
……いや、貴方、私の夫ですよね、と思いはしたが、その辺の男友だちより、確かに、よそよそしい感じはしていた。
まあ、押し付けられた嫁だからな、と思う。
店の前まで歩き、鍵を出す逸人の背を見ながら、芽以は思っていた。
でも、私、逸人さんと働くの、楽しいですよ。
厨房に行ったときと、料理を運ぶときは、ちょっと息を止めてますが。
だんだん、息を止められる時間が長くなってきた気がするし。
いつか、きっと、素潜りしたとき、役に立つに違いありません。
パクチーだって、そのうち、劇的に好きになれると信じてますしね。
そう思いながら、
「ほら、入れ」
と逸人が開けてくれたドアをくぐる。
ありがとうございます、と頭を下げた。
ちょっと、看守が囚人を牢へと急かすような口調なのが、気になるが、と思いながらも――。
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