丸ごと捨ててください
店が終わり、芽以たちは芽以の実家に着物を持って帰った。
母に、
「あんたはいいわよー。
着たら、ポイでさー。
あとクリーニングに出したりとか大変なんだからー」
という、いつも通りの愚痴を聞き、
「いや、だから、お金払うし、自分で持ってくよー」
「いいわよー」
という、いつものやりとりのあと、結局、晩ご飯まで食べさせてもらった。
美味しいなあ、普通のご飯。
お店では、美味しそうなものばかり運んでいるが、そういう手の込んだものではなく、家庭のざっくりとしたおかずがなんだか落ち着く。
「あー、やっぱり、美味しいっ。
おかーさんの手抜き料理っ」
と思わず、叫んでしまい、
「……あんたね」
と睨まれた。
いや、褒めているのだが……。
間で翔平の面倒も見ているから、そんなに手をかけているわけではないと思うのだが、いつも美味しい。
「新婚のあんたに教えておいてあげるわ。
主婦業で一番大事なことはね。
如何に、いい感じに手を抜くかってことなのよっ」
翔平を膝に抱えた水澄はそんな義母の話を笑いながら、聞いている。
はあ、まあ、それはそうかもしれませんねーと思う。
毎日のことだもんなーと。
主婦業は、店みたいに定休日もないし。
具合いが悪くても、よっぽどのことがないと休めない。
日々、全体を上手く回すには、手を抜けるところは抜くことも大事なのだろう。
「ま、あんたは抜きっぱなしでしょうけどね。
ねえ、逸人さん」
逸人は、美しい微笑みで流してくれた。
……ありがたい夫だ。
歩いてきてしまったせいで、逸人は父親に盛んに酒を勧められていた。
それを見ている聖は勧めもしないが、止めもしない。
逸人は、今は実家は、圭太の結婚で忙しいし、自分も店を開店したばかりで落ち着かないから、挨拶には今度ゆっくり行くという話をしていた。
その話で初めて、圭太の結婚を知った芽以の実家の面々の顔には、
……それで芽以を押し付けられたのか?
とはっきり書いてあったが、逸人は、これも笑顔でスルーした。
芽以は、白いご飯によく合う、味のしみた厚揚げの煮物を食べながら、
この人、苦手なものを克服するのが好きだから、私と結婚したいって言ってたけど。
実は、圭太に弱みでも握られてるか、すごい恩でもあって、仕方なく、私を引き取ったとか?
と思う。
いや、まあ、普段のあの、兄を兄とも思わぬ態度で、圭太を見下すようにしゃべる様を見ていたら、とてもそうとは思えないのだが……。
「今度はゆっくり食いに行くよー」
手伝いの礼をあれが開店祝いだと断った兄が、帰り際、見送りに出て言う。
「はい、ぜひ。
ご馳走します」
と逸人は言ったが、聖に抱っこされた翔平は、
「パクチーきらーい」
と言っていた。
翔平ー。
私もー、と笑顔で手を振りながら、芽以は思っていた。
店に帰った芽以は、お風呂に湯が溜まるまでの間、逸人に、パクチーの講義を受けていた。
お店に来たお客様に、いろいろ問われることがあるからだ。
厨房で実物を見せながら、逸人は言ってくる。
「パクチーは丸ごと使えて、捨てるところはないと言われている」
パクチーは丸ごと捨ててください。
芽以はメモを取りながら、思っていた。
「根も香りが強く、甘みがあって、いろんな料理に使えるな。
根つきのパクチーを買って、根と茎を少し残しておくと、栽培できて、もう一回食べられる」
いえ、丸ごと捨ててください、と思いながら、メモを取る。
「茎には切り込みを入れると、香りが強くなっていい」
じゃあ、入れないでください。
「ところで、芽以。
お前、メモを取っているが。
読めるのか? 後から」
「十日後くらいまでなら」
と顔を上げ言うと、
「時限爆弾か」
と言われる。
「いや、今、スマホ、電池切れだったんですよ。
いつもはスマホにメモしてるんですけど」
「電池は切らすな。
なにかあったとき、連絡つかなかったらどうする」
はい、と言ったあと、逸人は沈黙した。
なんだろうな、と思ったのだが、逸人は、そのまま、また、パクチーについて、語り出す。
「パクチーは最近、急に日本でも、もてはやされ始めたが、平安時代には、もう日本に入っていた。
薬味や薬として、使われていたんだ」
中国から渡ってきたパクチーは、
ちょっと平安時代に戻って送り返してきたい。
「その後も葉や茎を食べたりとかはなかったようだが。
スパイスとしては使わていたようだな。
さっき、薬として用いられていた話をしたが、パクチーには様々な薬効がある。
まず、食欲増進」
ないです。
「美肌効果もあるな
ビタミンCも豊富で」
大丈夫です。
ミカン食べます。
日本人ですから。
「整腸作用もあるぞ」
大丈夫です。
ゴボウ食べます。
日本人ですから。
「有害な重金属から、放射性物質まで排出してくれるデトックス効果もあるらしい」
うーむ。
「しかし、食べ過ぎには注意だ。
お腹を下したりするからな。
パクチーにはいろんな効果があるから、古代エジプトでも栽培されていて、アラブでは……」
アラブでは……? と顔を上げたとき、
「よし、もう十一時だな」
と逸人は時計を見、いきなり話を打ち切った。
貴方は、高校の古文の先生ですか、と思う。
あの先生、時間が来たら、途中でも、いきなり打ち切っていた。
逸人もそれ以上話すつもりはないようで、さっさとパクチーを冷蔵庫に戻し、
「じゃあ、店内を軽く見回り、風呂に入って寝ろ」
と言ってくる。
はいっ、とご無礼がないよう、声を張り上げ、ホールの方に行くと、油断のない目で店内を見回す。
しかし、なにかこう、朝から晩まで、シンデレラのように働かされているのだが。
働かせているのが、王子様という、この理不尽さ。
まあ、今は戦力にもなっていないだろうから、とりあえず、必死に働こう、と思いながら、芽以は既に清掃し終わっているホール内を見回した。
うん。
点検しろとは言ったんだがな。
ホールの中央に居る芽以は、襲いかかる敵に備えているのかと問いたくなるような前傾姿勢で、周囲を見回していた。
おそらく、ミスのないように、と思う緊張感が芽以にそうさせているのだろうが。
忍者か、と逸人は思う。
一ヶ所ずつテーブルを見て歩き始めた芽以を眺めがら、自分も厨房の点検をする。
今のところ、店は順調に回っている。
――早く店を開きたかった。
すべてにケリをつけるために。
会社に未練がないわけでもなかったから、余計に、と思いながら、芽以を見た。
「……芽以。
テーブルの下は確認しなくていいぞ」
爆弾がないかと探ってでもいるかのように、芽以はテーブルの下に潜っていた。
まあ、おそらく、物が落ちてないか、何処かにシミがついてないかを見ているだけなのだろうが。
何故か、失敗できないっ、という緊迫感が漂っているので、そう見えた。
そんなところまで客は確認しないと思うが。
誰がすると思ってるんだ?
ああ、俺か、と思ったとき、先程の呼びかけに、芽以が、
「はいっ」
はい、教官っ、という言葉が後ろにつきそうな勢いで返事をし、立ち上がってきた。
……俺たちの間に、新婚夫婦らしい艶っぽさなど、何処にもないな、と思いながら、昼間の圭太からの電話を思い出していた。
今、あいつがやって来ても、胸を張れる自信はないな、と思う。
俺と芽以はもう夫婦なんだから、と圭太の存在にビビらず、胸を張れる自信。
さっき、
『電池は切らすな。
なにかあったとき、連絡つかなかったらどうする』
と言ったのは、
いきなり、圭太に遭遇して、襲われたらどうする、と思っていたからだ。
森でクマに出くわすように、角を曲がったら、圭太に出くわすかもしれん。
此処は芽以の実家の近くだ。
ということは、自分の実家の近くでもあるということだ。
なんせ、公立の小中学校で同じ校区だったのだから。
まあいい。
いずれ、店舗は山奥に構えるつもりだし、と思って、気を落ち着ける。
圭太のデカい外車が入って来られないような、細い道の山奥になっ、と思う。
本来、秘境に店を構えようと思っていたのは、別の理由からだったのだが。
今では圭太除けに、店舗を山奥に持っていきたい、と真剣に思っている。
「芽以、此処はもう上がって、風呂に入れ。
冷めるから」
「はいっ、お先に失礼しますっ、教官っ」
……お前、ついに口に出して言ったな、と思いながら、そのことにも気づかぬように、緊張したまま、店から立ち去る芽以の後ろ姿を見送った。
あ~っ。
手足に血が流れる~。
お風呂でのびのび手足を伸ばし、カピバラのように口許まで湯に浸かった芽以は、まったりしていた。
なんだかんだで、いつも先にお風呂いただいて悪いなー。
でも、それって、逸人さんが、より遅くまで働いてるってことだよね。
私も頑張らねばっ、と思いながら、もこもこのパジャマを着て、外に出ると、逸人が居た。
まだコックコート姿のまま、腕組みをして、立っている。
その難しい顔に、どうしましたっ? と身を乗り出して訊きそうになる。
「芽以……」
「は、はいっ?」
逸人はその美しい顔を上げ、こちらを見た。
だが、沈黙している。
なにか、わたくし、ご無礼を? 王子様。
さっき、アラブの、と逸人が言いかけてやめたので、芽以の頭の中では、逸人はアラブの王子様になっていた。
頭にターバンを巻き、宝石をつけている。
いや、それだと、怪しいインド人か? と思っている間も、逸人は沈黙していた。
芽以は、道路工事のおっさんのように首にかけていたタオルを握り締め、逸人を見つめていたが、逸人は、
「いや、やっぱりいい。
おやすみ。
あけましておめでとう」
と言って、去っていってしまった。
芽以は、
「……あ、あけましておめでとうございます?」
何故、今、おめでとう? と思いながらも、挨拶を返し、逸人の後ろ姿を見送った。
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