この店はなんの店ですか……?

 



 この店か、と芽以はその白い壁に緑の看板の店を見上げた。


 うむ。

 番地も合っている、と手にしていた走り書きのメモで確認をする。


 人から、いつも、

「……なんて書いてあるの?」

と問われるほど汚い芽以の字だが。


 実は芽以自身も時間が経つと読めなくなる。


 文字というより、時限爆弾付きの暗号のようなものだ。


 記憶と文字の形を照らし合わせ、ああ、こう書いてあるんだな、と思うだけだからだ。


 よかった。

 メモがメモの意味をなさなくなる前にたどりつけて、と思いながら、芽以は、十日後くらいには読めなくなっているであろう、そのメモ用紙をコートのポケットに突っ込んだ。


 買ったばかりの淡いピンクの可愛らしいコートだ。


 圭太とイブに会うから買ったとか。


 その日に初めて着ようと思って、一度も手を通さずにとっておいたとか。


 そんな記憶は今すぐ抹消したい。


 しかし、何故、店?


 会社はどうしたんだ、と今は灯りのついていない看板を見上げ、芽以は思う。


 最近忙しく、圭太にもあまり会っていなかったので、圭太から逸人の話を聞くこともなかったのだ。


 それにしても、なんの店なんだろうな、と芽以は緑の看板を見上げる。


 パクチー。


 ……気のせいだろうか。


 店の名前の下に、パクチー専門店と書いてあるような。


 私、あれ、嫌いなんだよなーと思いながら、芽以は入り口のマットの上に乗ってみたが、自動ドアは開かなかった。


 じゃ、裏か、と隣の店との狭い隙間を通り、裏手に回る。


 そっと裏口から覗くと、そこに若い修行僧が居た。


 厨房で、まな板を前に目を閉じている、その白い整った顔は、まるで仏の前で祈る若い僧侶のようだったが。


 その僧侶は僧衣ではなく、白いコックコートを着ていた。


 そういや、昔、バーベキューのとき、調理師免許を持ってるとか言ってたっけな。


 いや、バーベキューに調理師免許はいらないんだが……。


 なんと言ったものかな、と思いながら、芽以は、

「こんばんは」

と声をかけつつ、少し中に入った。


 集中を乱されたと怒るかな?


 でも、貴様が呼んだんだが……。


 失礼。


 貴方が呼んだんですが、と思ったとき、ふいに目を開けた逸人が、


「生春巻きにしようと思うんだが」

とまな板の上を見て、言い出した。


 いや、待ってください、と芽以は思う。


 さっき、

「こんばんは」

と店のドアを開けた次のセリフがこれですか?


 だが、真剣な逸人の眼差しに、芽以は白いまな板の上のパクチーを見ながら言った。


「そんなことしたら、パクチーが丸見えじゃないですか」


 生春巻きは好きだ。


 鮮やかな具材が曇りガラスの向こうにほんのり見えるかのような柔らかく優しい色合いも好きだ。


 ああ、海老が入ってるのかー、とか、ほっそいニンジンだなーとか思いながら、中身の味に期待しつつ食べるのも好きだ。


 だが、それがパクチーだと。


 もちっとした透明な生地の向こうに透ける緑。


 目に鮮やかで綺麗だが、見ただけで、そのカメムシにも似た匂いが鼻に蘇ってきて、げんなりしそうだ。


 そこで、ようやくこちらを振り向いた逸人が言ってくる。


「此処はパクチー専門店だ。パクチーを見せなくてどうする」


 いや、ごもっとも……。


 というか、子どもでもこんなに澄んでないよという瞳で、真っ直ぐに見つめてくるのはやめてください。


 くだらぬことを申しまして、どうもすみません、と土下座して謝りたくなってしまうではないですか、と思う。


 年下のはずのこの男に、芽以は何故か昔から敬語だった。


 っていうか、何故、貴方は、そんなに美しいんですかね? と久しぶりに見た逸人に芽以は思う。


 同じような顔なのに、普通に格好いい圭太とは違い、逸人は荘厳な感じに美しいというか、神々しい。


 ありがたいというより、近寄りがたい感じだ。


 そこで、自らの失言にフォローを入れないといけないかな、と思った芽以は、

「まあ、緑を見ていると目が良くなりそうですよね」

と言ってみた。


 逸人は腕を組んだまま、こちらを見、沈黙している。


 ……お気に召さない答えだったようだ。


 申し訳ございません、くだらぬことを申しまして、と芽以は思う。


 ふたたび、土下座したくなるくらいの静かな威圧感があったからだ。


「いやあのー、パクチー好きな人には、いいかもしれないですね」


 私は苦手なんですけど……と苦笑いしながら、後ずさりかけたとき、逸人が言った。


「俺もパクチーは嫌いだ」


 ……今、なんと?


「初めて食べたとき、何故、地球上にこんな食べ物があるのかと驚いた」


 じゃあ、何故? と彼の横にある生きのいいパクチーを見ながら思っていると、

「何故、人類は強制されもしないのに、進んでこれを食べているのかと俺は悩んだ」

と言い出す。


 いやー、でも、そういう食べ物、世界には、結構たくさんありますよね。


 缶を開けたら、その匂いで失神すると言われる塩漬けのニシンの缶詰、シュール・ストレミングとか。


 くさやとか、ドリアンとか。


 その中で、何故、パクチー、と思ったが。


 今、日本で、パクチーブームが起きていることが、彼にとって不思議なのかもしれないと思った。


「俺は自分に理解できないものがあるのが嫌いなんだ」

と逸人は言ってくる。


 はあ、高邁な精神ですね。


 昔から、Mr.パーフェクトと呼ばれていましたもんね。


 ますます私からは遠い人ですが、と芽以が思っていると、

「嫌なものを攻略するのは嫌いじゃないんだ。

 昔は算数が嫌いだった」

と逸人は言う。


 えーと。

 確か、数学は模試で全国一位になったことがありますよね?


「だから、圭太から電話があったとき、お前と結婚してもいいかなと思ったんだ」

と逸人は言い出した。


「俺は昔から、お前が理解できないんだ」


 ……あのー。

 常々思ってはいたんですけど。


 本当に女心のわからぬ人ですね。


 今のその話の流れで、


 そうなの? 嬉しいっ。

 私、貴方と結婚するわっ、なんて女が居るとでも思っているのですか。


 だが、こちらの微妙な表情に気づいているのかいないのか。


 いつものように、マイペースに逸人は言ってくる。


甘城あまぎの娘との結婚が決まり、正式に圭太が会社を継ぐことになったから。


 俺が会社に残ると邪魔だろうと思い、辞めたんだ」


 相変わらず、潔いな。


 そのまま圭太を支えるという生き方もあっただろうが。


 お坊ちゃん育ちの圭太に不満を持つやからが、自分を担ぎ出そうとしたときのために、自ら会社を去ったのだろう。


 いや、この人もまたお坊ちゃん育ちのはずなんだが、なにかいつも、辛辣だからな、と思っていると、


「それで、俺は、此処にパクチー専門店を出すことにした」

と逸人は言い出す。


「結婚したら、もちろん、お前にも此処で働いてもらうぞ」


 すみません。

 イブの夜に、圭太に告白されて、フラれて。


 逸人さんと結婚して、パクチー専門店で働かされる、までの流れがちょっと理解できないんですが、と思いながら、芽以は言った。


「すみません。

 もう一回、言ってください」


「パクチー専門店を開くことにした。

 俺と結婚して、お前にも此処で働いてもらう」


 なんか、結婚じゃなくて、『働いてもらう』が主眼のように聞こえるのは気のせいですか? と思いながら、芽以はもう一度、言ってみた。


 聞き違いだと思いたかったからだ。


「すみません。

 もう一回――」


「帰れ」

と言われた。


 裏口を指差される。


 すみません。

 せめて帰りくらい玄関から出させてください……。





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