二十四時間、タダ働き




 遅い時間なので、逸人がホットミルクを出してくれ、芽以は厨房にある木の丸椅子に腰掛け、それをいただいていた。


「来週、パクチー専門店を此処にオープンするつもりだ」


 正面に腕組みして立つ逸人はそんなことを言ってきた。


 だから……、嫌いなんですよね? パクチー、と芽以は思う。


「既に、店の看板を見て、問い合わせも何件か来ている。

 手応えは悪くない」


 いや、だから、嫌いなんですよね? パクチーと、心の中で繰り返している芽以には、おかまいなしに逸人は言ってきた。


「そして、軌道に乗ったら、人里離れた場所に店を移そうかと思ってるんだ」


 待ってください、なにを言ってるんですか。


 流行りとは言え、ただでさえ、需要の少なそうなパクチー専門店を山奥に持ってってどうしようというんですか。


 サルがパクチー食べてくれるんですか。


 クマさんがパクチー食べてくれるんですか。


 クマさん、流行りなんて気にしないので、素直にゲーしますよ。


 そんなことを考えている芽以を、逸人は、芽以がパクチーを噛んだときのような顔で見下ろしている。


 嫌いなパクチーに、理解できない妻。


 そんなもので、自分の人生を固めて、貴方は何処へ向かおうとしているのですか。


 ホットミルクで手を温めながら、おのれに厳しいにもほどがあるな、と芽以が思っていると、


「なにか意見はあるか?」

と教師のような口調で逸人は訊いてきた。


 いや、ありすぎて、なにから言ったらいいのかわからないんですが……と思いながら、黙っていたが、視線が痛いので、とりあえず、口を開いてみた。


「あのー、看板見たんですけど。

 お店の名前、なんて言うんですか?」


 沈黙があった。


 この莫迦め、とその目に書いてある。


「phakchi《パクチー》だ」 


 読めなかったんだろう、とやはり、その目に書いてあった。


 ええ、チラとしか見なかったので、パックン、と呼んでしまいました。


 冷静に見たら、何処も、パックンではなかったのですが。


 人間って、そういうときってあるではないですか? ねえ……。


 すると、逸人が側にあるパクチーに触れながら、

「coriander《コリアンダー》でもいいかと思ったんだが」

と言うので、


「なんで、コリアンダーなんですか?」

と問うと、


「……コリアンダーとパクチーは同じ植物だ。

 地域に寄って、呼び名が違うだけだ。


 香菜シャンツァイとも言うだろ」

と言ってくる。


「香菜と一緒というのは知っていましたが。

 えっ、でも、コリアンダーは特に嫌いではないですよ?」


 同じものなんですか? と問うと、

「本来は呼び名が違うだけなんだが、日本では、乾燥させて、香辛料として使うときは、コリアンダー。

 野菜として使うときは、パクチーなことが多いな」

と教えてくれる。


「お前のように、パクチーとコリアンダーが一緒だと知らない人間も居るから、わかりやすいように、phakchiにしたんだが」

と逸人は言うが、


 ……いや、そんな人はきっと、パクチー食べに来ませんよ、と芽以は思っていた。


 流行りに乗って食べにきただけの人は、きっと、ゲーしますよ、と思っていると、逸人は、

「それにしても、よく迷わず来れたな」

と子どもに言うように芽以に言ってくる。


 幼なじみなので、芽以が方向音痴なことはよくご存知だ。


「あ、はい。

 バス停の目の前だったので。


 メモもばっちり書いときましたし」

とポケットをがそごそやって取り出したメモを笑顔でかかげると、


「芽以……。

 なんて書いてあるんだ」

と逸人は言ってきた。


 目を細めているので、おや? この人、目が悪かったろうか、と思ったのだが。


 逸人は渋い顔で、

「解読しろ」

と言ってきた。


 どうやら、単に、見ても理解不能なだけのようだった。


 私はこれでも読めるんですよ。


 ……あと、一、二週間くらいは、と思っていると、逸人は、


「お前、店の黒板とか書かなくていいからな」

とこの、まだ働いてもいない店員に向かい、駄目出ししてくる。


「そうだ。

 お前の居る支社、他の支社と合併するんだってな」


 ふいにそう言われ、芽以は、ぎくりとする。


 何故知っている……と思ったからだ。


 実は、このまま会社に残っていたら、他県に転勤になってしまうので、悩んでいたのだ。


 固まっている芽以に向かい、逸人は、

「早期退職、優遇されるんだろ。


 嫁はいい。

 とりあえず、来い」

と言ってきた。


 ん? と思う。


「……あのー。

 もしや、結婚うんぬんの話ではなく、とりあえず、一緒に働いてくれる店員さんが欲しいとか?」

と言うと、逸人は黙った。


 幾らこの人が有能でも、ひとりで、このサイズの店は回せまい。


 そして、この性格。


 店員を雇うと言っても、なかなか合う人を探すのは難しいだろうと思われた。


 その点、自分なら、気心が知れている。


 少々暴君にふるまっても、はいはい、とこちらがきくこともわかっているだろうし。


 なるほど、そういうことか、と芽以が勝手に解釈していると、逸人は、

「とりあえず、結婚するまでは、住み込み店員として、お前を雇おう」

と言い出した。


「店員になるのなら、お前にも金を払わねばならんな。

 こういう店の店員の月収って幾らくらいなんだろうな」

と壁に貼られた素敵な外国の風景写真のついたカレンダーを見ながら、逸人は言った。


「住み込みだと、百万くらいか?」


 ……店の経営の前に、貴方の金銭感覚は大丈夫ですか?


 仕事の金の計算は出来ていたはずなのに、何故だ……と思っていると、


「だって、住み込んでもらうんだから、普通より高いんだろう?」

と言ってくる。


「いや~、家賃がいらないんだから、安くていいんじゃないですかね?」

と言うと、


「二十四時間、働かされるのにか?」

と逸人は真顔で言ってくる。


「……二十四時間、働かせるつもりだったんですか?」


 そう芽以は訊き返した。


 っていうか、今、結婚するまでは給金を払おうって言いました?


 じゃあ、結婚したら、無給?


 無給で無休?


 いや、よく考えたら、夫婦だから、給与が出なくても、特に問題はなかったのだが。


 二十四時間、タダで働かされるっ。


 しかも、この、ひとつのミスも許さなさそうな人の下でっ、というのがインパクトが強く、芽以は思わず、


「じゃあ、結婚しませんっ」

と言ってしまっていた。







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