手袋

12月8日(金)午前7時05分、正親は目を覚ました。びくんと動いた左腕が、枕元に開いたままだった真新しい参考書をはじいて床に落とす。


「やべっ!!!」


思わず声が出た。寝坊だ。

日頃は家で深夜まで勉強することのない正親だが、昨夜は、ざっくりのつもりで始めた参考書への付箋付けについついのめり込み、すっかり遅くなって寝落ちしたようだ。こと学習に関する作業となると、妥協できない性質なのだ。


正親は、身支度もそこそこに駅へと走った。

推薦枠は邪道と考えている正親にとって、遅刻などスマホの指紋ほどにも気にならない。これまでだって何度も遅刻している。だが今朝は、かつてないほどに走った。何ゆえそれほど焦り、急ぐのか、自分自身、問いただす暇もなかった。


正親はホームの階段を駆け上がった。

発車のベルが聞こえていた。

既に、いつもより3本遅い電車だった。

この電車を逃すと、遅刻は決定的だ。




人のいなくなったホームにぽつんと立つ正親は、マスクをつけていない口から、ハアハアと荒い息を吐き、乱暴に巻いたマフラーから覗いた首筋に汗をかいていた。

次の列車がホームに入ってくる頃、ようやく呼吸の整った正親は、せっかく付箋を貼った参考書を忘れてきたことに気づいた。




石蔵寺駅のホームには、数人の生徒が既に諦めた様子でたらたらと歩いていた。正親も、いつもよりややゆっくりした歩調で歩きながら、いつもの通りポケットから取り出した手袋をはめた。


(え……)


正親はメガネを押し上げた。


改札口にあかりが立っていた。

正親を見ると、小さく跳ねるようにして手招きする。


戸惑いながら、急ぎ足に近づいた正親に


「走るよ。まだ間に合うから」


そう言って、有無を言わさず正親の手を取り走り出した。


商店街に入ると、まだ開店していないスーパーマーケットの自動扉を手で開き、あかりは中に入っていく。


「おはよーございまーす」

「おー、久しぶりだな。がんばれよー」


商品を陳列している店員と挨拶を交わし、搬入口から外に出る。

住宅地を抜け、通りを渡り、石蔵寺の墓地横の狭い砂利道を駆け抜けた。

あかりは、正親の手をぐいぐい引いて走っていく。

正親は、ヘロヘロになりながらあかりのあとに続いて走った。


(いや、別に遅刻でかまわないのだが)


そう思いながら。


たどり着いたのは、正門ではなく、生徒の使用が禁じられている西側の通用門だった。

『生徒諸君の出入りを禁ず』の貼り紙からほんの1メートルのところにある金網の切れ目を、あかりがぺろんと捲った。


「ほら、早く!」


膝に手をついてゼーゼー息をする正親をあかりが促す。


昇降口が見えたとき、始業のチャイムが鳴り始めた。


(もう、吐きそう)


チャイムを聞きながら、正親は思った。

ここまで走ったのだから間に合わなければ割りに合わない。しかし脚が言うことを聞かない。

あかりは、正親の上履きを取ると、崩れそうな正親の手をぐいと引っ張り、立入禁止の立看板を無視して、特進組の教室へと進む。そして、教室の扉をがらりと勢いよく開く。

クラス全員が正親とあかりを振り向く。

あかりは、正親と正親の上履きを教室の中に放り込んで、扉を閉めた。

チャイムが鳴り終わった。


「こらー、60アンダー!!」

教師の声に

「はーい、わかってまーす」

と廊下から返して、あかりは立ち去った。


正親は、生まれたての小鹿の如く膝をガクガク震わせながら、上履きを拾い、這うようにして自分の席に向かった。


その様子を同じクラスの沖田誠太郎がじっと見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る