絶対零度
放課後にはその日もあかりが、正門の柱に寄りかかるようにして、正親を待っていた。
午後4時27分、ドーナツ店の中、通りに面して大きくとられた窓ガラスから、遠く離れて奥まった、トイレに近いテーブル席で、ふたりは向かい合った。
あかりの前にはアイスティーだけ、正親の前には、砂糖まみれのドーナツとたっぷりチョコのかかったドーナツ、ドリンクはメロンソーダだ。
「おもしろい定期入れだ。ちょっと見せてほしい」
正親は言った。
「うん、いいよ!」
あかりは、自分のスクールバッグに下がっているそれを外して、正親に手渡した。
ポンコツの先祖を助けるために未来からやって来たという狸型のロボットが、さまざまな課題をクリアするために投入する、さほど役には立たないものの夢だけは満載のツール、中でも代表格の一つ、どこまででも扉。その形状を模した定期入れだった。
扉部分を開くとIC定期が入っている。
正親は、数回、開け閉めしてみる。
(自宅最寄り駅は月ノ坂下か……。ますます謎だ)
「おもしろいな。とても」
正親は、それだけ言って、その定期入れをあかりに返した。
「正親くんだったら、どこまででも扉とか作れちゃいそうだよね。頭、いいもん」
定期入れを受け取るあかりが言う。
魔法レベルに魅惑の笑顔だ。
正親の鼻の穴がぶんと膨らむ。
「まあ、物理は得意ではある」
「えー、これって物理なんだ!すごーい!化学で瀕死の私には全然だよ。あーもう、化学どうしよー」
ガックリと項垂れると、絹のような髪がはらりさらさらとあかりの顔にかかる。その髪をふわりとかきあげ、あかりは思いついたように言う。
「ねえ!正親くんって化学も得意でしょ?」
「いや、化学はあまり」
「え……うそ……」
(100点取ってたじゃねぇかっ!!)
ーーーーー
中間テストのすぐ後のことだった。
廊下の壁には、各教科のトップ10がそれぞれ発表されていた。『化学1位 鈴木正親100点』と確かにあった。2位の沖田何とかは60点台、正にダントツである。
(100点て。小学生じゃあるまいし。まじ、ぱない)
そう思っているあかりの前で、化学科教諭の藤野よう子が、トイレから出てきた正親を呼びとめた。
「鈴木ー、ラスボス問題、よく解けたねー。私、初見で解けなかったんだよー」
「たまたまですよ」
「もう鈴木に授業やってもらおうかなぁ」
勘弁してくださいよとクールに立ち去った正親のすかした態度も気にはなったが、それよりもっと、藤野の、なんていうか、甘えるような、媚びるような、少し鼻にかかった声が耳に残った。
(そういえば藤野って)
白衣の中はいつも胸の開いたものを着ているなと、あかりは思った。
その時に思ったのはそれだけのことだった。
でも、補習受ければいいやと投げていたその補習が19日だと知って、緊急回避策として正親が思い浮かんだとき、正親なら藤野から事前に問題なり何なり聞き出せるんじゃないかと勘繰った。
投げていた分、授業はろくに聞いていなかったし、ノートもプリントも揃っていなかった。それだけなら別に特進の生徒でなくてもよかったのではあるが、どうせなら、1番のヤツにしよう。そう思った。
あかり本人の認識の外で作用したもの、それは自信、或いは傲り。
ーーーーー
化学があまり得意でないことは事実だ。
口を半開きにしているあかりを見て、正親は考える。
(好きではないと言うべきだったか。化学が、ではなく、正しくは藤野が)
「だが藤野はわかりやすい。授業がではなく、出題傾向が。配点も含めて、藤野が出題するであろう箇所がわかる。それだけのことだ。ところで19日は空いているか?」
正親は一気に言った。思いきった。テーブルの下では脚が震えていた。
あかりは目を輝かせた。
「それ、教えて!」
「あ?」
「藤野が試験に出す問題、教えて!」
「問題……。あいにく、具体的な設問や数値までわかるわけではなくてだな」
「だいたいでいいから」
「だいたいって……」
「問題と解答があれば、私だって解き方くらいちゃんと勉強するよ」
「だから。どの部分の何を聞いてくるかがわかるだけで、それだけを教えたところで、基礎のない君には解けない。解けなければ意味がない」
すーーーっ。
(やっぱ、こいつ、スカシ野郎だわ。意外と話せるなんて思っちゃったけど、全然だわ)
「とにかく化学基礎なら心配無用だ。3時間もあれば攻略できる。ところで19日は」
「ムリ、用事ある」
被せてきた。
そして正親がさらに何か言う前に
「一日中」
「ずっと」
「用事あるから」
あかり、絶対零度。
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