失明
12月7日(木)この日の朝も、あかりは正親と同じ電車に乗り、学校までの道程をともに歩いた。
同級生の噂話、よく行くコンビニのアルバイト店員の話、時折物まねを挟むあかりの話に、正親はよく笑った。
正親が中3の夏までピアノを習っていたと話すと、あかりは正親の顔を振り向いて眩しいほどの笑顔を耀かせた。
(やめてくれ。失明する)
バレエかピアノかの二択でバレエを選んでしまったことを後悔していると話すあかりの柔らかそうな髪が、朝陽を受けて明るく光を放っている。
「きれいな髪だ」
思わず口をついて出た言葉に、正親は恥ずかしくなる。
「ありがとう」
実にさらりとあかりは言った。
それから、正親のごわごわの頭髪を見て
「それはそれでいい感じ。逆に。うん」
と正親の頑固そうな寝癖を褒めた。
ふいに訪れる妙な沈黙。
「もうすぐ期末かあ。嫌だなあ」
来週から始まる期末試験のことである。
「正親くんは、頭いいからそれほど嫌でもないかぁ」
「試験そのものは少々めんどくさいが、早く帰れるのは悪くない」
「よゆーーー」
あかりはそう言って笑ってから
「私、化学がマジでヤバいんだよね」
と少しばかり真面目なトーンで言った。
化学が苦手なのかと聞くと、苦手とかそういうことではなくて、ヤバいのだと言う。
定期試験は年間5回。その通年平均が40点を下回ると赤点として、進級できない。つまり5回の合計が200点で及第のところ、あかりの過去3回の合計は51点。進級にはあと149点が必要なわけで、できれば今回75点は取っておきたい。3学期に100点を取るというありえない仮定をしてもなお今回49点が必要なのだ。だがしかし、まったくわからない、と。
51点の内訳は?と聞くと
「1学期の中間は31、期末11、前回8」
(8点……。もはや、どれが正解だったのかが気になる)
しかも計算が間違っている。合計はジャスト50。従って今回のマストは50点。だが順当に点数が下がっているのは、まあ悪くない傾向だと正親は思う。少なくとも基礎中の基礎の3割弱は理解できているのだから、中学化学にまで遡る必要はないだろう。希望的観測かもしれないが。
「ああもーどうしよ」
「補講があるだろう?」
「それはまあ、そうなんだけど……」
英稜高校は進学校である。かけ算九九が言えて、自分の名前をローマ字で書ければOKという学校では断じてない。大学受験に特化している。各人の志望校によって、使用せずに受験できる科目の赤点については、救済策が用意されている。9時間補習。朝8時から昼食を挟んで午後5時まで、施錠した体育館や小講堂に閉じ込めて補習授業を行い、後日、内容に沿ったレポートを提出すれば最大40点が加算される。文理を問わず受験必須となる英語以外にはすべからく用意されている。同一日程の科目も存在するため、全ての補講に参加することは物理的に不可能なので、全教科赤点なら進級は諦めざるを得ないが、それはまあ当然というものだ。
この日の帰りも、正門にあかりの姿があった。さも当然のようにして、正親の隣を歩くあかりの歩みは朝よりもやや緩慢で、歩調を合わせた正親は、書店に立ち寄る予定を塾帰りに変更する羽目になった。
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そして夜、塾近くの大型書店。書籍以外にもシャープ芯、オレンジボールペン、青マッキーなど、受験生向け文具の品揃えが、この辺りではピカイチである。
正親は、勝手のわかっている店内をサクサク歩き、参考書一冊と大小の付箋紙、他にもあれこれ手に取ってレジへと向かった。
レジのそばには、クリスマス向けと思われるかわいらしい小物が並んでいた。
正親はその中の一つを手に取った。
あかりが好きだと言っていたアニメキャラのキーチェーン。ディテールはそのままにブチの猫になっている。えげつないほどのダイナマイトボディ、の猫。人面ではない猫面が何とも言えない表情で、ピンクに染まった頬が気持ち悪くていい。
(自分で使うんだし……。いや、欲しいと言われれば、まあ、あげないこともないが)
正親はそれをレジに差し出した。
レジのお兄さんは、何も言わず、何も聞かず、黙ってリボンをかけた。微笑みながら、とても上手に。
小さな紙袋を提げて駅に向かう正親の頬を、昭和の匂いのする電飾が、赤く照らした。
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