第2話
携帯のアラームが鳴り響き、現実へと意識が戻って来る。
なんか良い思いをしている夢を見ていた気がするが、起きてしまえば忘れてしまった。
携帯を手に取り液晶を見ると時刻は六時ちょうど。いつもより一時間も早いので瞼がまだ重たい。二度寝したいという欲求に抗うために体を伸ばし、名残惜しみつつベッドから降りる。
カーテンを開けて外を見る。まだ陽が昇り始めたばかりで辺りはまだ暗い。まるで俺の心を表しているようだ。
早起きしてすることが良いことならまだしも、悪い事だと気分は張れない。それでも俺がやらないと自体は解決しないと思う。
やらなければいけないことって理解もしているし決心も出来ている。
支度を済ませて家から出ると外は少し明るくなっていて、雲一つない空だった。
…………我ながら女々しいな。
結局友達の為だと思っても、躊躇いがあるのだろうな。それじゃあ昨日、辻さんの頼みを断った意味が無い。
俺にはもう選択肢も時間も無いんだ。
「よし!」
顔を両手で叩いて気合を入れる。
俺は今日、最悪最低野郎になる……。
※
教室に到着すると騒ぎが起こっていた。クラスメートが騒いでいたとしても友達の少ない俺には関係ないことだろう。
騒ぎに気を留めることなく自席へと向かう。
席に着いて隣を見るが哲郎はいない。遅刻ギリギリに到着したので部活も終わっているはず。
荷物を片付けながら教室を見渡してみると哲郎は険しい顔で朝比奈さんと何やら話していた。哲郎と話している朝比奈さんは困り顔。
俺がどうしたんだい? なんて話に加わる訳にもいかないので、突っ伏そうと思っていると、近くにいるクラスメート達の会話が聞こえて来た。皆、口々に何やら噂しているようだ。
「何があったんだ?」
「ああ、お前は今来たのか? 朝来たらボロボロの教科書が机に置いてあったんだって」
「え、朝比奈さんの机の上? ってことは朝比奈さんの教科書がボロボロに?」
「そうらしい。俺も見た訳じゃないんだけどさ。高校にもなってイジメなんてな」
クラスメート達の会話から察するに、この騒ぎの中心は朝比奈さんらしい。
辻さんも朝比奈さんの元にいて険しい表情を浮かべているが、哲郎と揉めている様子はないようで安心した。
哲郎が動いているなら犯人は見付かるだろうし、朝日奈さんが本当にイジメに遭ったことで哲郎に対する印象も変わるだろう。
今までの哲郎の行動が嫌がらせだったら、あんなに怒る訳がないからな。
あんなに怒っている哲郎を見るのは久しぶりだ。きっと被害者が朝比奈さんじゃなくても、今と同じように哲郎は怒るだろう。哲郎は人一倍正義感が強い。隠れて嫌がらせをするなんてゲスなことは許せないだろう。直接やれば良いってことでもないか。
これをきっかけに哲郎の本当の姿を知れば朝比奈さん達の印象も良くなるだろう。
俺は安堵と寝不足から突っ伏して眠ろうと思ったが、予鈴がそれをさせなかった。
そういえば遅刻ギリギリに来たんだったな。
予鈴が鳴ったことで哲郎を含むクラスメートは自席へと戻って行く。
「ああ、雄介来てたか。気付かなかったな」
「今さっき来たばかりだからな」
「そうか。じゃあ雄介も詳しく知らないか。噂で耳にしていると思うが、朝日奈さんの教科書がボロボロにされていたんだ」
「そうらしいね」
「何か聞いたりしたら知らせてくれ」
哲郎はいつもに増して表情が硬い。そんな顔をしていたら朝比奈さんも怖がるぞ。
そんなことを気にしていられないほど、この件に対して怒っているんだろうな。
「分かった。とは言っても哲郎くらいしか友達のいない俺が得られる情報なんて限られていると思うぞ」
「まあまあ、そう悲しいことを言うな。俺は俺で色々と情報を集めてみる」
「因みに哲郎が聞いた情報ってのは?」
「まだ俺も詳しくは分かってないんだ。朝比奈さんの話しでは昨日は何もされていなかったらしい。そうなると犯行は今朝に行われたはずだ」
「それだけで犯人は結構絞られる気がするな」
「俺は部活に参加していたから、今朝のことは分からないんだ。クラスの人が何か知っていそうだったら雄介からも聞いてみてくれ」
「あー、まあ出来るだけ範囲でやってみるよ」
気のない返事を返す。
友達の少ない俺にどうしろと言うんだ。
「よろしく頼むな」
そんな俺を気にも留めず哲郎は頭を下げていた。
だが、俺に出来ることはほぼ無いに等しい。今朝の教室を見るにクラスメートも噂程度の情報しか持ち合わせていないと思う。
もし犯行を目撃している生徒がいたら、既に哲郎の耳に入っているだろう。
それに俺が聞いて回るよりも哲郎が動いた方がクラスメートも話しやすいはず。普段口も利いていない俺が聞いて回っても好奇心で噂を集めているようにしか見えないだろう。
朝の段階でここまで情報が整理されているし、後は哲郎自身が聞き込みをすれば犯人は直ぐに見付かるだろう。
そんな状況で俺の出番があるとは思えない。
中学の頃にイジメが起きた時も独りで調査して、その日の内に犯人を見付けていたからな。
見た目の怖さに加えてスポーツマンの身体つきにイジメっ子も直ぐに反省していた。今回の犯人も怒れる哲郎にたっぷりと絞られるだろう。
「おーし、ホームルーム始めるぞー」
少しして担任が教室にやって来た。連絡事項などを簡単に説明しているが、頭には入って来なかった。ただ喋っている担任をボーっと眺めている。
あれ、そういえば……。
哲郎の様子は先程の会話で分かっているが、今回の件で怒っているであろうもう一人の存在が気になった。
そっと視線を気になるもう一人の方へと目線だけ移すと、笑顔の辻さんが目に飛び込んで来た。
怖っ! なんでこっち見てんの⁉
昨日、笑顔で水をぶっ掛けられたことを思い出し、気付かれないように視線を外す。
あの笑顔の裏にどんな感情が秘められているのか想像も出来ない。
朝比奈さんが酷い目に遭って、俺を笑顔で見ている……?
止めよう。考えるだけで恐怖心が増して行く。
俺が見たことが気付かれていませんように、と願いながら突っ伏して眠りついた。
「おーい、いつまで寝てるんだ」
俺を見て苦笑いを浮かべる哲郎に肩を叩かれ目を覚ます。
「まだ眠いな……」
欠伸をしながら時計を見ると十二時になったところだった。
どうやら朝から今までずっと眠ってしまったようだ。
「夜更かしでもしたか? 今日は朝からずっと眠そうだな」
「え? ああ、そうそう。昨日は色々とやることがあってな」
寝すぎて凝り固まった体を解す様に伸ばす。
朝からぶっ通しで寝たのは流石に初めての経験だ。
「昼はどうするんだ? 食わないか?」
「いや、食べる。いっぱい寝たら腹減った」
普段、起きて授業を聞いている時よりも腹ペコだった。
頭を使うよりも寝た方がエネルギーを消費するらしい。普段、どれだけ頭を使ってないんだ……。
「子供か。あー、俺から聞いておいて悪いんだが、今日は一人で食べてくれるか?」
「うん? ああ、そうか。今朝の件の聞き込みか」
「そうなんだ。直接聞いた方が確実だし、今からちょっと行って来る」
「大変だな。まあ、頑張ってくれ」
おう、と手を上げて哲郎はそのまま教室を後にした。
一人の昼休みは高校に入って初めてかもしれない。いつも哲郎と一緒に昼食を取っていたからなあ。俺が学校を休むことはあっても、哲郎が休むことは無かった。
教室には俺とは対照的にクラスメート達が各々食事をしながら楽しそうに笑っている。なんだかここに居る資格がないような気がして、何も持たずに教室を後にしていた。そして気が付くと屋上に来ていた。
屋上は解放されていて出入は自由だがやって来る人は少ない。その理由としては屋上で昼食を取る場合、地べたに座ることになる。レジャーシートなんてものを持って屋上に来る生徒は稀だ。だから屋上に来る生徒は地べたに座ることを気にしない男子が多くなる。
また中庭にはベンチがあるため、外で昼食を取りたい生徒が中には集中するのも理由の一つだろう。
そんな屋上に独りでやって来ると、寂しさも一入である。
黄昏上等なこの状況なので普段はあまり景色なんて見ることはないが、今日はゆっくりと眺めたい気分だった。
花のない桜は緑豊かで、夏の気配を感じさせる。風はまだ少し肌寒いが、長袖には心地良い。見上げれば今朝見た時と同じように雲一つない空に暖かい日差し。朝からずっと寝ていたが、再び眠気に襲われる。
食欲も無いし、このまま寝て昼休みを過ごそう。そう思って目を閉じると扉が開く音が聞こえて来た。
哲郎が用事を済ませて来たのかと思っていたが、予期せぬ人物から声を掛けられた。
「一人で寂しそうね」
「んん?」
聞き慣れない声、そして女子の声に驚いた。
ゆっくりと薄目を開けて声の主を確認する。
……辻さんだ……。
上手にスカートを折りたたみ、俺の側に座っている。
本日で三度目となる会話が二人きりで行われようとしていることで俺の中に緊張が走る。
この人は笑顔で水をぶっ掛ける人間だ。機嫌を損ねると何をしでかすか分からない。
警戒しながら辻さんの出方をうかがうことにしよう。
だが辻さんは何も言わずにこちらを見ている。
これは俺から声を掛けないといけない感じか?
「えっと、俺に何か用かな?」
当たり障りの無い言葉で様子をうかがう。
昨日の今日で俺としても気まずいのだが、とりあえず用件を聞いてみよう。
「用がなければ話しかけてはいけないのかしら?」
おっと、これは失言だったか? いや、俺達の関係なら普通の対応のはず。
俺が勘違いじゃないか、と聞いた時も『嘘をついてるって言うの?』なんて言ってたし、被害妄想が激しいのかもしれない。
爆弾処理班のように慎重に対応に当たる。
「そんなことないよ。でも屋上まで来るなんて用があるのかなって思っただけだよ」
内心は大慌てだが、それを隠しつつ答える。
「ここは滝口君のものなのかしら?」
「いや、違うけど……」
「そうよね。ここは誰にでも訪れる権利があるの。全く自意識過剰ね。アタシは屋上が好きだから来ただけで、滝口君が居たのは偶然よ」
「あ、ああ、そうなんだ」
……自意識過剰って酷くないか?
いや、だって屋上が好きだから来たっていうの絶対に嘘じゃん!
ここに来る物好きは俺と哲郎、それに少数の生徒だけだ。その少数の生徒の中に辻さんの姿を見ことはない。
友達が少ない俺でもクラスメートの顔くらいは分かる。……顔と名前は一致しないけどさ!
雨の日は流石に俺達も屋上に行くことはないが、まさか雨の日限定で来ていたということはないだろう。もしそうだとしても今日は雲一つ無い晴天だしな。出現条件とは一致しない。
おそらく辻さんは俺に用があって屋上までやって来たのだが、それを悟られたくないのだろう。
要件は何? という態度では話しを進めてくれないようだな。放っておけば勝手に話し始めるか、と思い放っておくことにする。
…………気まずい。
最初から居たのは俺なのに、何故こんなに気まずい思いをしなくてはならないのか。
ここは俺の居場所だぞ!
「あー、辻さんの言う通り屋上はいいよね。人も少なくて静かだし」
不満を抱きつつも、今日は俺の方が沈黙に耐えられなくなり、話し掛けてしまった。
このまま気まずいままでいるのは耐えられん。
ファミレスではパフェがあったから耐えられたけど、今は暇を潰す術が無い。
こんないい風が吹いているのに、こんな気まずい空気は嫌だよ、俺!
「その話はもうおしまい」
「あ、はい」
なんだよ! 辻さんの嘘に乗っかってあげたのに! 自由人ですね!
「そんなことより、いいのかしら? もう直ぐ授業が始まるわよ?」
「ええ、マジで⁉」
慌てて体を起こしポケットから携帯を取り出す。横になったのは一瞬だと思ったが、いつの間にか眠っていたのか。
液晶に表示された時間を見ると、まだ三十分以上は残されていた。
どういうことだ、と怪訝な目線を辻さんに送る。
「嘘よ」
おい、嘘かよ!
握っている携帯を地面に叩きつけそうになるが、その衝動をぐっと抑え、静かにポケットに戻す。
俺は冷静……。俺は冷静……。
…………よし落ち着いて来た。
俺に用があるのに無いと言ったり、授業が始まるという嘘を吐いたりと、一体何がしたいんだ?
もしかして、この人は俺をからかいたいだけなのでは? という疑問が浮かびつつあった。
「人が話しているのに横になったままだからイラっとしただけよ」
ああ、なるほど。
確かに辻さんが話しかけて来ても、俺はお構いなし横になっていた。
でもそれは用は無いとか言うので、こちらも合わせていただけで、ちゃんと話をするとなれば起きたのに。
そう口にしたかったが、これ以上辻さんに反論するのは危険だと判断した。
もう既に多少イライラさせているらしいからな。
俺の顔面を踏む、なんてことをしないとも限らない。
ここは俺が大人になって謝罪でもしておこう。
「あ、ああ。ごめんごめん。ちょっと寝不足で」
体を起こして頭を下げる。
大人な対応だが、何故俺がこんなことをしなくてはいけないんだ、という不満も生まれて来る。
「そうなの。まあいいわ、許してあげる。アタシは可愛くて心が広いのよ」
…………ツッコミ所か? いや、もし本気で言っていたら、それこそ屋上から突き落とされかねない。
黙って軽い笑顔を浮かべておくだけにした。
ま、まあ、慈悲深い辻さんに許して頂いたので一安心。釈然としない気持ちはもちろんあるが、まともに話しても疲れるし、何より危険だ。
俺から話題を振っても適当にあしらわれるので、座ったまま辻さんの言葉を待つ。
しかし辻さん黙ったまま景色を眺めている。
…………あれ、なんで俺は起こされたんだ?
寝ながら話すのが気に入らないって言っていたのに、起きたら起きたで何も話さないのかよ!
ますます辻さんの考えが分からなくなって来た。
こっちから話題を振らないと話す気はないのか? なんだって俺がこんなに気を使う羽目に遭っているんだ。
とりあえず昼休みの間の辛抱だ。穏便に切り抜けることだけど考えよう……。
「あー、えっと。そういえば朝日奈さんの側についてなくていいの?」
我ながら良い話題だ。
これなら適当に流されることも無いだろう。
「響子? それなら大丈夫よ。さっきナイト様が戻って来ていたわ」
「ナイト様?」
朝比奈さんを守る親衛隊のようなものが出来たのだろうか。
「あら、知らない? 上田君のことよ?」
いつの間に哲郎がナイトになったんだ……。
「いやいや。そのナイト様が近付くことを心良く思ってなかったんじゃないのか?」
「ナイト様なら歓迎よ? 継母じゃないならね」
「継母? ……あー、シンデレラの意地悪な継母ことか? えーっと、つまりイジメから守ってくれるなら許す的な意味? それならナイトじゃなくて王子とかの方が良くない?」
直ぐに忘れることを鳥さんとか言ったり、辻さんの例えは分かりにくいんだよなあ。
だが、辻さんは俺の言葉を聞いて少し驚いていた。
「滝口君の頭は柔らかいのね。響子に言ってもポカンとしていることが多いのよ。あの子頭がいいのに頭は固いのよね」
なんだろう。褒められているのに嬉しくない。
辻さんと変に波長が合うのだろうか。……心外だ。
「いやいや、俺もギリギリだから」
というか同じ思考回路だと思われたくない。
「そんなことは無いわ。例えが分かった上にアドバイスまでくれるなんて頭が柔らかい証拠よ」
俺が否定したいのは頭の柔らかさではない。
この人、自分の走っているレールでしか会話してくれないなあ。
「あーじゃあ、もっと分かりやすく例えてあげなよ。朝比奈さんに伝わらないと意味無いでしょ?」
「滝口君は分かっているじゃない。それならアタシが変える必要ないわ。察しの悪い響子が悪いのよ」
謎の駄目出しをされる朝比奈さんに同情するよ……。
相手が聞いていなくても言いたいことが言えれば満足するタイプの人なのか?
ま、まあ、辻さんのことはどうでもいいか。
俺はそんな話がしたい訳じゃない。いい加減、本題に入って欲しい。
もう直接聞いてみるか。
「それで結局、辻さんは何しに来たの?」
「あら用が無ければ話しかけてはいけないのかしら?」
「それはもうやったよ」
「ふふ、そうだったわね。まあ、昨日のことを謝ろうと思っていたのだけれど、滝口君が気にしていないようだったから止めたわ。それでせっかく屋上まで来たのだから景色でも眺めようと思っていたのに、話しかけて来たのは滝口君の方よ?」
いやいや、めっちゃ気にしてるから! それが怖くて慣れない相手に気を使ってこんなにも話し掛けていたんだからな!
まあ、昨日のことは俺が悪い。それを辻さんが気にしないと言ってくれるなら、ありがたく思おう。
俺の最低な発言と水を掛けられたことでチャラってことね。辻さんがやって来たのはそういう意図だと思うことにした。
だが、初めは謝るつもりだったということは辻さんも悪いことをしたと思っていたのか。気まずいだろうに屋上までやって来るなんて律儀な人だな。
自己中な人だと思い始めていたが、その認識は改めよう。
「もう景色にも見飽きたし、もう教室に戻るわ」
何をしに来たのか話したので気が済んだのだろう。
昼休みを俺と過ごしても楽しくないだろうしな。
「分かった。俺はもう少し寝てから戻るよ」
教室に居るのは何だか気まずいし、辻さんと一緒に戻るのも恥ずかしい。
昼休みいっぱいはここに居よう。
扉を開ける音が聞こえて来たが、閉まる音は聞こえてこない。
どうしたんだろうと思っていると辻さんが遠くから声を掛けて来た。
「もう授業始まるわよ?」
「それももうやったよ」
「ふふ、そうね。嘘よ」
少し笑って辻さんは屋上から出て行った。
それだけを言う為にまた起こしたのか。
謝るつもりはあったかもしれないが、絶対に俺をからかって遊んでいたな。
話すのは三度目なのに、なんだか気楽に話せるなあ、と辻さんへの印象が変わりつつあった。
始まりが悪かったけど、普段の辻さんは面白い人なんだろうな、と再評価を完了し目を閉じる。
すると直ぐに予鈴が鳴り始めた。
「…………」
ゆっくりと体を起こし、ポケットから携帯を取り出す。液晶を見ると授業開始五分前。
「なるほどね……」
俺は冷静に携帯を投げつけた。
放課後まで哲郎は休み時間の度に何処かへ行っていた。
携帯も細かく確認していたし、部活仲間だけじゃなく他のクラスからも情報を集めているのだろう。
犯人が見付かるのも時間の問題か。
好きな人の為に学年の上位の学力を手にする男の行動力は違う。口数も少ないし不愛想だから俺と同じく友達は少ないと思ったが、部活仲間以外にもいそうだな。
学年でトップクラスの成績である山田君ともいつの間にか知り合っていたし、俺の想像よりも遥に多い友達がいるのだろうか。
哲郎と違って人当たりはいいはずなのに何で友達が少ないのだろうか。たぶん、面倒臭がりだからだろうなあ。
初対面の相手と仲良くするのは非常に気を使う。それが面倒だからって自分から話しかけるのを避けている。だから辻さんみたいに無理矢理連れて行かれるなんてレアなケースでも無い限り、新しい交友は増えない。
辻さんとは数回しか話していないし、最初は敵意を剥き出しにされていたけど、昼休みは気楽に話せたな。謎の例えも何故か理解出来てしまうし、やはり波長が似ているのだろうか……。
ま、まあいい。ちょっと気になるが、まあいい。
今日は久しぶりに真っ直ぐ帰宅部に参加出来そうなのだ。
色々と考えるのは帰宅してからでもいいだろう。哲郎を手伝うことも出来ないしな。
「あー、雄介ちょっと待ってくれ」
部活へ参加しようと鞄を背負った時、哲郎に声を掛けられた。
哲郎は深刻そうな顔で俺を見ていた。
「どうしたんだ?」
「ちょっと残って欲しいんだけど」
「それは別にいいけど。というかもう部活の時間じゃないのか?」
時計を見ると既に部活は始める時間になっていたが、まだ哲郎は部活へ向かう様子は無い。
「今日はいいんだ。ちょっと雄介に聞きたいことがあってな」
「聞きたいこと? なんだ?」
「あー、ここじゃなんだし、屋上でも行こう」
教室を見回して哲郎はそう言った。人気が無い方が都合がいいのだろう。
哲郎はそれだけ言うと何も持たず無言のまま歩き出した。俺も黙って哲郎の後に続く。
今日も部活は遅刻になりそうだな。目の前を歩く哲郎を見ながらそんなことを思った。
屋上に向かう廊下に人気は無く、静寂に包まれていた。俺と哲郎の足音だけ響く。他の音が聞こえないのは俺の心理がそうさせているのだろうか。
そのまま会話も無く、無言で屋上を目指す。
哲郎と歩くのが、こんなにも気まずいことなんてあっただろうか。
普段の哲郎も口数が多い訳ではないが、ここまで無言なのは珍しい。
耐えるには長い沈黙と、考えるには短い猶予を経て屋上へと到着した。
振り返ることなく哲郎が扉を開け屋上へと出た。俺も続くと哲郎はゆっくりと扉を後ろ手に閉めた。
放課後の屋上に人影はなく、正真正銘俺と哲郎の二人きりだった。昼休みですら人が少ないのだから、放課後に来る人なんて稀だろう。
陽が落ちかけて茜色に染まる校庭が目に付いた。思えば放課後に屋上へやって来たのは、これが初めての経験だ。
まあ、いくら景色が良いと言っても男二人で見てもなあ、なんてことを思っていると哲郎が静かに口を開いた。
「…………訳を聞こう」
開口一番、哲郎は良く分からないことを言いだした。
その口ぶりは辻さんを彷彿とさせた。
最近は言いたいことだけを言うみたいのが流行りなのだろうか?
「なんのことだ?」
哲郎に対しても辻さんと同じように説明を求める。
俺は名探偵でも超能力者でも無いんだから、それだけ言われても分からないぞ。
「分かってるだろ? 朝比奈さんの件だよ」
「今朝の話しか? すまんが俺は何も聞いてないんだ」
俺が申し訳なさそうに頭を下げるが、哲郎は納得していない様子。
聞き込みをしなかったことを怒っているのだろうか。
「……しらばっくれるのか?」
だが、哲郎は俺の主張を聞くつもりはないようだ。
「いや、本当に何も知らないんだって」
話せることがあれば俺から話している。
クラスメートから話も聞いていない俺から哲郎に話せることなんて何も無いのだ。
「そうか、分かった」
「悪いな」
話はこれで終わりだろうか。
屋上の扉に寄り掛かっていた哲郎は俺の言葉を聞いて歩き出した。そのまま近くまで歩いて来ると、頬に重い衝撃を感じた。
どうやら俺は哲郎に殴られたらしい。
急な出来事、部活に所属している哲郎の拳、そして帰宅部である俺の脚力。それが導き出すのは宙を舞う俺。
数秒の静寂と浮遊感。抗うこと無く屋上の床に転がる俺。
そして遅れてやってくる頬の痛み。口の中が切れているのか血の味がする。床を転がって制服は砂だらけになった。
そういえば長年の付き合いで哲郎に殴られたのは、これが初めてだなと妙に落ち着いて考えていた。
ここまで冷静で居られるのは多分、こうなることを覚悟していたからだろうな。
「…………お前だろ、犯人は……」
哲郎は殴った手をもう片方の手で包み、顔を歪めていた。
そんな哲郎を見て思い出すのは中学の頃だった。
中学時代、イジメを止めていた哲郎は暴力を振るうような真似はしなかった。ただ静かに相手の非を責めて、そして諭していた。
どんな時も感情的にはならない男だったし、常に冷静だった。
そんな哲郎が俺を殴ったのか……。
もちろん殴られたのは俺が悪い。哲郎はちゃんと話す機会をくれていた。それを茶化すような真似をして台無しにしたのは俺だ。
頬を触りながら、昨日、辻さんに水を掛けられことを思い出す。
度々辻さんと哲郎が重なって見えるのは何でだろうなあ……。
邪念を払い、目の前の哲郎に集中する。
俺のやるべきことはまだ残っているからな。
「いてて、犯人ってなんだよ。遅刻ギリギリに登校して来た俺にそんなことする暇は無かっただろう?」
へらへらと笑いながら苦しい言い逃れを口にする。
「素直に認めてくれ」
そんな俺を見て哲郎は眉間に皺を寄せていた。
「認めるも何も俺は知らないんだよ。何かと勘違いしているんじゃないか?」
体を起こし砂を叩きながら哲郎に答える。
「勘違いで親友を殴るもんか。ちゃんと裏は取ってある」
親友、か……。
こんな状況でも俺を親友と呼ぶのか……。
「そんなこと言ったって俺が登校した時にはもう騒ぎになっていただろ? それに哲郎が言ってたじゃないか。昨日は何もされてなかったって。それなら俺には無理だよ」
「…………分かった。お前がそういうつもりなら、俺が認めさせてやる」
大きな溜め息を吐き、哲郎は俺を厳しい目で睨み付けた。
「雄介がさっきから言っている登校時間の話しだが、お前は早朝に一回学校に来て、再び登校して来たんだろ?」
「それが本当なら確かに俺にも可能だな。でも、それなら誰にでも可能になると思うが?」
「部活の友達にも雄介らしき人物を見たって人がいるし、山田君も雄介を見たって言ってるんだ」
山田君。少し話題に出ていた哲郎の勉強友達か。
「俺は哲郎くらいしか話すような友達はいないんだ。向こうが俺を見て分かるか?」
「部活仲間は遠目だったから見間違えるかもしれないが、山田君は見間違えるとは思えない。家じゃ勉強出来ないからって朝早くに登校している。しかも雄介を見たのは昇降口だ。自分以外に朝早く登校して来ている人がいるのは珍しくて印象に残っていたってさ」
「…………いやあ、他にも誰か来てると思ったら、例の山田君だったのか。もっと早くに来たかったが、昇降口が開くのが七時だからな。誰かに来ていることが知られる可能性はあったけど、まさか哲郎の友達とはな。俺も運が悪かったな」
頭をかきながら、へらへらと笑う。
近い内に俺が犯人だとバレるとは思っていたが、まさか当日にバレるとは思わなかったな。
哲郎の交友関係の広さを甘く見ていた。
まあ哲郎にバレるとは思っていたし、隠すつもりそこまで無かった。気付くまでに多少の時間が稼げればそれでよかった。
「…………なあ、なんでそんなことをしたんだよ」
「なんでって言われてもなあ。人をイジメる理由なんてそいつが気に入らないしかないだろうよ」
「……雄介が朝比奈さんと話しているのを見たことないぞ。それに朝比奈さんと辻さんは心当たりが無いって言ってたし」
「それは犯人の心当たりが無いって意味か?」
「ああ、そうだ。ということは雄介と朝比奈さんに接点は無いということだろう?」
いや、それはおかしい。
昨日の今日でこんなことがあったら、真っ先に俺を疑う筈。
朝比奈さんは気付かないこともあるかもしれないが、辻さんが気付かないとは思えない。
哲郎には話さなかっただけか? いや、それは無いか。イジメの犯人が俺だと気付いていたら、昼休みに謝りに来たりしないか。
二人のことは気になるが、それよりも今はこの場を乗り切らないといけない。
「話したことが無くても気に入らないことなんてあるだろ。頭良いですって感じが鼻に付くんだよ」
「そんなの他にもいるだろ。なんだって朝比奈さんなんだ」
「他にも色々と気に入らない所あるんだよ。それを全部言ってもいいが、それに意味はないだろ?」
「じゃあ雄介はただ朝比奈さんが気に入らないから、今朝のことをしたって言うんだな?」
「そうだ」
「――それは俺が好きな相手でもなのか?」
その言葉に一瞬、怯みそうになるが俺は止まらない。
「哲郎が好きな相手でも俺には関係ないだろ? なんだ? 哲郎が好きな相手なら俺も優しくしなくちゃいけないのか?」
「…………そうか。それもそう、だよな」
哲郎は静かに目を閉じ、独り言のように呟いた。
そしてそれが最後の言葉となり哲郎はそのまま静かに屋上から立ち去った。
屋上の扉が静かに閉まり、哲郎の姿は見えなくなった。
そこでようやく俺も大きな溜め息を吐く。
目的は達成出来た。
屋上には静寂と最低な俺だけが残った。
落ち着いて自分の状況を確認する。
頬は痛いし、口の中も血が溜まっていて気持ち悪い。
唾を吐き出そうと思ったが、屋上が汚れる方が嫌だな、と思い我慢した。
直ぐに教室へ戻ると哲郎と鉢合わせしそうなので時間を潰してから帰ろう。
綺麗な夕日が胸に染みる。痛みの所為か分からないが、涙が浮かんで来た。
そのまま何もせず数十分の時が流れた。
……もう戻っても大丈夫だろう。
頬の腫れがどれくらいなのか確認するのは少し怖いが、今の俺には相応しい。
重い腰を上げて出口へと向かう。
きっとここに哲郎と来るのはこれが最後だろう。
扉を閉めるのが今までの思い出との決別のように感じた……。
「そんなに腫れてない、か」
トイレの鏡で顔を確認してみると痛みの割に腫れは小さかった。
口の中って簡単に切れるんだなあ、と余計な知識を得た。
水道で口をすすぐと出血ももう止まっていた。
どこかに軽くぶつけたくらいの腫れだし、殴られたとは気付かれないだろう。
俺が踏ん張れなくて倒れたのが力を逃がす形になったのか、哲郎が殴りなれていなかったのか。その両方が作用して軽傷で済んだのか。
もしかしたら哲郎が手加減してくれたのかもしれない、と思うが直ぐにその考えを否定した。殴った哲郎が手を痛そうにしていたし、本気で殴って来るのが哲郎だよな。
親友……元親友の良さを殴られることで感じるなんて、俺も物好きだよなあ。
そんなことを考えながら教室に戻ると、もうクラスメート達は誰も残っていなかった。皆は部活や寄道などをして友達と有意義な時間を過ごしているんだろう。
誰もいない教室を見て、俺は何をやっているんだろうな、という悲しい気持ちになって来た。
ここに居ると色んな感情湧き上がって来そうなので、鞄を背負い足早に教室から立ち去る。
「おっと、すいません……」
教室から出た瞬間、誰かとぶつかりそうになり、慌てて立ち止まる。
「あら、いいのよ」
そこにはまさか人物がいた。
「今から帰るところかしら?」
「辻さん、か。まあ、うん、帰る所だよ」
今はあまり会いたくない人物だった。
いつも仲の良い辻さん達を見ると、今の状況を悪く思ってしまう気がするから。
だが辺りを見渡すが朝比奈さんの姿は無かった。今日は一人なのか。
「それならちょうど良かったわ。今日も付き合ってくれるわよね?」
俺の戸惑いを無視して、今日も俺をファミレスへと連行するつもりらしい。
今は辻さんに付き合う気分じゃない。
「アタシも話があるの。上田君と同じように、ね」
どう断ろうか考えていると辻さんはそんなことを言い出した。
そうか。辻さんも俺が犯人だと聞いたのか。
それなら乗り気じゃなくても、辻さんに逆らうことは出来ない。
「……分かったよ」
俺にはそう答えるしかなかった。
「ふふ、ありがとう」
これからお叱り第二弾を受けるんだろうなと思っていたが、辻さんは笑顔を浮かべている。
それは怒りを含んだ笑顔ではない、純粋な笑顔に見える。
どういうことだ? 哲郎と同じような話を俺にする、ということは犯人が俺だと分かっているということだよな。
自分の親友が嫌がらせをされたのに怒っていないのか? いや、それは有り得ない。
朝比奈さんを助けるのに協力しないと言ったら、あまり親しくない俺に水を掛けるような人だ。俺に対して怒りを覚えていない筈がない。
何故辻さんの表情が笑顔なのか俺には理解出来なった。
「どうしたの? さあ、行くわよ?」
「あ、ああ……」
辻さんの思惑は分からない。
だが、この誘いを断ることも出来ない。
今の俺に出来ることは辻さんに黙って従うこと。
目の前を歩く辻さんがどんな何を考えているのか分からないまま、いつものファミレスへと向かう。
道すがら辻さんは黙ったままで、俺も話し掛けられないでにいた。
それは哲郎に屋上へと連れて行かれる時と重なって見えたからかもしれない。
重い雰囲気の中、いつものファミレスへと到着した。
※
「ストロベリーパフェとチーズケーキをふた……一つ下さい」
ここ数日同じ注文をしていたので、ついケーキを二つ頼みそうになったが、今日は二人きりだったことを思い出す。
何を食べるか聞かずに注文してしまったが、文句を言われなかったので問題無いだろう。
気まずい雰囲気の中、注文した品が来るのを待つ。
辻さんは頬杖を突きながら外の景色を見ている。その表情は少なくとも不機嫌では無さそうだ。
口を開かないので何を考えているのかは相変わらず分からない。
いつまで口を開かないつもりなのだろうか。
ジロジロと辻さんを見る訳にもいかないので、同じように外の景色を眺める。
昨日や一昨日より遅い時間なので、下校する生徒は少ない。
そういえば朝比奈さんはもう帰ったのだろうか。ここ数日しか見ていないが、いつも二人は一緒に居る印象がある。
まあでも、昼休みは別行動していたし、いつも一緒という訳じゃないのか。
それが気持ち的に少し楽だった。
今の心理状況的に仲の良い二人を見ると暗い気持ちになりかねない。
俺も哲郎と仲が良いとはいえ、いつも一緒じゃないしな。
まあ、もう一緒にいることは無いだろうけど……。
「痛そうね、頬っぺた」
独り哀愁に浸っていると、いつの間にか辻さんが俺を見ていた。
直視されると眼力に負けて視線を逸らしてしまう。
変な言動で忘れがちだが、落ち着いて見れば辻さんは美人なのだ。
友達の少ない日陰男子には辻さんの存在は眩し過ぎる。
「え、あ、ああ。まあ、ちょっとね」
照れもあり少し狼狽えてしまった。
それに急に声掛けられたのもあるが、まさか心配してくれるとは思わなかったので驚いてしまった。
辻さんは俺と哲郎が話し終わるまで待っていたのだろうか。
哲郎曰く、辻さん達には心当たりが無いと言っていたらしい。だが、俺を連れ出す口実として哲郎と同じような話がしたいと言っていた。それは俺が犯人だと分かっている証拠である。
それなのに変わらぬ態度で接するというのは、どういうつもりなんだ?
というかいつから俺が犯人だと気付いていたんだ?
「お待たせしました」
俺が独り戸惑っていると店員さんがパフェとケーキを運んで来た。
今日の店員さんは初めて見る人で、案の定パフェは辻さんの前に、ケーキは俺の前に並べられた。
まあそれが普通だよな。
店員さんがテーブルから離れるのを待って、パフェに手を伸ばす。
だが、その手を辻さんが叩いた。
「パフェはアタシよ」
「あれ?」
いつもと同じでチーズケーキを食べると思い、勝手に注文してしまった。
辻さんもパフェが食べたかったのか? それなら注文した時に言って欲しかったな。
俺がチーズケーキを食べると思ったから注文の時に何も言わなかったのか? ……それはないか。
絶対に俺がパフェを食べたいと分かっている上で何も言わなかったな。
「じゃあ、ケーキは貰うよ」
まあ聞かなかった俺が悪いので残されたケーキを食べることにする。
「どうぞ。アタシがケーキもパフェも食べるような大食いさんに見えるかしら?」
「それは失礼しました」
「そうでしょう? 二つも食べたら夕飯が食べられなくなっちゃうわ」
何故か得意気に言って辻さんはパフェを食べ始めた。
「意外と美味しいわね」
「…………」
俺も辻さんに続いてケーキを食べ始める。
パフェばかり食べることが多いから知らなかったが、チーズケーキも美味しい。
あー、ケーキが食べられて良かったなあー。
自分に言い聞かせるも視線はパフェに行ってしまう女々しさよ……。
「――ねえ。わざと、というよりそうね。あえてやったでしょう?」
ケーキを食べ終えた頃、辻さんが話しかけて来た。
顔を上げると辻さんもちょうどパフェを食べ終えていた。
相変わらず脈絡が無いな。
でも今回は心当たりが無いわけじゃない。多分、あのことを言いたいんだと思うが、それが外れていた場合、辻さんに秘密にしておきたいことがバレる危険がある。
そもそも俺が説明する義理も義務も無い。
「なんのこと?」
とりあえずいつものように聞き返して反応を見る。
「滝口君がやった今朝の件よ」
まあ、もちろんだよな。
哲郎と同じ話をすると言っていたんだから、話の焦点は朝比奈さんへの嫌がらせのことになる。
それを『あえて』やったのか、と聞いている。
不味いな…………。
辻さんは何処まで気付いているのだろうか。
「あえてってのがどういう意味なのか分からないけど、今朝の件なら昨日の仕返しだよ」
「それならアタシを狙うのが普通じゃないかしら?」
「俺は底意地が悪いからね。辻さんを直接攻撃するより守りたい友達を狙った方が効果あると思ってね」
「そうね。アタシの所為で響子が嫌がらせをされたら、アタシが狙われるより辛いわ」
「ああ、なるほど。あえて朝比奈さんを狙ったのか? って意味か。それなら大正解だよ」
「ふふ、悪ぶらないの小物さん。アタシがあえてと言っているのはそのことじゃないわ」
「……じゃあなんだよ」
「アタシが聞いているのは、あえて嫌がらせをしたでしょって意味よ」
「……違いが分からないんだけど」
「嘘が下手ね。良い人の証拠よ。じゃあ分かりやすく教えてあげるわ。あえて上田君の嫌がらせより酷い嫌がらせをした。これで分かるかしら?」
「そりゃあもっと酷い嫌がらせをしないと辻さんに効かないし」
「それにしては変だと思わない? 嫌がらせを辞めさせて欲しいってお願いしたら、もっと酷い嫌がらせを受けるなんて」
「仕返しなんだから変だとは思わないけど」
「そうね。そこまでは確かに変じゃないかもしれないわね。でも不思議なことが他にも何個かあるのよ」
「…………何が?」
「まずは昼休み滝口君の態度ね」
「俺の態度? 別に変な所は無かったと思うけど」
「分からないの? それがもう答えみたいなものだけど、それじゃあ説明してあげるわ。まず今朝の行動は昨日仕返しだとしましょう。それならアタシに対して恨みを持っている筈よね? それなのに昼休みの滝口君からは怒りを感じなかったわ。どちらかというと子犬ね」
「そんなに人懐っこい感じが?」
「いいえ。怯えを感じたのよ。まあ、水を掛けられたのだから当然よね」
「話が見えて来ないんだけど」
「あら、ここまで話しても分からない? それとも分からないフリをしているのかしらね。アタシがあんなに嫌な態度を取っても怒りもしなかったのよ? 仕返しする程に恨んでいる相手に失礼なことをされたら、普通怒るか出て行くと思うわ」
「それは……そんなの人それぞれだろ。仕返しは済んだし、怒るのはフェアじゃないって思ってただけだし」
辻さんの追及に脂汗が浮かんで来る。
哲郎の話でも心当たりがあるのに無いと言ったり、昼休みの行動とか気になることはあった。
だが、哲郎に気付かれないように動くことだけに注意を払っていて、辻さんのことは気にしていなかった。
朝比奈さんが酷い嫌がらせを受けたら怒って我を見失うかと思ったが、ここまで冷静に状況を見ているとは想定外だ。
まだだ。かなり怪しまれているだろうけど、まだ完全には気付かれてはいないはずだ。
「そうかもしれないわね。じゃあ二つ目ね。それは上田君の反応よ」
「哲郎の反応にも変な所は無いと思うけど」
「素直に認めた方が楽よ? もし自分が嫌がらせしている相手がもっと酷い嫌がらせを受けたらどうすると思う?」
「…………」
「普通は喜ぶか便乗して、もっと酷い嫌がらせをするんじゃないかしら? それが今朝の彼はどうだった? 怒って犯人を見付けようとしてくれたわ。何でかしらね?」
「そ、それは…………」
自分のターゲットを取られたから犯人に対して怒りを覚えた。とか答えるべきなんだろうけど……。
「それは、自分の獲物を取った犯人に怒りを覚えたから、なんて所かしらね?」
――この人、俺の思惑に気付いているのか? 確かに朝比奈さんが酷い嫌がらせを受ければ、哲郎のしていることが嫌がらせじゃないと分かってもらえると思った。
その結果、俺の思惑通り哲郎に対する誤解は解け、朝日奈さんと哲郎の距離は近付いた。
だからこそ辻さんが言った理由を口にすることは出来ない。それを鵜呑みにされると哲郎の誤解は解けなくなり、俺の行動がただのイジメになってしまう。
そうなれば再び哲郎の印象が悪くなる。
どう答えるべきなんだろうか……。
「ふふ、やっぱりね」
俺が悩んでいると辻さんは一人で納得して頷いていた。
「滝口君がさっきの言葉を口にしたら、二人共最低なクラスメートで終わってたわ。でもそれを口に出来ない、ということは上田君が嫌がらせをしていると思ったのはアタシ達の勘違いだったってことね」
……この人、勘違いしていた割には鋭いな。
自分の親友がイジメられて冷静にここまで考え付くなら、勘違いなんてしないで欲しかったぞ。
もしそうなら俺がこんなことをする必要も無かったし、哲郎ともケンカすることは無かったのに。
……いや、駄目だな。
嫌がらせをしたのも、哲郎とケンカになったのも俺が選んだことだ。それで辻さんを責めるのは筋違いだ。
「昨日、上田君が響子に近寄らないようにお願いしたのを断ったのも勘違いだったからよね? ふーん、そういうことね」
「な、なにが?」
「嫌がらせじゃんくて響子にあんなに近付く理由なんて一つしかないじゃない。上田君、響子のこと好きなのね。もう、それなら初めから言ってくれればいいのに」
昨日言ったって絶対に信じなかったと思う。
そんなこと言ったら、俺の思惑をバラされかねないので胸に仕舞う。
「ふふ、滝口君は面白い人ね。それに良い人で友達想い」
「嫌味にしか聞こえないぞ」
「素直な気持ちよ? 友達の為にあえて悪者になるなんて、そうそう出来ることじゃないわ」
「うるさい」
俺がやったことの種明かしをここまでされて素直に喜べるか!
アプローチを嫌がらせと思うくらいだから辻さんは鈍い人だと甘くみたのが悪かったな。
でもま、鋭いと気付いていても同じことしか出来なかった気もする。
俺はそんなに頭が良くないんだよ……。
「何もこんなことしなくても、アタシ達が勘違いしているって上田君に話せば良かったじゃない」
「そんなこと言えるか。頑張って勉強してアプローチしてたのに嫌がらせだと思われてたなんて知ったら、絶対にトラウマになるぞ」
「それもそうね。それならアタシ達を説得すれば良かったのに」
「……話しても信じて貰えるとは思えなかったし、哲郎の恋愛事情を勝手に話す訳にもいかないだろ」
結果的にバレてしまったので、哲郎には申し訳が立たないが。
「ふふ、だから言ったでしょう? 滝口君は友達想いだって」
「俺のことは放っておいてくれ!」
恥ずかしい。
確かに哲郎のことを想って動いたのは間違いないが、それに気付かれ褒められてもむず痒い気しかしないぞ!
「ふふ、考えておくわ」
そう言って辻さんは伝票を手に取って立ち上がった。
「昨日は奢らせちゃったから、今日はアタシが奢るわ」
「いや、いいよ。俺の分は俺が払うから」
「滝口君がアタシに口を出せる立場なのかしら?」
「…………ご馳走様です」
「それでいいのよ」
俺の秘密を知られた以上、辻さんには逆らえない。
辻さんの言葉にはバラしてもいいの? という意味が込められているように感じた。
そんなことを言われてしまったら素直に従うしかない。
辻さんが会計をしていると、昨日まで居た綺麗な店員さんが裏から出て来た。
そうか、今日はファミレスに来る時間が遅いから会わなかったのか。
綺麗な店員さんはフロアに向かう前に俺のことをチラリと見た気がした。
…………は!
俺の今の状況は女子に奢って貰っている情けない男子。
ち、違うんです! 昨日は俺が奢ったし、今は無理矢理奢らされているんです!
そう綺麗な店員さんに釈明したかったが、出来る筈もない。
そもそも俺を見たと思っているのも気のせいかもしれない。
いきなり俺が釈明に来ても気持ち悪っ! ってなるだけだろう。
「何してるの? 行くわよ」
店員さんを名残惜しく見ていると辻さんに声を掛けられた。
「何でもないさ」
今日は踏んだり蹴ったりだ。
辻さんには俺の思惑に気付かれ、綺麗な店員さんにはヒモに見られる。
まあいい。本当は駄目だけど、まあいい。
今は俺のことよりも大事なことがある。
「あの辻さん。今日のことは内緒にして欲しいんだけど……」
辻さんに念を入れておく。
知られてしまったのは仕方ないとして諦めるが、それを誰か、特に哲郎に話されると困る。
「響子に嫌がらせをしたのが滝口君ってこと?」
「それは言いふらしてもいい。そのことじゃなくて、俺が何で嫌がらせをしたかって理由の方」
「勘違いを上田君に知られないようにアタシ達の誤解を解きたかったってこと?」
「うん。朝比奈さんに嫌がらせをしておいて虫が良いとは思うんだけど」
「それはいいわ。既にその件では罰せられているでしょう?」
辻さんは自分の頬を触りながら笑った。
「じゃあ秘密にしてくれる?」
「それはどうかしらね? アタシのお願いは聞いてくれないのに、滝口君はお願いを聞いて貰えるのかしら」
痛い所を突いて来る……。
でも俺の事情を知った上でそんなことを言うのは意地悪だと思う。
「ふふ、アタシは心が広いからね。考えておいてあげるわ」
その言葉を別れの挨拶に辻さんは手を振って歩いて行ってしまった。
流石の辻さんといえども、ここまで事情を知ってバラすようなことはしないだろう。
今の俺にはそう信じるしか出来ることは無かった。
「はあ…………」
週明けの学校が色んな意味で怖いな……。
止めだ、止め。
先のことを考えても悪いことしか浮かばない。
今日は疲れた。俺ももう帰って寝よう。
トボトボと重い足取りで帰路に就くのだった。
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