6.奇跡の教会

 今、クワリはツェンリャに代わって別の少女がその役目を担っている。ツェンリャのように儀式を経て選ばれ、初潮と共に挿げ替えられる。ツェンリャが二度とクワリという特別な存在になることは出来ない。それを身をもって学びながら、ツェンリャは数の数え方や文字、人々の暮らしを先生となる尼僧に習っている。これが今のツェンリャが送る毎日だ。人々がツェンリャに手を合わせることもなく、ツェンリャの姿に歓喜の涙をすることもない。クワリであったツェンリャにとって、ただの知識と経験の蓄積は無味乾燥な毎日だった。そしてそれは同時に自分の価値を思い知らされる過程でもあった。自分が永遠にクワリであったなら、と空想する。そして現実に戻され、自分はまだ過去の夢にすがっている醜い性根の持ち主だと自覚する。そう、ツェンリャはまだ、自分に価値などなかったし、これからもないのだと認められずにいる。


「奇跡の教会、そう呼ばれている施設には近づかないこと」


ある時、老いた尼僧がそう話した。市井では有名な話だ。この国では寺院が人々の心のよりどころとなっている。しかし近年、新しく「主」というものを信仰するように勧める外国人が多くこの町にやってくるようになった。「主」とは「神仏」に近い存在だと言うが、それをあまり詳しく知る者がいない。もしかしたら、ツェンリャが「主」というものと隔絶した世界にいるせいもあったかもしれない。僧侶たちの話によれば、その「主」を崇める地域では今、国同士で大きな争いをしているのだと言う。しかも、同じ「主」を崇めている国同士がその解釈を巡って戦っているそうだ。この国にも神仏の解釈やそれぞれ信じる神の差異によってしばし争いが起きたと授業で習ったが、その争いとは比べ物にならないほど大きな戦いが起きているのだそうだ。その戦の結果次第では、この小さな島国にも影響を与えかねないほどのものだと言われているため、国は戦に関わりを持たないために「主」に対する禁教政策をしいている。もっとも、大陸とは離れ、物資を運ぶ船の中継地点として成り立っているこの国では在来の宗教が幅を利かせているため、「主」には馴染みがない。「主」と耳にしたとしても神仏の一種だと思う者が大半だったときく。

しかし、その「主」の名を広く知らしめた物が最近になって出来上がった。

それが「奇跡の教会」とよばれる物だ。

 貿易で利益をつかんでいたこの国にとって、貿易相手の要求は無視できない状況にあった。その最大の貿易相手が教会の建設を要求したのだ。貿易中止をちらつかせられた中央政府はその要求を呑むしかなかった。しかし宗教による「国民の心の植民地化」を防ごうと、あくまで禁教を優先させた政府はある条件を出した。


『聞くところによれば、主、とは奇跡を起こせるという。つまり、出来ないことをやってのけるそうではないか。では、是非それを見せてほしい。そちらの教会と同じものを一年で造って見せて欲しいと言うわけです。それができれば、この国も主、というものの偉大さを信じるでしょう』


これは無理な条件だった。大陸の教会は石造りの巨大な建造物だと聞く。それをたった一年で完成させろというのだ。この国にある建造物は木造建築がほとんどで、石造りの巨大建造物は見当たらない。材料の石材があったとしても、信者も技術者もいないこの場所では何百年かかるか分からない。要するに、材料も資金もないのだ。そして、潮風に当てられるこの町に建築場所を設定することで、木の教会は長くもたない。これは建築を許可すする事によって他国に宗教的な寛大さを見せ付けるという国家の戦略だった。しかしその寛大さの裏には、異教の無力さを国内の民に見せ付けると言う宗教的弾圧があった。しかし、宣教師と呼ばれる異人は「やらせてください」と言ったのだ。そして、本当に一年で巨大な石造建築物を完成させた。その大きさはこの町の人間がすべて中に入れるほどの広さを持ち、天井は見上げるほどに大きく、珍しい装飾で彩られていた。この不可能を可能にした教会を、人々は「奇跡の教会」と呼んだ。

 教会という建物は、寺院とは異質だと噂に聞いた。それを異質だと思うのは、石造りで対称性を備えた人工物を、この島国の人は見たことがなかったからかもしれない。石なのに重さを感じさせない細部までの装飾があるという。内部には広い空間があり、机と椅子だけが木製なのだという。そしていたるところに白い彫像があり、人々を見下ろしている。ツェンリャはそんな教会に興味をそそられていた。一度でいいから、噂を確かめるためにその教会に行ってみたいと思った。

 ツェンリャは表向きは買い物をするために外に出た。もちろん、私用の用事の時は外出着に着替える。簡素な着物だった。クワリとして役割を終えた少女たちは生家に帰るか、そのまま出家するかを選ぶことが出来た。ツェンリャは後者を選んだため、普段は寺院で勉強しながら奉仕活動を行なっている。寺院の奉仕活動は、貧民への施しや、無償の公共事業まで多岐にわたった。その為、奉仕活動の最中には家族と鉢合わせすることもあったが、家族や友人と言葉を交わすことは禁止されている。寺院に仕えている者は、例えそれが親であっても外民に私的な話をすることはあってはならないのだ。買い物に出たときもこの掟は守らなければならなかった。しかしツェンリャの目的は誰かに会いに行くことでも買い物でもなかった。「奇跡の教会」に行きたかったのだ。人々の身分を平等にする空間。そこでは外民も高僧も一人の人間でしかない。今までにない画期的な思想だと思えてならなかった。

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