5.選定

 一方ツェンリャ僧侶の後に続いて奥の部屋に案内された。廊下の鮮やかな緑も小鳥の声も聞こえないくらいに、その部屋は外界と隔絶されていた。「さあ」と背中を押されて真っ暗な部屋に入ると、生臭い匂いが鼻をついた。幼いツェンリャは吐き気を催したが、それを必死の思い出飲み込んだ。子どもであっても、ここが寺院という神聖な場所でありそこを卑しい身分の自分が汚してはならないと感じていたからだ。そのツェンリャを見た僧侶が小さく頷いたので、思わずツェンリャは僧侶の顔を見上げた。僧侶は満足気だった。そして、さらに部屋の奥に入るようにツェンリャの背中を押した。暗さに目が慣れてくると、その部屋が意外に狭い事に気付いた。長い机が部屋の中央に配置され、その上に何か乗っている。それはツェンリャには手の届かない鞠というものに似ていた。しかしその三つの「鞠」が異臭の正体である事に気付いたツェンリャが足を止めると、僧侶がツェンリャの前に出て机の横に立った。ツェンリャは「鞠」の正体を見て、呆然とただ立ち尽くした。


「君が初めてだったよ、これを見て泣かなかったのは」


高僧がツェンリャのすぐ後ろから、そう声をかけた。笑いを含んだ声は、暗い響きがあった。ツェンリャは高僧から肩を痛いくらいにつかまれていたが、その痛みさえ分からなかった。「鞠」の正体は、人間の生首だった。まだ鮮血が滴るその首はツェンリャの友人やおじいさんの物だった。おじいさんの目はなく、虚ろな黒い穴が開いているだけだった。その穴はあの世に続いているのかもしれないと、ツェンリャは思った。


「ああ」


ツェンリャは疲れたように、喘ぐように小さく呟いた。急に姿を消した友人二人とおじいさん。こうして「再会」するなど夢にも思わなかった。そしてツェンリャは思う。赤とは、こんなにも生々しい物なのか。寺院で今まで胸をときめかせていた朱色が薄っぺらく見えてしまうほどに。

ツェンリャは泣かなかったのではない。体も心も硬直していたのだ。


(ファンカイ、フォング。おじいさん。こんな所にいたのか早く家に一緒に帰ろう。私達には、待っている人がいる)


それとも、皆ここで暮らせるのだろうか。


「ファンカイ、フォング……」

(二人は幸せに暮らしていたのではなかったの? どうして頭だけなの?)


ツェンリャが来るまでは、二人とも幸せに生きていただろう。顔色もいいし、髪も整っている。それとも、二人はツェンリャが来るまでの命と知って、恐れおののく日々を過ごしていただろうか。おじいさんの方だけが、顔がぼろぼろだった。きっとあの時、カラスに食べられたせいだろう。

 瞬きさえも忘れたツェンリャを、僧侶が別室に案内した。尼が沐浴場に案内し、ツェンリャを頭からつま先まで綺麗に洗い上げる。その時、ツェンリャが処女であることも同時に確認された。沐浴の後は綺麗な赤い着物に着替えさせられた。赤の生地に金色の刺繍が施されていた。そして髪の毛を高く結われ、髪飾りや腕輪、首飾りなどをジャラジャラと付けさせられた。別室に通され、今まで座ったことがないような柔らかい綿入りの布が張った椅子に座らせられたが、まだ「鞠」について理解できなかった。先ほどの暗い部屋とは違い、広く明るい部屋の上座にツェンリャは座り、大勢の僧侶たちを見下ろしていた。それでもツェンリャの心はまだあの暗い部屋にいた。こんな豪華な袖の長い着物を着て、頭が重いくらいに結い上げられた髪形をして、僧侶たちを見下ろせる椅子に座って、夢であっても豪華すぎることが叶ったというのに、ツェンリャは喜べなかった。ツェンリャの心は、あの三つの「毬」を見た時に死んだのだ。


「クワリ様が再び現れました」


僧侶が高らかに宣言し、ツェンリャの頭に金の冠を載せた。その場にいた僧侶たちが一斉に「おおっ」と声を上げ、ツェンリャに向かって頭を下げた。


(一体何が起きているの? これは悪い夢かしら?)


ツェンリャは何故高僧たちが自分に向かって、深々と頭を下げているのか分からなかった。まして自分がもはや「人」ではなく、「神」であることなど、知る由もない。いつの間にか、自分が綺麗な着物を着て、体も綺麗に洗われている事にツェンリャは今になって気付いた。そしてあの暗い部屋での出来事が次のクワリを決める儀式であることや、それきり両親とも会えなくなってしまったことを後になって知った。何よりも、自分が町中から信仰を集めるクワリという存在になったという事を自覚するのはそれからしばらくしてからのことであった。

 ツェンリャの日々はすっかり様変わりした。ゴミを漁っていた朝には、礼拝客に「龍の目」と呼ばれる赤い染料を額につける作業や、鏡を嫌うという魔物のお札を渡す。それは物乞いをしていたはずの昼までかかった。僧侶が付き人となり、片時も一人になる時間はなくなった。飢えていた腹は、僧侶たちと同じ食事で満たされた。元々はだしだった足には金の輪や装飾文様が描かれ、土を踏むことを禁じられた。それだけではない。表情を表に出すことや、言葉を発することも禁止された。これが毎日続くのだ。ツェンリャは自分がクワリであることを否応なしに自覚した。クワリ以外の自分を考えることもなかった。人々はツェンリャを「クワリ様」と呼んで礼拝し、涙すら流す者もいた。周りの僧侶たちも最大限の敬意をツェンリャに払った。幼いツェンリャは身分制度の外から身分制度の頂点に立ったのだ。何もかもが満たされて、幸せだった。そして再び外民に戻るのは嫌だった。美しく、細やかに、そして豪華に刺繍された衣装。生ものはなかったが、お腹いっぱい美味しい物を毎日食べられる。自分にかしづく大勢の人々。自分は特別な存在で、世界の中心にいるのだと、ツェンリャは思った。

ツェンリャはそんな日常の中で十年ほどの年月を過ごした。

 しかしツェンリャのクワリとしての生活は唐突に終わった。その日は体が重く、下腹に鈍い痛みがあった。そして股にわずかな違和感を覚えたが、気にすることなく付き人の女性に着替えを手伝ってもらっていた。ある朝、足を血が伝ったのが原因だった。付き人の女は悲鳴をあげて、「次を探さなくては」と言って走り去った。それは女性ならば当然来るとされる「初潮」というものであり、ツェンリャはそのことさえ知らなかった。だからツェンリャは、初めてその血を見た時、自分が怪我をしたと思った。そして突然、満ちたりた生活が奪われた。それは理不尽だったが、理不尽に対する苛立ちよりもまた極貧の生活に戻ることを恐れ、クワリではない自分が信じられず、途方にくれたのだ。ツェンリャの恐怖の不安の半分は杞憂に終わった。生家に戻されなかったのだ。その代わり、今までのクワリとして生活してきた分の常識のなさを補う必要があった。「クワリ」は何せず、存在するだけで崇められていた。しかし「ツェンリャ」という一人の少女はただの人々にとって取るに足らない非常識人なのだ。そこでツェンリャは寺院に仕えながら常識というものを一から学ばなければならなかった。椅子と机が一組だけある教室は、いつも閑散としている。

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