20.破綻

「祠?」


「祠には〈月の涙〉の犠牲者の名前が彫られているんだ。その中に僕の名前もある。僕はこうして鏡の中で不老不死のまま鏡にいるけれど、現世では死人の扱いになっている」


鏡の中に現れるフィラソフが、通常の人間とは異なっているということは初めからわかっていた。スカリィも初めて鏡から声がしていると気付いた時には驚いた。そして自分が映っているはずの鏡に青年が映っていると気付いたときには、夢ではないかと疑った。しかし彼との会話を重ねる内に、それも気にかけなくなった。フィラソフを「死人」とは思えなかったが、女性のような華奢さと透き通るような肌の白さは亡霊の風格があった。


「皆、〈月の涙〉を悪く言うけど、僕はそう思っていないんだ」


フィラソフは穏やかに微笑した。スカリィはその笑顔に思わず見とれた。


「だって、鏡は〈月の涙〉で葺くんだ。鏡は美しい。僕は美しいものが美しくあることが大好きなんだよ」


そう言って、フィラソフは黙って俯いた。二人の間に沈黙が降りる。やがて、フィラソフは何か決心を固めたように顔を上げ、「僕の正体を見ても驚かないでくれ」と言い残して鏡の中から消えた。そして、次に鏡の中に現れたのは包帯を全身に巻いた木乃伊のような男だった。スカリィは「驚かない」というフィラソフの願いを叶えてやれなかったが、平然を装えるくらいには冷静だった。〈月の涙〉は心身を破壊する。その犠牲者ということは、少なからず体の通常の状態を欠いていると予想できたからだ。


「僕はこんな姿になってしまった。それでも、美しいものが美しさを保ち、気高く在ることを見ていたいと思っている。君はそれを聞いて変に思うか?」


スカリィはすぐに首を横に大きく振った。その答えにフィラソフは不細工に微笑んだ。その不器用な笑顔を、スカリィは美しいと思った。


「ありがとう。じゃあ、笑わないで聞いて欲しい。僕が長い人生の中で一番美しいと思った存在のことを」


フィラソフは筆記具を鏡に映してくれるように所望した。フィラソフがいる鏡の中は、そこに映った物しか存在できない。存在しないものを、フィラソフは認識できないのだ。スカリィは母に頼んで黒い石版と白い石を貰った。紙やペンと呼ばれる筆記具が存在することは知っていたが、アトラジスタでは手に入らない高級品だった。スカリィがその石版と石をフィラソフがいる鏡に映すと、フィラソフの手元にも同じ物が現れた。フィラソフは「君は彼女に少しだけ似ている」と言って石を走らせた。


「彼女?」


この時からアスコラクと言う天使を、スカリィは「彼女」と呼ぶようになったのだ。フィラソフの想いを一身に受ける天使の名を、自分が呼ぶのはおこがましいと思ったからだ。


「首狩天使のアスコラクという存在だよ。彼女は僕の美の理想だよ。〈欠片〉を意味するその名前は全ての生物の美しさの集合体だと思ってる」


「会いたいですか?」


一心不乱に石を走らせていたフィラソフが、一度だけ強く頷いた。フィラソフはスカリィの顔を見て石を走らせることを繰り返した。「出来た」とフィラソフはつぶやいた。スカリィの顔を眺めて、肖像画を見たフィラソフは、「やはり及ばない」と言ってすぐに布で絵を消してしまった。その顔があまりに悔しそうだった。だから、思わずスカリィは差し出してはならない言葉を差し出したのだ。


「私で代わりは作れないんでしょうね。私は彼女になりたいです。貴方にそんなに切望されている彼女が羨ましい!」


「……出来るかもしれない」


スカリィはフィラソフの望むままに動物の数々を集め、自分の体までもフィラソフに与えた。唯一、満月の夜だけ、それが可能だった。しかし出来上がったのは天使とは程遠いものだった。しかしこの生物たちとの接合の末に、スカリィは自由で丈夫な体を手に入れた。スカリィはフィラソフが体だけではなく心も病んでいると知っていた。それでもフィラソフの望みを叶えたいと思った。だから、現在のような化け物と化しても幸せだった。ほんの少しの間だけでも、二人は同じ夢を見ていたのだ。遠い理想を手に入れるという夢だ。そして、次の目標が出来た。本物の首狩天使をフィラソフの元に連れてくるという目標だ。フィラソフという存在がある限り、首狩天使は必ずフィラソフの首を狩りに現れる。その時を逃すまいとスカリィは心に決めた。

 しかし、決心したはずの計画は思わぬところで破綻しかけた。その綻びはスカリィの胸の内で起こった。スカリィは自分のやりきれない想いと何度となく戦った。

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