1.鏡

 薄暗い部屋の片隅で、女はあめ色に鈍く光る衣装ダンスに向き合っていた。女の姿がぼんやりとタンスの表面に映っている。まるでそれは水鏡のようだった。よく使いこまれたタンスであることは一目瞭然だった。女は、そのタンスの前でゆっくり深呼吸をした。女の目は真剣だった。女は鏡開きのタンスの取手に両手をかける。元々装飾があった取手は、凸凹しているだけで、もはやかつての装飾は見る影もなく、手垢にまみれて黒ずんでいる。わずかな戸惑いの後に、慎重にタンスを開いた。蝶番が、誰かの悲鳴のような音を立てた。衣装をかき分けたその奥には上等な布にくるまれた、大きな凸面鏡が鎮座していた。ワインレッドの布が一部めくれて、鏡であることが確認できた。女はゆっくりと布ごと凸面鏡を持ち上げ、ベッドの上に置いた。鏡の重さでベッドが凹んだ。女は慎重すぎるほど大仰に凸面鏡を移動させ、ベッドと隣接する壁に立てかけた。そして布を優しい手つきではがし、大きな凸面鏡を顕にした。傷一つ、くもり一つ見受けられない見事な凸面鏡だ。日頃から大事に手入れされていることが分かる。

 女は凸面鏡に向かって、病的に青白い顔で語りかけた。


「彼女は綺麗だったわ」


 女は凸面鏡に報告するように呟いた。嬉しいと言うように声は弾んでいたが、苦しいと言うように拳を握りしめて、喘ぐようにそっと。女はぎこちない動作で椅子に腰掛けた。椅子は古い物ではなさそうなのに、女の体重でギシギシと軋んだ。もしかしたら、椅子だけは毎回壊れるたびに買い替えられているのかもしれない。

 今は夏。湿気で夜空が霞み、熱帯夜にもなるこの地域だが、女たちは肌を露出することを嫌う。そのため大きな布に覆われた女の顔は、目元をわずかに窺い知ることしか出来ない。女の瞳はくすんだ青い色をしていた。苦悩と共に刻まれた眉間の皺は、元々そこにあったというように、素知らぬ顔で女の印象を沈んで見せていた。布の膨らみから察するにかなり大柄な女である。しかも、体中が凸凹している。しかし床と布の間から時折見えるその足は、体の割りに小さく丸みを帯びている。


「私と似ている? こんなに醜い私と? 違いすぎる。似ているからこそ、そう思うのかしら。ああ、私はどうすべきかしら?」


 まるで舞台上の悲劇のヒロインのように、女は胸に手を当て、天井を仰いだ。そわそわして落ち着きのなさを見せる女だった。そのどれもが芝居がかっている。その割には声が小さい。まるで身体と言動の大きさは正反対だ。女の首にかかった黒い十字架が、女の動きに合わせて揺れる。その中に小さく光る三つの点があった。

 別の部屋で、暗闇の中で火鉢の炭が爆ぜた。暗がりの中で、赤い炭だけが鮮やかに映えた。女はそんな小さい音に大きく肩を震わせ驚いている。かなり神経質で何かに常に怯えているという印象を受ける。この臆病さは女の生来のものなのか、それとも経験に基づくものなのかは分からない。ただ、あまりに度が過ぎる態度は、周囲から迷惑がられる傾向にあるのは確かだ。

 こんなタイプの女は好き嫌いがはっきり出る。人畜無害として社会に無関心のまま隅に置かれ、有事の際にはスケイプ・ゴードとされる。もしくは神経を逆なでするとして忌避され、社会に受け入れられない。女は残念ながら後者だった。誰も女の家を訪ねて来るものはいないし、外で声をかけられることもない。むしろ女がまだ生きていることなど、誰も予想だにしなかっただろう。これが女にとっては僥倖だった。何故なら彼女は大きな秘密を持っているからだ。そんな彼女にとって、誰からも干渉されることがないこの集落での状況は喜ぶべきものだったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る