10.子守唄
グネフはサセートからナチャートに通って、寝る間もなく働いていた。豚を飼育するためだ。豚は意外に清潔好きで、豚舎の掃除は欠かせない。特にナチャートの豚は、森で放牧されて育った特級品だ。食用の豚肉はナチャート産というだけで高値で取引された。特に見学旅行者には物珍しいらしく、評判が良かった。見学旅行者の是非については議論が続いていたが、グネフにはもう無関係だったし、無関心だった。
時々、プラビェルが言っていた豚の声に耳を傾けるが、グネフにはやはり同じにしか聞こえない。その上に、やはり不快だった。そしてグネフは豚を全て売り払う覚悟を固めた。サセートからナチャートに通って仕事をしていると、長い間プラビェルを一人にしなくてはならない。プラビェルがもしも自分がいない間に何かあったら、今度こそ悔やんでも悔やみきれない。養豚仲間に嘘をついて豚を買い取ってもらうことにしたのだ。正直なことを話して、なるべく高値で買い取ってほしいところだが、プラビェルが絡んでいるとなると、誰もグネフの豚を買ってくれないかもしれなかった。プラビェルのことはもはやナチャートでは禁句なのだ。
「本当にいいのか? 早くに両親を亡くしたお前には全財産だろ?」
同じ養豚業を営む青年は、グネフが豚を手放すことに納得がいかず、何度も念を押した。
「いいんだ。俺はこれからサセートに引っ越すことにしたから」
「サセート? 何でまたあんな何にもない所に?」
グネフは仲間の「何にもない所」という表現に思わず笑いそうになった。何にもないのはこのナチャートだったはずではないか。
「病弱な妻がサセートにいて、看病が必要で、金が要るんだ」
「なあ、お前の奥さんて、あの子じゃないだろうな?」
青年は眉をひそめ、耳打ちするようにグネフにたずねた。「あの子」がプラビェルを指していることはすぐに分かった。プラビェルはその名を呼ばれること自体が禁忌なのだ。
「知ってるか? あの子、両親を殺して行方不明らしい」
グネフは「違う!」と叫びたかったが、そうすることもできなかった。グネフは嫌な汗を垂らしながら胸が押しつぶされそうな思いで嘘をついた。笑顔を引きつらせながら、なるべく明るい声を出す。そんな自分の声に吐き気がした。
「違うよ。俺の妻はサセートの女だよ」
「でも、お前と一緒に町はずれの丘からあの子が帰るのを見た人もいるんだ」
グネフは煮えくり返るはらわたを押し込み、生唾を飲んだ。ここでばれれば、お金が手に入らなくなる。お金が手に入らなければ、プラビェルの薬が買えない。だからグネフは必死に生唾を飲み込む。怒りを飲み込んで笑顔をつくる。幼いプラビェルはこんなにも理不尽で、不条理な差別に一人で耐えていたのか、とグネフは今更になって思い知ったのだ。
「そんなの見間違いだよ」
「そうか。そうだよな。変な疑いをかけて悪かった。サセートの相場は出せないよ。それでもいいのか?」
「ああ、薬が買えればそれでいいんだ」
「お前、痩せたな。ちゃんと食べてるのか?」
「俺の心配はしなくていい」
「じゃあ、これでどうだ?」
仲間は三つ指を立ててグネフに見せた。グネフの切実な事情を知って、仲間が無理をして値を言ってくれていることが分かる。グネフは感謝を込めて頷いた。
「じゃあ、決まりだな。野菜も貰ったから、つけておくよ。お前も奥さんも栄養付けないとな」
「ありがとう」
仲間は豚の代金と共に袋いっぱいの野菜をグネフに手渡した。残念ながら、プラビェルは野菜を食べることはできない。グネフ一人では余らせてしまいそうな量だった。
「こんなにいっぱい良いのか?」
「せめてものはなむけだ。持って行ってくれ。それよりも、これからの暮らしはどうするんだ?」
「サセートのパン屋で働くことにしているんだ」
「そうか。頑張れよ」
青年は健康そうな顔に笑みを浮かべ、グネフの肩を軽く叩いた。
「ありがとう」
グネフはそう言ってナチャートと別れた。
グネフは毎日のように仕事帰りに、道端に咲いていた花を摘んで帰ってプラビェルと共に愛でた。石畳のサセートではナチャートのように多くの野花を道端に見つけることはできないが、石と石の隙間に、小さな雑草が花を咲かせていた。プラビェルの好きな花はタンポポだった。グネフがよく見つけてこられたのも、タンポポの花だった。だから二人ともあの黄色い小さな花が好きになったのかもしれない。踏まれても刈られても同じ場所から生えてくるタンポポのように、プラビェルの体も強くなればいいと、グネフは願った。夜になるとタンポポの綿毛は元気をなくしてしまったが、プラビェルは家の外に出て、周りにその種をちぎって吹き飛ばして遊んでいた。そして笑いながらこう言った。
「この調子だと、家の周りだけタンポポ畑になってしまうわね。でも、それも素敵ね」
満面の笑みで語るそれは、間違いなくプラビェルの小さな夢だった。
そして虫を捕まえてきては籠に入れて二人で笑った。小さな赤いテントウムシや大きく跳ねるバッタ、美しい蝶など、その日や季節によって違う虫が籠の中に入った。プラビェルはテントウムシがお気に入りだった。プラビェルの家が元々農家で、作物に付くアブラムシをテントウムシが食べてくれるからだそうだ。
「小さくてかわいいだけじゃないところがいいのよ。でも、どの虫も同じね。虫にはいろいろな役割があるのよ。蜂や蝶は受粉を助けるし、バッタも害虫を食べてくれる。まあ、増えすぎるのは良くないけれどね」
農家だったプラビェルは、養豚業のグネフよりも虫の知識が豊富だった。グネフは一方的にプラビェルに与える立場ではなく、プラビェルから知識を与えてもらうという関係性がとても気に入っていた。
しかしそんなグネフの努力も虚しく、日に日にプラビェルはやせ衰え、よく熱を出す様になった。プラビェルはグネフから血をわずかしか貰わなかったからだ。せっかく見えていた目も、暗がりでの生活と、過度の栄養失調で視力が衰えていった。すると、人の死を予知する夢も、再び見る様になった。その頃から、グネフはプラビェルにナチャートに伝わる子守唄を歌うようになった。怖い夢を見ないように、グネフの精一杯の願いだった。
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