11.泣き声

 サセートでの生活が五年続いたある日、プラビェルは窓の外に微笑んでいた。この日には、珍しく雨が降っていた。隣町のザハトでは、雨が降ると水底に沈んだように人々の気配が消える。雨を天の慈悲と考えて、それを汚さない様にするために家に籠るのだという。グネフにはそれが雨に怯えているように見えた。まるで雨が天からの罰で、赦しを請うているようだ。外が雨音を立てていても日中はカーテンを開けることはできないグネフとプラビェルにとって、ザハトの習慣は贅沢な行為にも思えた。


「雨が嬉しいか?」


「貴方こそ、今、口元が弛んでいたわ」


「見えたのか」


グネフはバツが悪いような、嬉しいような複雑な思いがした。プラビェルはベッドから起き上がる事が出来ないまでに衰弱し、グネフは枕元にひざまづく事が多かった。プラビェルの目はまだ、この距離ならば見えるのだ。


「反対の事を思っただけだよ。ザハトの雨の日の祈りが、言い慣わしとは逆の意味に感じたから」


プラビェルはか細い声で笑った。


「奇遇ね。私もザハトの少女の事を考えていたの。今日、彼女は黒猫を拾って、それが原因で近い内に死んでしまうわ」


「自嘲?」


「羨ましかったの」


「プラビェル」


グネフは叱責する様に呼んだ。死を望んだりしないと、二人で誓ったのだ。その誓いは二人にとって過酷なものだったが、今までずっと大事にしてきた二人だけの約束だった。


「違うわ。自分の意思で、自分の体で、希望を叶えるの。とても元気で明るくて、両親想いの良い子。皆に愛されて、幸せで、それが羨ましいの」


プラビェルは熱に浮かされたように、一気に語る。これは危険な兆候だ。以前にも同じことがあって、その後で高熱が続いた。息を切らしながら、プラビェルは話し続けた。


「プラビェル、落ち着いて。いったん深呼吸しよう」


グネフはプラビェルの額に手を当てた。やはり熱がある。


「グネフ、足元に気を付けて。もっと周りを見ないと危ないわ」


グネフにはプラビェルの言うことが理解出来ない。だがプラビェルにとっては、一つの死の文脈の中にある。


グネフがプラビェルの額に反対の手を当てると、熱が上がっているのが分かった。いつもクランデーロからレカルストの実という解熱薬を安く買っていたが、もう底をついた。プラビェルの体調の悪さに薬や給料の供給が追い付かないのだ。やがて体力を消費したプラビェルは失神する様に眠りについた。


 グネフは貰ったばかりの給料を握りしめ、傘も持たずに駆け出した。プラビェルが目覚める前にクランデーロからレカルストの実を貰って帰らなければならなかった。グネフはフードを被ると、雨で滑りやすくなった地面を懸命に蹴った。グネフは様々な仕事をする内に、左足を悪くした。慣れていたものの、雨に濡れた石畳に滑って派手に転んだ。誰かが遠くで笑った。グネフは苛立ちを堪えて立ち上がり、クランデーロの店に入った。ドアの上に着いた鈴が大きく鳴った。不気味な店内に、老人が疲れた表情で鎮座する。「またお前か」と言いたげなクランデーロの目の前に、ありったけの金を叩き付けるように置く。


「レカルストの実を、全部」


「何度も言うが、気休めにしかならない」


「見殺しにしろと?」


「辛いのは自分だろ?」


クランデーロはレカルストの実を袋ごと出した。


「彼女が苦しんでいるのを見ていられないだけだ。安楽死も尊厳死の範疇だとは思わんか?」


このクランデーロの言葉に、さすがのグネフも堪忍袋の緒が切れた。


「間違っている。あんた、それでも薬屋か! 死んで人が幸せになるなんて、あって良いのか!」


雨音が満ちる店内に、グネフの怒号が響いた。


「今度同じようになったら、終わりだと言ったはずだ。もう助からない人間に、これ以上薬は売れん」


グネフはクランデーロの胸ぐらを掴み上げた。


「人でなし!」


「この薬は庶民の命綱。必要としている人間は他にも沢山いる。今回が最後だ」


グネフは奥歯が砕けそうになるまで噛み締めて、クランデーロを放した。


「分かった」


グネフはレカルストの実を貰って足早に外に出た。ちょうど出入口で、金髪を肩の所で切りそろえた女の子と入れ違いになった。緑色のワンピースに、白いエプロンをしていた。女の子には不釣り合いな古くて黒い傘を持っていた。一瞬、その女の子と視線がぶつかった。怯えているような、縋っているような、それでいて強い光を持つ瞳だった。グネフと女の子は、その一瞬で何かを互いに感じあったが、すぐに別れた。お互いに急ぎの事情があったからだ。クランデーロの猫なで声に舌打ちして、グネフは帰路を急いだ。

 グネフが家に帰ると、プラビェルが布団ごとベッドから滑り落ちていた。プラビェルは乾いた唇から血を流し、細い手足を懸命に突っ張ってドアを目指していた。自分から外に出ようとしていたのだ。グネフは慌ててプラビェルを抱えてベッドに戻した。


「一体どうして? いつ晴れ間がのぞくか分からないんだぞ!」


「五年、だから……」


息を切らしてプラビェルは言った。まだ熱にうかされている。


「今日であの予言の年だから。だから、最後にもう一度外に出たかった。光の溢れる世界を見たかった」


「最後なんて言うなよ。君までそんなこと、言わないでくれ!」


グネフは泣きそうな声で言った。


「どうしたの? 何かあったの?」


プラビェルが差し伸べた手を、グネフは強く握り、一つの決断を下した。プラビェルの呪いを解く方法は一つだけある。もう、薬は買えない。この一年間で二人とも死ぬかもしれない。だったら、やるしかない。グネフはプラビェルに覆い被さった。そしてプラビェルと自分の服を剥いだ。二人分の体重に、古いベッドがギシギシと音を立てる。


「何してるの? 駄目よ、グネフ。貴方が危険だわ」


一糸まとわぬ姿になったプラビェルは、同じく裸になったグネフを拒絶した。それでもグネフは力任せにプラビェルをベッドに押さえつける。


「僕達は夫婦だ。五年間もずっとお互いに触れ合わずに過ごしてきた」


「夫婦」という言葉に、プラビェルの抵抗が和らいだ。五年間も片時も離れずにお互いを想いあって過ごしてきた二人だ。もはや「幼い恋人」という言葉以上のつながりになっていた。二人の関係は「夫婦」以外の何ものでもなかった。


「悪魔の思う壺だわ」


プラビェルはなおもグネフを拒絶しながらも、涙を浮かべた。


「死ぬ前にしたいことは、外に出ることだけ?」


プラビェルは沈黙した。グネフとの子供が欲しい。自分が手に出来なかった温かい家庭が欲しい。それを望まない日はなかった。しかしプラビェルはその気持ちを見ないふりをしていた。物心ついたときから、両親はもちろん、ナチャート中の人々の愛情の中で育った。その愛情を自分の子供にも体験させてあげたかった。


「駄目よ、グネフ……」


そう言うプラビェルの体は、もう拒絶する力もなかった。やがて、プラビェルの嬌声があがった。二人はベッドの中でもつれ合い、体と唇を重ねた。お互いを確かめ合う最後の機会になると、お互いが理解しあっていた。全てが終わった後、プラビェルは叫んだ。


「嬉しいのに、こんなの酷い。どうして私だけ! どうして私達だけ!」


プラビェルは泣き出した。グネフはプラビェルと結ばれたが、最悪の気分だった。白悪魔の笑い声が聞こえるようだった。




『愛した女を冒す気分は?』 




そう問われている気がした。プラビェルはずっと泣いていた。グネフは罪悪感の中でも安堵していた。これでプラビェルは人間の食事が出来るし、晴れた日に外に出られる。しかし、グネフ自身がどうなるかは分からない。現在の異変は右目が痛いことぐらいだ。

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