7.讃美歌

 その晩、グネフはプラビェルの家の外にある物置小屋に隠れていた。物置小屋には、グネフが背伸びをしてようやく届く高さに、汚れた窓が一つだけついていて、そこから家の様子がうかがえるようになっていた。中には土のこびりついた鍬や肥料などの農作業用品があって、狭いうえにひどく臭かった。それでもグネフは明かりのついたプラビェルの家を汚れた窓を拭きながら見張っていた。見張ると言っても、プラビェルから聞いた家の間取りとランプの灯の位置から、誰がどの部屋にいるのかを推測するしかできなかった。何か異変があった場合には、プラビェルが大声で助けを呼ぶことになっている。


しかしその夜は、何事もなく過ぎて就寝の時間を迎えた。 家の灯火が消え、プラビェルも外にいるグネフにランプを振って合図を送り、ベッドに入った。


プラビェルは今度こそ自分の夢が外れることを願ったが、また悪夢が眠りに着いたプラビェルを襲った。それは今までにないほど鮮明で残酷な夢だった。両親の寝室に、プラビェルが入るところからその夢は始まった。夢の中で、両親はベッドに横たわったまま二人とも死んでいた。夜でランプもない部屋だったのに、部屋中に飛び散って床に流れる血の赤い色が鮮やかに見えた。そしてその赤い色とは不釣り合いなほど美しい一羽の白い鳥が、両親の体の上に立っていて、父親の心臓を抉り出して食べていた。母親の心臓はもはやなくなっていた。鳥が心臓をついばむ音が、ぴちゃぴちゃと不快な音を立て、部屋には錆びた鉄の臭いが充満していた。


 この光景にプラビェルは汗だくで飛び起きた。プラビェルは急いで両親の寝室へと向かった。不思議なことに、プラビェルは家の中がはっきりと見えるようになっていた。しかし、そんなことに戸惑っている余裕は今のプラビェルにはなかった。生臭い鉄の臭いが、鼻をついた。両親の寝室のドアを開けると、羽音がした。大きな鳥の羽ばたきを容易に思い出させる音だった。その羽音を出していたのは、鳥ではなかった。プラビェルの目の前に降り立ったのは、純白の翼を持った一人の天使だった。その天使は神々しい金髪に、深い慈悲に満ちた青い瞳を持っていた。肌は真っ白で女性のようだが、少年だった。天使は悲しみと慈悲に満ちた双眸で、プラビェルを見下ろしていた。天使の背後のベッドには、夢と寸分違わない両親の死体が寝ていた。


「可哀想に。貴女の両親はもう亡くなりました。貴女の両親は、主が助けてくれないならと悪魔に願いをかけたのです。自分の心臓と引き換えに娘を助けて欲しいと」


「何てことを……!」


プラビェルは口を覆って震える声を出した。プラビェルが思わず後ずさりしようとすると、天使がその肩を抱いて耳元に囁いた。


「ほら、見えるでしょう? 両親の命と引き換えに、貴女の目は見えるはずです」


プラビェルは頭を抱え、体を震わせた。プラビェルの両親は自分のベッドの上に仰向けのまま死んでいた。胸が抉られ、大量の血液が床にまで垂れていた。それが、プラビェルの見た最初の光景だった。


「どうしたら、助かりますか? 両親は過ちを犯しました。しかし私が償います。ですから天使様、どうか助けて下さい」


プラビェルが叫ぶように天使に縋ると、天使は憂いを帯びた表情で目を伏せた。


「死んだ者をむやみに生き返らせる事は出来ません。しかし方法が一つだけあります」


天使は美しい顔に苦悶の表情を浮かべ、プラビェルを見つめた。


「何でもします。運命を変えたいんです」


プラビェルの脳裏にはグネフの言葉が渦巻いていた。




『君の両親を助けるんだ!』


『できるかどうかじゃなく、やるんだ!』


『これは運命なんかじゃない!』




「貴女の心臓を両親に分け与えるのですよ。自分の命と引き換えに、両親を救えますか?」


「構いません。ただ、その際には、両親の記憶から私の存在を消して下さい」


プラビェルは即答していた。形は歪だったかもしれないが、必死にプラビェルを守ろうとしていた両親だった。もしプラビェルが自分たちの為になくなったと知れば、悲しみ、自分たちを責めるだろう。両親にはそんな人生を歩んでいてほしくなかった。両親には新しい健康な子供が産まれ、三人で幸せに暮らしてほしかった。


天使はそっとプラビェルを抱き寄せた。純白の天使の衣に顔を埋めたプラビェルの目からは、幸せのあまりに涙が溢れた。プラビェルは人を助けるということはこんなにも切なく、優しいことなのだと知った。過去の自分は何と傲慢だったのだろうと恥じた。人を救うということは、人に死を与えるのではなく、生を与えるということなのだ。天使は慈悲深い微笑を浮かべて、そんなプラビェルの頭を優しく愛撫した。


「貴女は何と優しい子供でしょう。きっと願いを叶えて差し上げましょう」


天使の手のひらがプラビェルの心臓の上に添えられた。ちょうどそのとき、外から讃美歌が聞こえてきた。高音になるほど掠れるその歌声は、グネフに違いない。もう帰ってしまったかと思っていたが、まだ帰っていなかったのだ。


「天使様、彼の記憶からもどうか私の記憶を消して下さい。そして彼にも主のご加護を」


「彼も貴女の大切な人ですか?」


「はい」


プラビェルははっきり答えた。


「そうですか」


天使の声音がわずかに笑った。そして次の瞬間、プラビェルの首に鋭い痛みが走った。天使はプラビェルの体をそのまま抱き抱えて外に出た。プラビェルはその乱暴な行動に驚いた。


「その耳障りな歌を止めなさい」


天使は相変わらず優しくも凛々しい声で、諭すようにグネフに言った。グネフは喉を押さえながら、天使を睨み付けた。


「プラビェル、騙されるな。そいつは天使様なんかじゃない。白悪魔と呼ばれる種類の悪魔だ!」


「貴方ごとき些末な存在が私をどうにか出来ると思いましたか? 笑止千万。その報い、己が人生で受けるが良いでしょう。この娘には呪いをかけておきました。これを解くにはこの娘と契るしかありません。さもなくば、この娘は太陽が毒となり、人間の生血しか受け付けなくなるでしょう。ですが、この娘と契った者は、もはや人ではなくなります。狂気と殺意に侵され、生きた屍となるのです!」


天使の姿をした悪魔は、昂然と言い放った。その語尾はやはり笑いを含んでいた。まるでこの状況を見物して楽しんでいるかのようだった。プラビェルの細く白い首筋には蛇が咬んだような穴があった。白い悪魔はそこに手を添え、慈悲の瞳で見下ろしながら鼻で笑った。


「私からの贈り物、気に入ってくれるといいのですが」


グネフは鍬を手に悪魔に猛然と殴りかかった。しかし悪魔は純白の翼を広げ、優雅な動きで屋根の上に飛び乗った。


「ほら、気を付けなさい。夜が明けますよ!」


白い悪魔は朝日を背負って神々しく輝いた。真っ白な翼は、それ自体が発光しているかのように、濡れた百合のように輝いていた。そして笑い声を残して、朝日に向かって飛び去った。その行動がプラビェルへの当て付けであることは明白だった。もはやプラビェルは夜の住人だ。彼女はもう二度と夜明けをの場所に立つことは叶わない。せっかく目が見えるようになったにもかかわらず、だ。黎明の空が迫る。グネフは絶望的な思いでその空を見る。プラビェルは自分の首を締める様にして、その場に座り込んでいた。朝日が迫り、影を生む。プラビェルは家の影にいた。しかしその影もみるみる内に短くなっていく。グネフは動こうとしないプラビェルを朝日から守るように抱き抱えて、二人一緒に転げるように軒下に入った。その瞬間、朝日がプラビェルがいた地面を照らした。


「大丈夫?」


胸を撫で下ろしたグネフが腕の中のプラビェルに尋ねると、プラビェルは小さく頷いて体を起こした。プラビェルは暗がりから光に向かって手を伸ばした。初めて見た光は七色ではなく、音楽の様にきらびやかで、そして焼けた鉄の様に熱かった。


「きゃっ!」


プラビェルは叫び声をあげて倒れた。光に触れた中指から異臭がした。指先は真っ赤に腫れ上がり、小さいトマトを指にはめた様になっていた。すぐにそのトマトは腐って黒ずみ、どす黒い血となって溶け落ちた。それは恐ろしい光景だった。指先に一瞬触れた日光が、プラビェルの指先を奪ったのだ。二人は自分達がさっきまで立っていた場所を見つめて息を飲んだ。全ての者に活力を与えるその光が、禍々しい死の光になった。まるでプラビェルただ一人が世界から排除されるべき存在の様だ。プラビェルは失った指を覆って泣いた。グネフはプラビェルを家の奥に伴い、日没を待つことにした。


しかし、時がたつにつれ、事態の深刻さを突き付けられることになった。プラビェルは食べ物はおろか、水の一滴すら飲めなかったのだ。無理に飲み込めばすぐに吐き出し、喉を通らない。それでも無神経な腹の虫は空腹を訴える。腹の虫を黙らせる方法は分かっている。しかし、これ以上プラビェルを人の道から外させるわけにもいかない。プラビェル自身もそれを望まないだろう。


日が暮れた頃、グネフは一つの決心をした。

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