第7話 夜 ~月下狂人~

 月光は街を洗うように注がれていた。錆びた鉄柱や蔦草つたくさに覆われた廃屋、アスファルトのひび、吹き溜まったチラシやビニール袋。月は汚れた一切に、るべきオブジェのような必然性を与え、芸術味を付け加えていた。

 僕や彼女、そして壬生みぶも、その光を全身に浴びたのだ。ここが居場所なのだとさとされるように。だからこそ安心して中身をさらけ出したのだ。おりごとく積もり積もった名前のない内容物を、ひとつひとつ掬い取って並べて見せて。




 その晩は、壬生ひとりが流木に座っていた。いつもの黒のドレスをまとって。時刻は午前一時半。そこに彼女の姿がない事に幾らかの安堵を覚えた。いてはいけないのだ。この女と関わってはいけなかったのだ。


「ごきげんよう」


 壬生は気抜けした口調で呟いた。いつもの演出的な雰囲気も、耽美たんびな仕草も見受けられない。

 それでいい、と思う。壬生は彼女の感情を奪い取って、それを栄養として夜の姿を育て上げたのだろう。結局はエゴでしかない。


月岡つきおかさんはもうここには来ないと思う」


 流木に腰掛けて月を眺めた。白骨のように滑らかで生気のない色だ。そこに鬱屈した、厭世的えんせいてきな魅力を感じないではなかったが、殊更ことさらに惑わされるものでもない。


「そう。残念ね」


 壬生はどことなく上の空だった。きっと、彼女に連絡を取ろうとしても無視されたのだろう。それだけの事をいてきたのだ。そうして今日、あの瞬間、分水嶺ぶんすいれいを超えてしまった。ただそれだけの事だ。


「でも、月岡クンがしっかり生きてくれればそれでいいよ」


 弱々しい声だった。壬生は、彼女を支配するなかで自分自身の大切な何かと結び付けて強く依存していたのかもしれない。だからこそ落胆し、憔悴しょうすいし、それでも彼女の今後を想わずにはいられないのだ。

 ほんの少しだけ、哀れだった。


「ねえ、ちゃんと生きていけると思う?」


「生きていけないとしたら、そう仕向けたのは壬生さんじゃないのかな」


 壬生は目を伏せた。「そうかもね」


「けど!」と顔を上げて僕を強く見据える。「そうでもしないと、月岡クンは死んでしまったかもしれない」


 錯覚だ。どれほど穿うがった見方をすればそんな光景が描けるというのだろう。


「けど、死ななかったかもしれない。いずれにせよ、壬生さんは月岡さんの生き死にに関与すべきではなかったんじゃないかな。死ぬのなら死ぬで、それは彼女だけの意志じゃないか。それをき混ぜて、狂わせて、それで心配しているなんておかしな話だよ」


 壬生みぶは自分の膝に顔をうずめてじっとしていた。ポーズではない。それくらいは判別できる。壬生も高校一年生の女子なのだ。僕と同じ子供だ。或る種の子供がそうであるように、厭世的で、憂鬱で、特別な非日常を求めずにはいられなかったのだ。客観的にそれがどんなに愚かしい事かも分からずに、ただ月夜に招かれて妙な芝居が始まってしまったのだ。

 壬生は芝居がかった夜の自分に忠実でいただけなのかもしれない。それで何かがゆるされるとは思えなかったが、少なくとも同情の余地はある気がした。


 壬生はきっと夜を捨てるだろう。そうして真昼の自分だけで立って歩いて行くのだ。そうでなければ、このひと夏の意味がなくなってしまう。


 そうして僕は、と考える。僕はどうなるのだろう。自分の事となると途端に分からなくなる。しかしながら、ホテルからの帰り道、脳を直接殴られたような茫然自失の只中ただなかで、胸のうずきだけは消えずに存在していた。今でも違和感として残っている。

 死骸しがいかもしれない、と思った。空虚な自分の死骸が、心に爪を立てているのかもしれない。


 空虚さが消えたら、僕は感情を正しく維持できるようになるのだろうか。きっと、すぐには無理だろう。長らく続いた習慣から抜け出すには相応の時間と苦労が必要だ。それでも少しずつ、物事を正面から感じ、それなりの傷と責任を負い、流れる血を意識して歩くのだ。


「正論なんて誰にでも言える」

 壬生はスカートに顔をうずめてもごもごと呟いた。


「誰かが正論を言わないと終わらない事もあるんじゃないのかな」


「でも、私は変わる事の力を信じてる。月岡・・にも、今の自分じゃない別の自分を持って欲しかった。昼と夜で、全く違う生きかたをすることで救われて欲しかった」


「壬生さんは中身のない感情を月岡さんに与えて、夜だけは本物の感情を持って欲しかったって事?」


 鼻を啜る音がした。「うん」


「無理だよ。みんながみんな壬生さんぐらい器用じゃないんだ」


 波の音が沈黙を埋める。打ち寄せるそれは銀の絨毯のようだった。美しくないわけがない。


「それでも私は、昼と夜をずっと続けていく。それで誰かを巻き込んだって構わない」


 それは静かな叫びだった。

 なんだ、と気付く。みんな壊れているじゃないか、と。僕も、壬生も、彼女も、そして死んだあの子もきっと。


「壬生さんは間違ってる」

「うるさい」

「間違ってる」

「うっさい」


 壬生は一向に顔を上げようとしなかった。泣いているのかもしれないし、ただ顔を見せたくないだけかもしれない。いずれにせよ、むきになってねているようにしか見えなかった。昨晩のあの独演会は僕の見た幻覚か、月の魔物が壬生に乗り移っただけなのかもしれない。


 月が次第に欠けていくのは当然だ。完全な満月の夜を永久に繰り返す事などできっこない。壬生も頭では分かっているに違いない。けれども夜の壬生は、満月に近い月光の下でしか生きられないのだ。それも、特別晴れた晩だけ。


 極めて限定的な瞬間に特別感を見出すのは不思議な事ではないと思う。それに魅入みいられて、過剰に求めてしまうからほころびが生まれるのだ。初めから決まったものとして捉えればそうした間違いは起こらないだろう。これは空虚から得た唯一の教訓だ。あまり多用すべきものではないと思うが。


天田あまだ

「なに?」


「私はこれからも間違い続ける」

「なんだそれ」


「だから」

「だから?」


「そのときは正論を言ってよ」

「いいよ。でも、絶対認めないでしょ」


「……認めない」

「なんだそれ」


「私は頑固だから。でも、言って欲しい。後でちゃんと後悔できるように」

「そっか。分かった」


「……ありがとう」


 僕たちはずっとそうして座っていた。夜と朝の境界、曖昧な薄明はくめいに浜辺が照らされる頃まで。

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