第6話 昼 ~夏の蛹~

 壬生みぶからの指令が届く数分前に目が覚めた。そのままうとうとと布団でぼんやりしていたら、スマートフォンが何度か震えた。普段誰とも連絡を取り合わない僕は、すぐにそれが壬生からのメッセージだと察する。

 重たい身体を起こして画面を眺め、僕は身支度を始めた。


【昨日と同じ時間、同じ行動、同じ行為を遂行する事】

【不測の事態が起こった場合は一旦しかるべき行動を取ったのち、元の場所で同じ行動を遂行せよ】

【絶対条件:成人済みに見えるような服装、行動をする事】


 指令は決して難しいものではなかった。昨日の指示内容自体は覚えていたし、おおよその時刻も頭に入っている。昨日のメッセージをさかのぼるまでもない。指令を無視するような逃げ道を見つける必要も、その開放感を目指すつもりもない。昨晩暴かれた事が本当なら、逃げ道を探す真似はしない。

 加えて僕は、元々実年齢よりも幾らか年上に見られる傾向があるようだし、服装だってグレーのシャツとジーンズに中折れのハットを合わせれば何とか大学生くらいには見えるだろう。


 真昼の外気は、昨日と同様の熱に満たされていた。気怠けだるい感覚があったが、それでも僕は公園に向かう。彼女のために必要ならば、それは充分な動機になる。


 昨晩の混濁した感情の渦はすっかり消え去っていた。壬生の話を聞きながら、信じるべきか否かをぐるぐると巡っていたのだが、昼に帰ってしまえばそうした煩悶はんもんことごとく霧散する。すべき事を考えるなら第一に指令通り彼女と過ごすべきなのだ。壬生の語った内容の一切を、細大漏らさず信用する気にはなれなかったが、僕に行動を迫る様子は理屈を超えていた。そうするだけの必然的な理由があるに違いない。ならば動かないわけにはいかないだろう、というのが一応の結論である。


 しかしながら、やはりどこかで冷めていた。僕が行為したところで壬生みぶの期待する効果が得られるとは思えないのだ。そもそも感情の一時的な表出を学び取る事なんて、心を切り開いて感情を物体として確認しなければできないのではないだろうか。そんな思いわずらいも僕の足を止めるに至らなかったのは、やはり彼女という存在が重要だからなのかもしれない。何故と自問してもしっくり来る答えは出なかった。恋と呼ぶには大袈裟で、他人と位置付けるにはあんまり卑屈過ぎる。かといって友達でもない。重要度を裏付けるエピソードもない。結局のところ分からないのだ。僕自身の行動原理だって分からない事だらけなのに、それをぴたりと言い当てた気になって、それをアテにして助力を申し出る壬生は、何か大きな誤りをおかしているのではないだろうか。


 真昼の渦中にいて、思考は上手くまとまらない。どんなに考えを掘り下げようとしても、途中から虚無の視線に切り替わり、まるでどうでもよくなってしまう。




 公園に着くと、彼女は昨日と同じ場所で待っていた。白地にブルーの縦線が入った半袖のシャツに、膝下程度の長さのフレアスカート。色は臙脂えんじだった。アイスの染みは目立つだろうな、なんて思いながらベンチに腰掛けると、彼女は薄っすら微笑んで見せた。


 僕が感慨なく棒アイスを手渡すと「ありがとう」なんて返す。声音こわねにも、表情にも、ぎこちなさがあった。無理を承知で前進しようとしている。しかも、死んだように生きるという馬鹿げた目的のために。

 しかし僕は彼女を説得する事も、壬生の影響から離れようとする事もできなかった。全てが悪い方向にしか行かないならば、その中でも多少はマシな結末を想定すべきなのだ。きっと、そうだ。


 彼女のスカートに広がる染みを眺めながら、僕はアイスを舐め続けた。こうした行為を壬生みぶがずっと続けていたとするならば、それは確かに苦痛でしかないのだろう。それなりの覚悟を持っていなければ到底できっこない。

 ふたり分の棒アイスをごみ箱に捨て、彼女を立たせてスカートを這う蟻を払う。またしても御馳走がやって来たのだ。蟻としてはご機嫌だろう。

 彼女は「ごめんなさい」と呟いて眉尻を不器用に下げた。


 僕は何も言う気になれず、べたついた彼女の手を取り繁華街を目指した。今日は自販機で飲み物など買う理由もない。彼女か僕が熱中症で倒れたならば、それは僕の責任ではなく指示に不足のあった壬生の負うべき責任だ。それに、全て忠実にすという事は、同時に、指示外の行為はあってはならないとも言い換えられる。それで壬生の思惑通りに物事が進行するならば言う事はない。ただ黙して従い、彼女が然るべき変化を遂げるのを待つだけだ。


 満月の夜に、僕は彼女をさなぎだと感じた。壬生の考える通りだと、がらんどうの蛹に何かを詰め込んで完成と呼ぼうとしているふうにしか思えない。それは生物足りえないのではないか。まあ、どうでもいい。疑問がいては散っていく。


 昨日のホテルの前で、僕たちは手を繋いで一時間を過ごした。その間、彼女はずっと無言だったが、恥ずかしそうに俯いて見せていた。




 一時間後の指令で、僕は今日初めてたじろいだ。同時に、壬生みぶは狂っていると確信する。


 いわく【ホテルに入れ。費用は月岡が負担する。入り次第、彼女の貞操を奪え】という滅茶苦茶な命令だった。幾らなんでも、と思う自分と、馬鹿らしいからやめにしようと呆れる自分がいた。いずれにせよ、これを実行する気には到底なれない。


 彼女が伸びをして僕の耳に囁いた。


「ねえ、早く入ろう」


 眩暈めまいを感じた。確かに彼女は僕の携帯電話を覗き見れる距離にいた。しかし、こんな不条理な指示を真に受ける必要などないのだ。そもそも、壬生は彼女を傷つける事はしないと言った。その役目を僕に背負わせるというのだろうか。


 行こう。行けばいい。どうでもいいじゃないか。行って、彼女をけがせばそれで壬生は満足する。彼女も先に進める。何で僕が足を止めなければいけないんだ。結論は昨晩出たのに。


 そこは無人式のホテルだった。値段や内装がパネルに表示されており、それを押してコースを決め、先払いする方式のようだった。僕はろくに見ないままパネルを押し、一番短い三時間の休憩コースを選んだ。彼女が清算しているようだったが、僕はその光景から目をらしていた。女性にホテル代を支払わせる人生を送るとは思っていなかった。それは勿論、避けたい人生のひとつである。


 部屋に入ると、唐草模様が描かれたクリーム色の壁の真ん中に天蓋てんがい付きのベッドが鎮座ちんざしていた。後はガラス張りの小さいローテーブルと、ふたり掛けのソファと、その向かいにはささやかな液晶テレビが設置されている。奥には扉があり、恐らくは風呂場に続いているのだろう。行為のための部屋。ただそれだけの印象だった。


 言うまでもないことだが、興奮はしていた。こんなシチュエーションで、と呆れる以上に、自分自身の貞操観念の薄さに驚いてしまう。詰まらない、空虚だ、くだらない、なんて思いながらも肉体はそれとは隔離されている事に思い至ってしまう。性交渉が神聖ではない事くらいは知っていたが、あまりにも無為むいではないだろうか。僕は様々な意味で彼女が気になっているが、彼女にとって僕は意思を持って動く張り型みたいなものだろう。そんな具合に考えても一向にえない自分は、根っこの部分からどこかおかしいのかもしれない。他の男の股間と感情がどのように結びついているのかは分からないし、別段知りたくもなかったが、僕はどうも、接続部分が狂っているのか、そもそも独立した存在なのだろう。


 僕は彼女の肩に手を回す。わざとらしく身震いする彼女に、或る種の尊敬さえ覚えた。今から蹂躙じゅうりんされると知っていながら、それでも演じ続けるのなら、彼女は既に完成しつつあるのかもしれない。その成長速度は焦りからだろうか。そこに亀裂はないのだろうか。


 彼女と向き合い、ベッドに押し倒した。順序なんて気にならなかった。気持ちを高める必要もなければ、欲望を満たそうとする気もない。そうしなければ前進できないというのなら、最短ルートでそこに至ればいいではないか。この一幕を記憶として大事に取っておこうなんて、お互いに考えていない筈だから。


 愛されていないのに受け入れられ、それで愛することができるほど、僕は強くはない。


 彼女のシャツのボタンをひとつずつ外す。キャミソールは初めて見たが、随分質素なものだと感じた。それを剥ぎ取ると、これまた愛想のない白のスポーツブラを着けていた。


 僕は手を止める。これは、死んだあの子の再現なのではないだろうか。すると僕は、一体何者として彼女には映っているのだろう。その双眸そうぼうは、僕を僕として見つめているのだろうか。


「月岡さん」


 思わず名前を呼ぶ。彼女は何も言わず、今にも崩れそうな無表情に戻っていた。

 続く言葉が見当たらなかった。何を問いかければ、僕を僕として認識してくれるだろう。それで何が満たされるわけでもないが、少なくともこの分厚い仮面を被った卑劣で必死な芝居は終わってくれるのではないか。


 僕が言葉を探しているうちに、この無様ぶざまな演劇は終わってしまった。


 彼女は無表情のまま、大粒の涙をぼろぼろとこぼしたのだ。それは絶え間なく流れ出て、仰向いた彼女の側頭を濡らしていった。

 僕は身を起こす。


「やめよう。君はもう、これ以上ないくらい壊されてしまっているし、傷ついてもいるじゃないか。壬生みぶには君とヤッたって伝えておくから、何も心配しないでいい」


 彼女は両手で顔を覆った。涙はきっと、しばらく流れ続けるだろう。


 僕は部屋を出る事に決めた。いつまでも彼女のそばにいる事は、酷く残酷な仕打ちなのだ。部屋を出ると、慟哭どうこくが耳を貫いた。




 街をぼんやりと歩いていると、黒々とした名前の付けられない感情の渦も次第に小さくなり、やがて消えたように思えた。しかしいつもの虚無感には切り替わらない。


 じくじくと、うずくような胸の痛みが続いた。

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