第3話 昼 ~僕と彼女とそれから壬生と~

 目が醒めたのは昼過ぎだった。グレーのチェックのカーテンから真昼の陽気が溢れ出している。起き上がり、不確かな足取りで、急な階段を一歩一歩確かめるように降りる。それから真っ直ぐ洗面所に向かって、汗で不快に湿ったパジャマを洗濯機に放り込んでシャワーを浴びた。

 着替えを済ませ、薄暗い台所に入ってコップ一杯の水を一息で飲み干す。


 両親は既に仕事に出ているようだった。テーブルの上には千円札が、小さなアマガエルの置物を文鎮ぶんちん代わりに置かれている。

 いつからメモがなくなったっけ、とぼんやり考える。昼食代に千円を置くのが習慣化され、以前は毎日残されていた書置きもいつしか見なくなった。

 感慨なく紙幣しへいを掴み、確かに必要ないなあ、と考える。充分に意図は伝わっているのだから、改めてメッセージを残す意味なんてない。


 椅子に腰かけて、埃っぽい食器棚を眺める。目に見える生活の風景が、どこまでも白々しく感じた。これならばかえって昨晩の壬生みぶのほうがずっと真実味がある。真昼の家は嘘に塗り固められているみたいだ。


 目をつむって机に突っ伏した。まだ眠気が取れない。夜の光景が閉じた瞼の裏でぐるぐると展開されている。こうして昼の空気の中にいると、その記憶は夢のように遥か遠くに去っていく。幻燈げんとう。そういった類のものなのかもしれない。


 スマートフォンが震えたのでポケットから出すと、メッセージが届いていた。それを確認した僕は、はやる心を落ち着かせて玄関へと向かう。白昼夢の只中ただなかにいるのかもしれない、と思った。




 ふたりぶんの棒アイスが入ったビニール袋を提げて公園に着いたとき、彼女は既にベンチに座っていた。真っ白なシャツとせたジーンズを、木漏れ日がまだらに染め上げている。彼女は想像した通りの無表情だった。真夏のさなぎ、というフレーズが思い浮かんだがすぐ取り消した。あまり気分の良くならないイメージだから。


 彼女の隣に腰かけて、無言で棒アイスを手渡す。微かに頷いて、彼女は受け取った。一瞥いちべつさえくれないその態度は嫌いじゃない。僕は自分のぶんの棒アイスを舐めた。爽やかなソーダ味が喉をどろりと流れていく。うっすらとかいた汗が引いていく感覚が広がる。

 彼女は棒アイスを手に持ったまま、静止している。その手を甘い水滴が伝ってジーンズに落ちた。そこからは決壊したように、ぼたぼたぼたと絶え間なく流れ続ける。砂場で遊んでいた子供がぎょっとしてこちらを見つめていた。僕は彼女への敬意と、壬生への嫉妬を同時に覚えた。


 昨晩、壬生みぶは結局彼女の全て・・・・・とやらを教えてくれなかった。ギブアンドテイク、まずは与えよ、との事である。壬生は僕に対してスマートフォン越しの指令を送り、それを遺漏いろうなく実行さえすれば包み隠す事なく一切を披歴ひれきすると約束した。だからこそ僕は忠実に従っている。

 壬生が最初に寄越したメッセージは【駅前の公園に行け。棒アイスを二つ購入すること。メーカーは問わない】だった。続けて届いたのは【公園に着いたら月岡つきおかさんの隣に座り、棒アイスをひとつ手渡せ。もうひとつは天田あまだが食べる事。なお、彼女がそのアイスをどうするかには一切無反応でいる事】であった。

 思うに、彼女も壬生から指示を受けているのだろう。でなければ級友から無言で渡されたアイスを溶けるがままに見つめ、自分の服を汚す理由がない。


 僕はアイスを舐め尽くすと、ビニール袋にハズレの棒を入れた。彼女は相変わらず微動だにしない。もうアイスは溶けきっているように見えた。一切無反応でいる事、との指示だったが、なんだか嫌になって彼女にビニール袋を渡した。

 一瞥。そののち、彼女はどろどろの棒切れを袋に捨てた。なんとなくだが、彼女のアイスはアタリであるような気がしてしまう。でなければ、あんまりだ。


 ビニール袋をゴミ箱に捨ててベンチに戻ると、彼女のジーンズにありがたかっていた。

 ポケットが震える。画面を見つめてから、僕は彼女のべたついていないほうの手を取って、立ち上がらせた。そうしてジーンズにたかった蟻を慎重に払ってやる。


【月岡を立たせて、服が汚れていれば払ってやる事】


 彼女のもう片方の手を緩く握って、僕は歩き出す。彼女はすぐさま僕の歩調に合わせて、横に並んだ。やたらとべたつく手のひらは、汗を紛らわせてくれるようで却って安堵かんどしてしまう。そしてあてのない振りをしながら繁華街を目指した。


【アイスまみれの月岡の手を握って、繁華街へ歩け】


 緊張していた。多分彼女も。

 こんな命令を下され、それに素直に従ったところで本当に知りたい事が知れるとも思えなかった。夜の壬生みぶがフェアに約束を守るようには見えない。それでも僕は忠実に動くのだ。そうする事でしか、昨日の特別な夜を維持できない気がしたから。


 今、アスファルトから立ち上る熱気の先で不安定に揺らぐ陽炎かげろうは、きっと夜の世界に繋がっている。それも、地続きで。蒸した大気から、針のように鋭く冷たい非日常が伸びている様を想像する。

 僕と彼女は、肉をえぐり、肌を刺し貫くそのやぶをゆくのだ。

 傷だらけの身体からほとばしる血液を見て満ち足りた気持ちになるのだ。


「痛い」


 彼女が呟いてはじめて、僕はその手をあまりに強く握り締めていた事に気が付いた。

「ごめん」と言って反射的に離した僕のひとさし指を、彼女はきゅっと掴んだ。


 乱れた歩調と呼吸を、それと悟られないように祈りながら整える。きっとこれは壬生みぶの指示であるに違いないのだが、それでも自分の心の殻に近い部分がさざ波立つような感覚が絶えず起こっている。一方で、自分自身の反応にどこか白けている自分もいた。肉体から遠く離れた場所で、僕を見ている僕がいる。


 中学生の頃、太宰だざいおさむの「トカトントン」を読んだ事があった。金槌の音が聴こえると、情熱や意志がことごとく霧散し、すぐ放り出してしまう男の話だ。僕には金槌の音色の代わりに、冷めた視線を持つ別の自分がいる。その目にさらされると、たちまち立場が入れ替わり、冷めきってしまうのだ。

 ただ、あの夜に対する印象はまだ純粋に保持されている。月光の下では、無気力な眼差しも力を持たないのかもしれない。




 繁華街に辿り着いても彼女は僕の指を、少しだけ力を込めて握っていた。

 スナックやバーの看板は、真昼の光に潰されて死んでいた。それら店舗の二階には洗濯物がぶら下がっていたり、小さな植木鉢が置かれていたりした。夜の目からは決して観察できない舞台裏の寒々しさ。壬生みぶじみている、と考えて少し愉快な気になった。昼と夜では姿かたちも意味合いも全く反転してしまう。そのくせ、背中合わせで支え合っている健気けなげな営み。


 自販機で立ち止まると、彼女も少し遅れて足を止めた。五百円玉を入れると、一斉にランプが灯る。


「どれがいい?」

 聞くと、彼女は首を振る。要らない、と言いたいのだろうか。それとも、ここで立ち止まるのは指示に含まれていない、という指摘なのだろうか。どちらでも良かったが、僕は喉が渇いて仕方がなかったし、アイスすら舐めていない彼女は尚更なおさらだろう。


「いいから、選んで」

 彼女はしばらく目を伏せていたが、やがて一番安い水を指さした。その指を取ってボタンに押しつけてやると、彼女は心持ち目を大きくした。その様が何だか可笑おかしかったが、笑うでもなく冷たいペットボトルを手渡してやる。


「ありがとう」と呟いて彼女は蓋を取った。何となく、見ない振りをしてやろうと考えて自販機に向き直り、自分のぶんの水を買った。背後で鳴った喉の音には気がつかない振りをする。


 ポケットが震えた。暫く画面を凝視していると、冷めた自分に主導権が移っていく感覚がした。

 僕は再び彼女と手を繋ぎ、目的地へと歩を進めた。先ほどまでのべったりとした感触は幾分いくぶんか消えていたが、それまで以上に、僕の歩みはべとべとと重苦しかった。

 繁華街を北へと進んでいく。スナック、飲み屋街と続いていた街路はぽつぽつとあやしい看板が目立ち始めた。風俗店の看板は昼間であっても薄暗い毒気どくけを漂わせている。

 その先はホテル街だった。




 僕らは昼間からやっているホテルの向かいの道路に、並んで立っていた。手は繋いだままで。その場所は昼でも幾らか出入りがあるらしく、現に何組かがそこに吸い込まれていった。想像していたよりも地味な男女が多く、その誰もが年嵩としかさだった。丁度自分たちの父や母くらいの年齢だろう。心がすうっと冷えていくが、それには限りがなかった。どこまでも冷たくなっていく感覚。


「補導されるかな」とひとり呟くと、意外にも返事が返ってきた。

「かもね」


 夏休み、同級生の男女、真昼のホテル、虚ろな無表情。警官でなくとも、誰かに見つかったら面倒だな、とぼんやり思う。


【ホテル『クリサリス』の向かいで、手を繋いで一時間過ごせ】


 馬鹿な指令だ。何か理由があるにしても、あんまり嘲笑的過ぎやしないか。これをスマートフォン越しに打ち込んでいる壬生みぶは、どんな顔をしているのだろう。それはよく知る昼の顔だろうか。

 それとも。


 不意に手を強く引かれて、思わずよろめいた。

「逃げよう」と彼女が言ったとき、僕は反射的に頷いた。何から、という疑問すら瞬時には起こらなかった。走り始めてようやく、ずっと後ろで警官が何やら叫んでいる声が聴こえた。


 ホテル街を走り抜け、住宅街を縫い、ひらけた原っぱに出たところでやっと僕たちは失速する。いつの間にか手は離れていた。その名残惜しさよりも解放感のほうが強かった。僕と彼女は、壬生の思惑を振り切って駆けたのだ。

 短い下草に、大の字に倒れ込む。仰向あおむいて見た空の青は、突き刺すような眩しさをたたえていた。これからどうなろうと知ったことではない。肺に広がる快い痛みが僕を刺激する。


 彼女は僕の隣に腰を下ろして、同じように肩で息をしていた。表情だけは相変わらずだが、肉体は負荷に対してあくまでも素直に反応している。その事実に、少し安堵してしまう。


「生きてる」


 喘ぎながら呟いてみた。耳の奥で自分の声が妙な具合に反響する。肌を焼くに日光も、時折吹くそよ風も、下草の芳醇な香りも、なんだか愉快だった。

 彼女は僕から顔をそむけて、「うん」とだけ答えた。携帯電話を取り出すと、壬生からのメッセージが入っていた。


【後の時間は二人で自由に過ごせ。昨日と同じ時刻に浜へ来ること】


 空っぽの指令をポケットにしまう。勝利や達成は感じなかったが、胸がふわりと軽くなった。今ここで、僕は確かに生きている。


 馬鹿みたいだ、と囁き続ける声には耳を傾けないようにしていた。けれども汗が引いていくのと同じくらいのスピードで、僕の内側も冷めていく。次第に、感情をし取った事実のみが、ぽたりぽたりと心に溜まっていく。ホテル街でたたずみ、警官を見つけたので走り、疲れたから草原に寝転んでいる。何もドラマチックではない。単なる現実的な、有りべき帰結きけつだ。そこに青い熱を読み取る事は、誤謬ごびゅうを含んだ飛躍でしかない。目の前にある現実は如何いかなる角度から観察しようとも、平易へいいな事実の集合なのだ。心惑わす価値があるのか。答えは出ているだろう。


 不意に彼女が横になった。そうしてじっと空を見つめている。眩しいのか、少し瞬きの数が多い。

 僕は彼女と同じ景色を見ている。どこまでも透き通った、雲一つない青空。彼女は何を感じているのだろう。そして、自分自身が感じた思いに対して、どれだけ向き合っているのだろう。ものの見え方はそうやって異なっていくのだろうなあ、とぼんやり考えた。




 草原からの帰り道、僕は彼女と手を繋がなかった。

 夕暮れの住宅街を、ゆっくりゆっくりと辿りながら考える。壬生みぶは最後、自由に過ごせと指示したが、一体何を想定していたのだろうか。アクシデントさえなければ、僕と彼女は壬生の指令が届くまでホテルの前に佇んでいた事だろう。そこから先となると、やはり怖気おじけづいてホテルから遠ざかるか、そのまま二人で入っていくかしかないような気がする。いずれにせよ壬生は無傷で、その結末を嘲笑できるだろう。どうしても壬生の意図がよこしまに感じられてならない。


 あれこれ考えて、結局何もかもどうでも良くなった。意図を知りたいと思えば今夜壬生に尋ねれば良いし、そのときに関心が薄れていれば永久にそのままだって構わない。忘れるのは得意だから。

 最初に落ち合った公園で、僕と彼女は別れた。ここからは別方向だから、と言うので簡潔な挨拶を交わして彼女は去った。


 僕は何となく家に戻りたくなくて、暫く公園をうろついた。太陽は死にかけの弱々しい光を投げている。真昼の苛烈かれつさはすっかり消えてしまっていた。

 ふとベンチの方角を見ると、彼女がアイスを垂らしたであろう箇所に蟻がたかっていた。真昼からずっとそうして餌を運んでいたのだろう。日が暮れかけてもなお継続される作業を、僕はじっと見つめる。アイスと彼女には大それた繋がりはなかったが、ふと、こうして残した一切が綺麗さっぱりなくなるまで奪いつくされてしまう様に虚しさを覚えた。結局、何をしてもこのような結末が待っているのなら、生きている事に豊かな感情やしみじみとした想いを抱く事はそれだけエネルギーの無駄であるように感じてしまう。


 生きている、それは単なる現象であって、殊更ことさらに祝福しても裏切られるだけではないだろうか。ならば初めから何ひとつ期待しなければいい。ただ動く肉であればいい。路傍ろぼうの石にこそ共感しなければならない。

 そうして最期には、喰われていくのだ。


 今夜僕は、本当に浜へ向かうのかどうか。それすら答えが出なかった。

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